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01

 世の中は広い。

 嫌になるくらい広いから、予想にもしないことが起きることだってある。

 そんなことくらい分かっているけれど、彼女は驚いていた。


「君に、僕のことを守ってほしい」


 彼女が鉄パイプを振り上げた瞬間に、目の前の男は笑顔で言った。

 今まさにその男を半殺しならぬ3分の2殺しにしようとしている彼女に向けて。

 あまりにも突拍子もないことを言われ、彼女は鉄パイプを手から滑り落としてしまった。


「何それ、新手の命乞い? まったく面白くない」

「いいや、すごく大真面目だよ」


 まるで不幸とは無縁な世界で生きてきましたと言わんばかりの綺麗な顔で、男は笑っている。

 擦り傷や打撲痕が散らばっているのに、男の顔は綺麗に見える。

 数十分前――彼女の前に姿を現したときの彼は間違いなく、傷ひとつないしっとりした肌の美しい顔をしていた。

 光る金色の髪が映える色白の顔。瞳は少し青みがかっていて、それすらも恨めしいくらいの美を輝かせていた。

 まるで育ちを表すみたいに、キラキラと。


「あんた、すっごいお金持ちでしょ。こんなとこ来るもんじゃなかったね」


 容姿だけじゃない。着ている服もこのあたりで見かける人間が着るようなものではない。

 一生、着ることもないような質の良い服を着て、こんな汚い路地裏にやってきた。


 この男は無知で愚かな、幸せ者。


「ううん、来て正解だった。顔とか体もすっごく痛いけど。君がいいって再確認できたから」


 加えて言うなら、そうとうのドMと言ったところか。

 気持ち悪いとでも言いたげな顔で、彼女は男の胸倉をつかんだまま彼の顔を見下ろす。


「いやだなぁ、そんな顔しないで。君にはきっと笑顔が似合うよ」

「あっそ。でもそんなのあんたに関係ないよね」

「ううん、関係大ありだよ。これから一緒に過ごすんだから」


 彼女の疑問の声は、コンクリートと革靴がこすれ合う激しい音にかき消される。

 男に手を取られ、彼女の体は押し倒されそうになる。しかし、彼女は傾いた体を器用に動かして、男を逆に押し倒した。


「わあっ、ここはおとなしく押し倒されてくれないと、僕の顔が立たないよ」

「安心していいよ。立てる顔なんて、すぐに潰してあげる」


 彼女は無表情で言って腕を振り上げる。

 けれど男はまだ楽しげに笑ったまま。


「一応、顔は大事にしているから……これ以上潰されるのは困るかな」


 困ったような声でそんなことを呟いて、男は軽く腰を浮かせた。


「本当は了承を取ってからにしようと思ったんだけど、ごめんね」


 謝罪の言葉を吐きながら、男は彼女にキスをした。

 もちろん、彼女は激しく抵抗して、そのまま腕を振り下ろす。


 しかし、彼女の腕は男の顔面すれすれで止まってしまった。止める気など、まったくないのに。

 彼女の腕は動かない。


「うーん。ファーストキスだから、比べようがないのだけど、キスって血の味がするもの? イチゴの味だって、物語にはよく書いてあるんだけど」


 何が起きているのか状況を理解できない彼女を放って、男はのんきにキスの感想を述べている。

 それすら腹立たしくて、彼女は男の頬を殴るべくもう一度拳を振るうが、やはり届かない。


「あんた……なにしたの」


 彼女が顔をしかめながら尋ねる。彼女の長い髪が男の頬にかかって、男はくすぐったそうに無邪気な笑みを浮かべた。


「君が僕を守ってくれるように、っていうおまじない――なんて」

「ふざけたこと言ってないで……っ」


 彼女は真顔で言って、ポケットの中からライターを取り出して、男の顔面に向ける。

 しかしライターに火はつかない。

 男の顔から離すとつくのに、そのまま男の顔に近づけると火は消えてしまう。


 不可思議な事態に彼女は困惑していた。

 その彼女の困惑さえ包み込むように、男は彼女の手を握って、ふわりと笑った。


「君の強さが、僕には必要なんだ」


 男の言葉は、本当におまじないみたいに彼女の心にしみこんで――。


「どうせ手を汚すなら、僕のために君の手を汚してほしい」


 どこの喜劇でも聞かないセリフ。それをまるで口説き文句のつもりで、男は言ってのけた。


「僕と主従の契約をしてください。……って、もうしちゃったんだけどね」


 テヘッとお茶目な仕草をしてみせる男を、殴りたいのに殴れない。

 彼女のうんざりした顔を見て、それでもやっぱり男は満足そうに笑っていた。







★★★







 それから2年。


 まるでダンジョンのような造りの豪邸。一定間隔で取り付けられている無駄に明るいシャンデリアが照らす、長広い廊下。

 レッドカーペットの上を、その雰囲気に似合わないピンク色のスニーカーが駆ける。軽快で、それでいて力強く、小刻みに響く足音。適度な長さの髪が跳ねるように舞っている。


 その前方では、スーツを着た無精髭の男が乱れた呼吸を整えることもできぬまま、おぼつかない足でひたすら逃げている。乱雑に響く足音は、後方を走る軽やかなステップの少女とはまるで正反対。


