うさぎと彼女
一睡もできなかったぼんやりする頭で、昨夜寝室に現れなかった妻、綾香のことを考えていた。
飲み会で知り合い、それから二人で連絡を取り合うようになって、彼女から告白されて付き合うことになったのがきっかけで。彼女は僕の一つ上で、明るく気遣いのできる女性だった。
結婚したのは僕が27、彼女が28の時。なんの迷いもなかった。
お互い子供好きで、子供を望んでいた。彼女が30の時、不妊治療を自ら受けると言った。
まだ、そんなに焦ることはないんじゃないか、そう思ったが言い出し始めたら聞かない彼女に、僕は折れた。
それから三年だ。
不妊治療とは、男にはわからない辛さや不安、葛藤があるんだろう。
できるだけ、僕は彼女に優しく接するように努めた。
そして、挫けた彼女に僕ができるのは、やはり優しくすることしか、ない……
身支度を整えて、リビングに入るとまず目に入ったのは砂色の毛玉と戯れる綾香。
「おはよ。綾香、そのこ………なに?」
小さな、彼女の手のひらに収まりかねないほど小さな毛玉は、モルモットというには毛がすべらかで、ネズミやリスにも見えない。
「あはは。きょうくん、うさぎさんだよ。まだ小さいからお耳が短いんだよねー?」
後半は、そのうさぎに声をかけるように頬ずりする彼女。昨日の悲壮さはもう感じられない。
「へぇ。うさぎって小さいときはこんなんなんだ」
彼女の前に座り込むと、そのひくひくと動く鼻が愛らしく、くすぐるように指で撫でてやる。
この毛玉が、彼女の気持ちを慰めてくれるならそれもいいのかもしれない、そう思ったとき、彼女がつぶやいた。
「女の子だからね、名前は花菜ちゃんにしたの」
嬉しそうに微笑む彼女。一瞬僕は、固まってしまった。女の子が生まれたら、花菜と書いてハナと読む。それは、彼女が生まれてくる赤ん坊のために考えていた名前だった。
「そっか。はなちゃんか、俺にもなついてくれるかな?」
ぎこちなさをごまかすように、そんなことを言う僕に彼女はその砂色の毛玉を差し出して頬に当ててくれた。
柔らかな毛の感触。干し草の匂い。ほんのりと伝わるぬくもりに僕も微笑む。
「じゃ、僕仕事行ってくるよ。綾香も、はなちゃんもいい子にね?」
綾香の頭と、その手の中の小さな毛玉の額もくすぐるようになでて、僕は仕事場へと急ぐ。
幸せそうな日常。でも、なぜかそれがとても居心地悪く、僕は逃げるように家を後にした。