英雄と噂される賢者が放浪する理由は
真っ黒な影が徐々に東へ伸びていこうとする頃、さんさんと輝く太陽に照り付けられ、潮の匂いがする風が吹く街道を一組の男女が歩いていた。
薄汚れた砂色の外套を纏い、深海のような藍色の玉がはめられた杖を持つ彼の名をエダシク・ドゥーベといい、白くまだ新しいローブを羽織り、盛る炎のような紅色の玉がはめられた杖を持つ少女の名をメローペ・アルフェラッツという。
透きとおる真っ青な空には白く輝く雲が伸び、大地に滋く草花は鮮やかな緑色をして日へ向かい、崖下に広がる砂浜には陽炎が揺らめく。玻璃のように煌めく海は命を感じさせる。
二人はは数刻前に横を過ぎ去った馬車が残した轍を頼りに、次の街へと向かっていた。
メローペは絹のような柔肌を晒し、エダシクの前を右へ、左へ、くせのある薄桃色のショートボブを揺らしながら自分の興味が示すがまま無邪気に行きかう。
しかしそんな彼女と比べエダシクの足取りは重く、瞳は暗く呑まれている。
それというのも、エダシクはつい先日愛するものを失ったばかりなのだ。
エダシクにとってそのものとの一時は、短くもいとおしいものだった。胸が高鳴り興奮し、愛することの喜びとその尊さを感じていた。
だがその想いは終わりと同じことだと知っていた。なぜならそれは初めての体験ではないから。
初めて恋をしたのは十七の時、師と仰いだ賢者に連れられ郊外へ出た時の事だった。その時初めてエダシクは恋を知り、興奮と喜びを知った。それと同時に自らの呪い、或いは因果を悟った。
愛した相手が人間によって殺められるという呪い。
皮肉にもエダシクは恋多き男だった。
人からの紹介や偶然の出会い、生まれた恋心は運命に轢き殺された。それでも、恋し、愛することをやめられない。それはある種の恋愛依存ともいえるだろう。
エダシクが旅をする最も大きな理由はこれだ。
自らに課せられた呪いを解き、しがらみから逃れること。
賢者と呼ばれる今に至ってもなお、その方法が見つからず、ただひたすらに探し求めていた。
そんな身勝手な理由で旅をしているにもかかわらず、自分の事を師と仰ぎ、何処までもついてくるメローペという少女の存在がエダシクには理解できなかった。
言うなれば、ただ理想の愛という存在も怪しいものを追い求め放浪しているだけな身である自分を、敬い付き従うなんて到底正気だとは思えなかったのだ。
彼は当然、なぜついてくる、そうメローペを問いただしたことは何度もある。その度に、お師匠様は素晴らしい方、命の恩人などと言われる。
彼には全く心当たりのないことだった。しかし彼女はそう答えるのだ。
エダシクにはその反応が不思議で仕方がなかった。自分は彼女に何もしていないのだから。
「お師匠様のお噂はどこへ行っても聞こえてきますね」
メローペがそんなことを口走る。
「……ああ」
「メローペはお師匠様のお噂を聞けて嬉しいのですよ」
エダシクの道を塞ぐように、満面の笑みを浮かべたメローペが躍り出る。
溜息を吐き、彼は仕方ないように立ち止まる。
「お師匠様の善行が、小さな村の方たちにも知られている、とってもいいことだと思うのですよ」
彼は儚げな彼女の微笑みを一瞥し再び歩き出す。
彼女の言う噂というのがどういうものかというと、まさに英雄のような賢者の噂だ。
その賢者は貧富の差も身分も関係なく、モンスター、害獣の依頼であればなんにでも応え、どれ程強大な相手でも迅速に依頼を達成し、報酬を受け取ることなくただ静かに去っていくというのだ。
そんな噂に彼は興味などなかった。
当然と言えば当然と言える。彼が求めているのは金でも名誉でもなく、自らを呪いから解放してくれる、言わば運命の相手だからだ。求めているのは身を焦がすほどの愛を受け入れ、自分を愛してくれるそんな相手だからだ。
「メローペはお師匠様と会ってまだまだ長くありません。なのでお師匠様が何を悩んでいるのかよくわからないのです。メローペは、お師匠様のためなら何でも、どんなことでもしてあげるのです」
エダシクの隣を歩きながらメローペは語りかける。
「……そうか」
慰めていると言うことくらい彼にもわかっていたが、お前に一体何ができるというのが本音だった。
口に出さずともメローペの黄金色の瞳は、一瞬だけ彼の顔がぴくりと動いたのを見逃すことは無く、それだけで自分は頼られていないのだろうと悟った。
気まずくなったのかメローペはエダシクの隣を離れ、海の匂いを嗅ぎ、地を這う虫や草花の観察を始める。
やがてさしかかった分かれ道、一方は草地を進み林へ、一方はこのまま海沿いを行く道だ。エダシクは迷わず右の海岸沿いを選び、メローペはその判断に嫌な顔一つせずただ従ってついて行く。
まだ見えてこないが、このまま進めば大きな港町がある。彼はひとまずそこを目的地にしているのだ。
港町へ向かう途中、茂みの向こうに広がる林から木の間を縫って女性の叫び声のようなものが響いてきた。
向こうは林間を抜ける道だ。盗賊の巣になっていてもおかしくない、エダシクはそう割り切って気にも留めない。
「お師匠様、叫び声ですよっ! 助けに行かれないのですか?」
「きっと向こうは賊の根城なのだろうな。ならもう助からん、諦めろ」
指さし慌てる素振りを見せるメローペを説き伏せようとする。