「ひ、ぃっ」


 苦しげな息とともに男の口からは、そんな声が漏れる。

 それを耳にして、スニーカーの少女はため息を吐きながら、大きく踏み込んだ。その勢いのまま、まるでバネを踏んだかのような様で空中を飛び上がる。


 少女が跳ねたことに気づいた男は、後ろを振り返り、声にならない悲鳴をあげた。


 ドタン、バタンと倒れる音に続き、ガッと痛い音が周囲に広がる。


「……逃げる前に盗んだ物返してください。おとなしく返したらどいてあげますから」


 髭の男の耳に聞こえるのは、落ち着いた可憐な声。

 しかし、男の間違いでなければ、その声の持ち主は今自分に飛び蹴りをかまし、倒れたその男の顔を蹴り上げて顎を掴んでいる、目の前の凶暴なスニーカーの少女だ。


「すっごく面倒なんで返してくれたらこれ以上痛いことしません。まあはっきり言って、若様の髪の毛なんて回収したくもないですけど、そこらへんの骨董品なら盗んでもいいらしいんで取り替えてください」


 顔にかかる横髪を耳にかけ、少女は心底気だるげに、本音をもらしながら、主人からの伝言を口にする。


 この豪邸のあるじは、相当の権力者。そして、少し変わった力を持つ血族といわれている。

 言わずと知れた高貴な人間。そんな人物の血や肉、身体の一部なら髪の毛一本ですら、その界隈では高値で売れるのだ。


 それほど位の高い人間が住む館に、優秀な護衛がいることは、当然その髭の男も知っていた。

 もちろん彼とて最初から殺られる覚悟で突入したわけではない。優秀な護衛相手にも逃げ切れる護身術と逃げ足を兼ね備えている、その自信があったからこそ、彼はこの屋敷に侵入した。


 よくよく考えてみれば、驚くほどに簡単に侵入できる穴だらけの警備だった。それを不審に思うことなく、男は不在の主の部屋に忍び込み、その室内を這って奇跡的に見つけた髪一本を手にとったところで、その少女に見つかったのだ。


 誰かに見つかる、そこまでは想定内。男の想定外は、たったの2点。


 1点は、屋敷の中に高貴な人間と共に本来住むべくもない、猛獣が潜んでいたこと。

 そしてもう1点は――。


「えっと……こんなに言ってるのに返さないんですか? 死にたがりですか? 理解できないですけど、一応言いましたからね?」


 第一発見者となったその猛獣が、まだあどけなさを感じさせる、若い少女だったということ。

 その見た目から彼女を見くびって、愚かにも男は油断し、逃げる足が一歩遅れてしまった。そうはいっても、たとえ逃げる足が出遅れなくとも、彼女に見つかった時点で、男が逃げ切る可能性はゼロになったわけだが。


「ご、ごご、ごめんなさい。ゆ、許して」

「だから返せば許しますって」


 冷静に告げながら、少女は男が逃げられないように、男の右足の骨を折る。いとも簡単に、慣れた動作で少女は男の身体を壊した。男の悲鳴は屋敷の中に憚ることなく響いている。


