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「い……っ」
「ごめんごめん。あともうちょいやから我慢してなぁ?」
如月は遠慮がちに消毒液で濡らした綿を田崎の腕の傷に添える。かなり沁みているのか、田崎はギュッと目をつぶって痛みに堪えている。
「よしっ、あとはバイキン入らんようちゃんとガーゼして終わり! 完璧やわぁ」
本来、若様に用意されていた部屋にて、如月は田崎の治療を終える。切り傷やら打撲痕が所々に見られ、如月の目から見てもかなり痛々しかった。
「俺なんかより……莉都さんの治療をしたほうが……」
「大丈夫やって〜。潰れとる男どもを拘束するついでに、槇さんが治療道具持って行ってるんやから、手厚く治療されとるよ。もうちょっと2人きりにさせたってもええのに、槇さんは仕事マンやからのぉ」
「さすがに、いつ意識を戻すか分からない敵がいる場所に、いつまでも若様と莉都さん2人で放置するのは……」
「あははっ! シュウくん、真面目やねぇ。若がそばにおるんやったら弓森は無敵やろ。もともと無敵なやつなんやから」
元気にそう口にして、如月はパタリと笑みを閉ざす。彼の頭には、顔に大きな痣を作り、腕を無気力に垂らした、「らしくない弓森」の姿が思い起こされていた。
「弓森がやられるなんて、俺、想像もしてへんかったんよ。……若がおらんなったら、あいつは体もまともに動かせんようなるって分かってたんになぁ。……あいつ強すぎるから、負けるとことかまったく想像つかんかってん」
あのとき、如月がとった行動に間違いはない。如月が優先すべきは若様の命だけだった。それを如月とて後悔はしていない。ただ、罪悪感はあった。
「……莉都さんは、負けてませんよ。体が動きづらくなっても、全然強くて……俺のこと気にしたせいです」
「それこそ、シュウくんが気にしたらあかんよ。シュウくんに無茶させたんは俺たちなんやから」
如月は励ますように言って、ポンポンと優しく田崎の背中を撫でた。
「……弓森も、たぶん気にしとらんよ。あいつは、そういうやつやから」
数時間前の田崎なら、その言葉を「莉都は不真面目でいい加減なやつだから」と受け取ったことだろう。
でも今の田崎には分かる。
莉都はただ、若様の命令を守ることしか考えていない。自分がどんな怪我を負ったとしても、結果として若様の命令を守れたなら、莉都はそれでいいと思うようなはっきりした人だ。
ヘマをして、足を引っ張った田崎をどんな言葉で罵ることも、莉都にはできたのに。「最初に忠告した」「口だけかよ」そんなふうに、田崎を罵倒することも許されたのに。
きっと彼女は、そんなことを考えることさえ、面倒がる人。
あの苦痛な時間の中で、田崎はほんの少し、莉都のことを知った。
「弓森は、おもろい子やろ?」
莉都への不満も、小言も言わない田崎に、如月はそんな質問とともに笑いかけた。
けれど田崎も、それに頷くのはまだ不服なところがあって、肯定する代わりに別の質問を如月に投げかけた。
「如月さんは……若様が【ファミリア】に莉都さんを選んだって知った時、素直に納得できたんですか?」
如月は、とても喋りやすい良き先輩。そうでありながら、槇と並び立つほど優秀な使用人だ。
そんな如月なら、田崎以上に莉都が【ファミリア】になることに思うところがあったはずだ。
田崎が真剣な顔で問いかける。あまりの真剣さに、如月は少しだけ申し訳なさを感じて苦笑していた。
「あはは……それなぁ、若に弓森を勧めたん俺やねん」
「え?」
初耳を通り越して、耳を疑うような話に田崎は眉を寄せた。対する如月はやはり、苦笑したまま。
「たぶん俺もシュウくんの嫌いなタイプの人間やと思うよ。……俺は【ファミリア】になりたいって最初から思わんかったんよ。若が【ファミリア】を捜すようになったときも、俺は立候補したいとも思わんかった。……まあ、若も俺なんか【ファミリア】にする気なかったやろうけど」
「どうして……」
「どうしてって【ファミリア】の契約えぐいやん。俺はたしかに天ヶ崎家に忠誠誓ってるけど、この家のために死ぬんは嫌やもん」
如月は「情けないやろ?」と笑った。とても人間らしい臆病な心。
それを「最低だ」と否定することはできなかった。あの莉都ですら「死ぬのは怖い」と言っていた。
ここで田崎が「若様のためなら死ねる」と言ったところで、それはきれいごと。人質になって、莉都に助けてもらって、そんな田崎には口が裂けても言えない。
何より、【ファミリア】の契約のすべてを知ってしまった今、田崎に言えることは少なかった。