「でもまだ助かるかもしれませんですよ、お師匠様ならきっとできますですよ」
「そうか、私はそうは思わんな。出来たとして、人が相手は気が進まん」
エダシクはかたくなに動こうとせず、騒ぐ彼女を見据えていた。
「お師匠様がいかないとおっしゃるならメローペ一人で行きますです」
エダシクは彼女の瞳の奥に、これは正しいことなんだと訴えかけるような意思を感じていた。
彼は深く溜息を吐くと、その相手に刻み付けるように告げる。
「お前一人が言ってなんになる。何ができる? 何人いるとも知れぬ賊の巣に突撃したお前は瞬く間に捕まり服を剥かれるだろう。その後は、男たちの玩具にされ、辱められるだろう。好き勝手に貪られ、飽きられれば殺されるか奴隷市場行きだ。それでもいいなら好きにしろ」
それは説得よりも脅迫に近く、瞳の奥にあった意思が僅かに揺らいだのをエダシクは見た。
「メローペはそれでもいいです。何もしないよりはいいです」
メローペが走って行こうとした時、二人はようやく林の上を飛ぶ物体の存在に気がついた。二対の翅を高速で羽ばたかせる黒い物体に。
それを見たエダシクの胸は高鳴っていた。
「お師匠様、モンスターですっ、モンスターなのですよ!」
「ああ、そうだな」
エダシクは目を閉じてそう返す。
林の途切れるあたりから助けを求める声が響きわたり、声の主が現れる。その人物は、艶のある長いブロンド髪に値がはりそうな黒い生地に白のレースで縁取られた少女だった。
「まだ生きていたですよっ、お師匠様っ、助けに行くです!」
メローペはそう叫んで駆け出すが、現れたモンスターがブロンド髪の少女とメローペとを隔てるように降り立つ。
それは近くで見ると実におぞましい虫のような姿をした生き物で、顔には六つの複眼が並び、わしゃわしゃと動く鋭利な顎は、その間から赤い血液が滴る人の足が垂れている。胸に当たる部位からは透明な灰色をした二対の翅と、とげだらけの肢が六本伸び、大きく膨らんだ腹部の周りには、側面から生えた生々しい黄色をした三対の触手が蠢いている。
さらに、潮の匂いに加えてこの生き物が放つ腐肉臭が漂い出す。
それはムスカルス・ローパという名で、人や家畜の肉を食む昆虫型肉食性のモンスターだ。
「お、おししょうさまぁ」
外見や臭いによる嫌悪感からか、先程までの威勢は彼女から感じられない。
対してエダシクはというと、呼吸を荒げて頬を赤く染め、股間を大きく膨らませていた。
「いいねえ君の香り、香水か或いは果実のように私の鼻腔をくすぐるよ。その瑞々しい触手も、ああ、なんと実に美しく力強いことか。君の肢もそうさ、まるで陶器か宝飾品のようなじゃないか」
ムスカルス・ローパは頭と口器は忙しなく動かすが、その場を動こうとしない。彼からすれば、獲物が増え、どれから喰らおうかというだけの問題なのだ。
「お師匠様が魔法を唱えている間、時間を稼ぐのですよ」
メローペは自分の杖を力強く握りしめ、自分にできそうな魔法を想起し、詠唱を始める。
エダシクはぶつくさ言っているが、決して魔法を唱えているわけではない。ただその声は小さく、近づかなければうまく聞き取れない。
「君の瞳に私も映っているのか、ああ、その赤く鮮やかな宝石のような眼にどう映っているのか、想像するだけでも興奮するよ。そうだ、ああそうだ、君に彼女たちをご馳走するよ。さあ、好きなように召し上がってくれ。いや違う、私だ、私を食ってくれ、さあ、私を君の麗しい口へと案内しておくれ」
次第に周辺のマナに流れが生まれ、ムスカルス・ローパへと収束していく。
それはエダシクの情欲が留まることなく増幅していることを現していた。
「さあ、私を食らってくれ、食い散らかしてくれ。そして残った私の肉片に、君の卵を産み付けてくれ。私は君の血となり肉となり、それでいて君の子を孕み産み落したいんだ。さあ、私たち夫婦初の共同作業をしようじゃないか。足りないなら彼女たちも好きに召し上がってくれ。君に食べられ君の身体を巡る、残りは子供たちの糧になるんだ、素晴らしいじゃないか。さあ、愛しい君よ、君と融けあいたいんだ、君の子を孕みたいんだ。さあ私を、孕ませてくれ」
膨れ上がったマナは劫火となって果て、ムスカルス・ローパを包み込む。
それは人を救う炎であり、エダシクの愛の炎そのものであり、また、エダシクの失恋をもたらす炎でもある。
異形の身体は灰へと変わっていく。
エダシクの愛したものは人間によって葬られる。それは彼自身だ。エダシクの思い、情欲が頂に達した時、そのものを討ち滅ぼす魔法を発動させてしまう。同時に気付くのだ。今、自分が愛した、愛そうとした相手は自分が殺した、と。
炎が消えた時そこに遺されていたのは、異形だったものの灰と、先程犠牲になったものの骨だけだ。
「流石ですっ、お師匠様」
メローペが嬉しそうに声をあげて抱き着いてくる。
その言葉は彼にとって実に虚しい言葉だ。
愛したものを自ら焼き殺したことによる称賛なのだから。
エダシクが先程まで感じていた胸の高鳴りも、股間の膨らみも、まるで最初からなかったかのように失せていた。
どうせ抱かれるなら、今、自分が焼き殺したムスカルス・ローパという異形に抱かれたかった、彼はそんなことを思いながら、憎らしいほどに清々しい青空を見上げた。
終