田崎が何も言い出さないことに、如月はほんの少し驚いている。「これも弓森のおかげなんかなぁ」などとのんきに言いながら如月は話の続きを語り出す。
「俺も昔ヤンチャな時あってな? 『3番街』のゴロツキの巣窟に居着いてたときあるんよ」
『3番街』は誰もが知る悪所。ろくでもない人間のたまり場だ。少なくとも天ヶ崎家の使用人になる人間が、過去にも未来にも居着く場所ではない。
莉都がそこの出身であることも、少なからず使用人たちのあいだで波紋を呼んでいることだった。
「如月さんが3番街に?」
「そう。でも俺は、お遊びでおったってだけやから素性も隠しとったし、あんま出過ぎたことせんと下っ端の下っ端みたいな感じやってん。もちろんそんな俺のこと、弓森は知らんかってんけど……」
如月は莉都のことを知っていた。知ろうと思わなくとも、あの3番街に住み着いていれば、嫌でも莉都のことは知ることになる。それくらい莉都は、3番街では有名人だった。
「まだ高校生にもならん歳で、たった1人で自分より年上の十数人の悪ガキと喧嘩して無傷で勝ってまうよんなヤツやってんよ」
嘘みたいな話。けれど莉都の先ほどの戦いっぷりを見ているからこそ、田崎はその話を疑おうとはしない。
「そんな人を、若様の【ファミリア】に?」
けれど、それだけは納得がいかなくて、田崎は訝しむような顔で如月を見つめる。如月も田崎がそんな顔をする理由が分かるからこそ、慌てて両手を左右に振った。
「あっはは! 俺もただのヤンチャ娘を若に勧めへんよ。……弓森は昔から、ほんと変なヤツやってん」
しみじみと呟いて、如月は懐かしい思い出に浸る。
「むかーし、俺が居着いとったグループの奴らが弓森に喧嘩ふっかけて、それで全員やられたときあってんけど。弓森に比べたら、俺弱いし、痛いのも嫌いやさかい、弓森に殴りかかることもできんくて、結局最後に1人だけ残ってしもたん」
周りにはやられてしまった仲間らしき人物たちが転がっていて、立っているのは如月だけ。当然、莉都の狙いは如月に移るだろうと思っていた。如月は気絶したふりでもしようかと思っていたのに。
莉都は自分に殴りかかってくる男どもを全員始末すると、如月には見向きもせず帰ろうとしたのだった。
「俺、そんな弓森を引き止めて『俺には何もせんの?』って聞いたんよ。何かして欲しいみたいな言い方で、今思い返すとあんまアホやなって感じなんやけど。そしたら弓森なんて言うたと思う?」
田崎は首を横に振る。それを見て、如月はちゃんと答えを明かした。
「『別に、あんたは殴りかかってこないし。絡んでくるならやり返すけど、自分から喧嘩売るなんてひどく面倒。てか、この説明も面倒』やて」
如月は「めっちゃおもろいやろ?」と言って、一人ケラケラと楽しげに笑った。
「あいつはな、昔から面倒くさがりやねん。しかも面倒の概念が人とちょっと違うてて、和解のための交渉よりは喧嘩したほうが手っ取り早い。喧嘩をふっかけてこられたら、さっさと始末したほうが早い。ふっかけてこないやつをわざわざ突っかかって相手にするのは面倒。そういう超簡略化思考なやつやってん」
昔から、莉都のその根本だけは変わっていない。
「弓森は、そんなん全然覚えてへんのやけど。根がすんごい素直で、悪いやつやないって俺は知ってたから。……せやから、若が【ファミリア】を見つけるって言うた時に、紹介した」
その言葉を告げるときだけは、如月も真面目な顔をした。笑い事でも冗談でもなく、真剣に。
それは、彼がちゃんと考えてした行動。
「弓森は善人やないよ。でも【ファミリア】は善人である必要ないんよ。ただ強く孤高に、若のそばにおってくれればええ」
まるで今の莉都のように。
「誰を敵に回しても、若のそばにおる。若のためだけに動くことができなきゃ、それは【ファミリア】やない。みんな、弓森に反対して、俺や槇さんのほうがええって言うたけど、それは大間違い」
一番適任なようで、彼らは一番不適任だった。
彼らは若様のためにすべてを投げ打って尽くすことはできない。
「槇さんはもともと天ヶ崎家との繋がりが大きい人やから、若というより天ヶ崎家に仕えてる。せやから天ヶ崎家のトップたる現当主様の意見があれば、若様を放ってでもそっちに耳を傾けてまうし……俺はこんな臆病な性格しとるから、他人の言うこと全部無視してまで、若の言うことを一から十まで全部聞くなんて無理」
絶対味方でいる――この約束は簡単なようで、とても難しい。
叶えるためには、その相手が無類の強さと、すべてを捨てる覚悟を持っている必要があった。
「それができるんも、できたんも、弓森だけなんよ」