弓森ゆみもり、それくらいでいい。わかに手を出してないだけマシだ。後は警察に任せる」


 男と少女のいる場所に追いついてきた、高身長の執事のような男が静かに少女の行動を止めた。

 事態は最悪だが、少女による冷静な拷問は終わる。そう、髭の男は思っていたのだが。


「だから、返せって言ってるんですよ。いい加減、返してくださいよ。どうせ警察きたら出さなきゃなんですから、早めに出しちゃったほうが楽ですよ」


 少女は執事の言葉に耳を傾けることなく、今度は男の背中に乗り、男の折れた右足を左足と共に容赦なく持ち上げて、反らせる。今度は腰の骨を折らんばかりに。


「ひ、ぐぁぁああっ、出しますっ、出しますからっ!!」

「弓森! ……ああっ、若、いいところに。弓森を止めてください。あなたの命令が発動してるので俺が止めても止まりません」


 髭の男の叫び声に導かれたかのように、『若』と呼ばれる男が現れた。


 その敬称がとても似合う、王者の風格を漂わせる黄金色の髪を揺らす男が、柔らかく微笑みながら髭の男と、その少女のことを見つめている。片手には茶色い紙袋を持って。


「うわあっ、莉都りとのアレは痛いんだよね。本当に腰が折れちゃいそうなくらい! 見てるだけで痛いよ。思い出しちゃって」


 のんきに過去の記憶なぞ呼び起こしている。その金髪の男こそが、高貴な身分の、この豪邸の主。

 その事実に、髭の男はある意味驚愕していた。


「若、思い出に浸っとる場合ちゃうて。あのおっさん、弓森に殺されてまうで〜」


 主の隣に立つ、茶髪にヘアピンの男は困り顔だ。

 喋りこそ一般的ではないが、一番一般的な感性を持っているように髭の男には思えた。

 関西弁の男の忠告を聞き、主はふざけているのか、もともとそういうタイプの人間なのか、ポンと手を打って、「莉ー都」と甘ったるい声で少女の名を呼んだ。


「それくらいでいいよ。髪の毛は警察が没収してくれるだろうし。……『僕の髪の毛を取り返して!』なんて、とても恥ずかしいお願いだけど」

「そんな恥ずかしいお願いを私にしたのは誰ですか」

「仕方ないよ! 僕だってビックリしたんだから!」


 シュンとなりながら主が告げる。のんきなやり取りをしながらも、少女は主の「それくらいでいい」を聞き入れて、男を痛めつける手を止めていた。けれども髭の男が逃げられないように、背中には乗ったまま。

 本当に従順すぎるほど素早く、少女は行動を切り替えた。


「ていうかなんで弓森が第一発見者なん? この男、若の部屋に侵入したんやろ?」

「いい質問だね! 桐臣きりおみ!」


 髭の男が捕らわれている現状を忘れ去っているかのように、楽しげに雑談が始まる。主は関西弁の男の質問に、嬉しそうに答え始めた。


「とうとう莉都が僕の部屋に来てくれるって言うものだから」

「わあっ、ハレンチやわぁ。いつの間にそないなとこまで発展しとったん?」

「若様、あることないことほざいてると、殴りますよ」

「莉都は僕を殴れないじゃな〜い……ゴメンナサイ、怒らないで」


 少女の本気の睨みを受けて、主はその威厳すら放り捨てて、少年のように無邪気な顔をして謝っている。けれどもすぐに調子を取り戻して、関西弁の男への説明を再開した。


「僕が莉都の部屋に入り浸っていたら、莉都が僕の部屋に行くって言い出してね。僕は莉都を追って自分の部屋に向かったんだけど、そこで猛スピードで去っていくそこの男性とすれ違って……僕の部屋の前に立っている莉都がその男性を指しながら『あの人、若様の髪の毛持って逃げましたよ』って平然とした顔で言うわけだよ。もう僕ってば、髪の毛が取られた!? ってよく分からずに焦っちゃって。つい勢いよく『追いかけて奪って!』って莉都にお願い・・・したわけ」


 ちゃんと説明して、主は満足げな表情を浮かべている。

 しかし、髭の男の傍に立つ執事のような男は、主の説明にため息を返した。


「つい、ではなく、本来とるべき行動ですよ、若。あなたの体はたとえ髪一本でも世間に出回れば混乱の種になるんですから」

「冗談だよ、京介きょうすけ。ここは桐臣みたいに笑ってくれなきゃ」

「冗談に聞こえる冗談を言ってください」


 関西弁の男の愉快な笑い声に包まれながら、執事のような男は額を押さえる。

 髭の男の上に乗る少女に至っては、その背中に乗ってとてつもない握力でもって男を床に押しつけたまま、のんきにあくびをしている始末。


 常識も何もない、とんでもない屋敷。


「ていうか、こういうの結構あるし、面倒なんで……いい加減、警備ちゃんとしたらどうですか」


 眠そうな声で少女は男たちに提案する。もっともな提案に対し、執事のような男がさらにもっともな意見を返してきた。


「野放しにするより、実際に行動を起こさせて捕まえた方が、若を狙う輩の絶対数を減らせる。その代わり、侵入したやつは確実に捕まえてもらう。こっちのほうが効率がいい」


 そしてまさに、髭の男はその策略にまんまと引っかかってしまったのだ。


「でも捕まえてるの、ほとんど私じゃないですか。そこのバカ若様がえらくこき使ってくれますしね」

「ははっ、弓森がおるからそういう体制に代わったんよ。お前来るまでは警備ガッチガチやってんで〜? 若の部屋周囲は鉄格子だらけやったし」

「そうそう。本当に窮屈な生活をしていたんだ。今の自由な生活は莉都のおかげ。莉都様様だ」

「自由通り越して、人の部屋にまで侵入しないでくださいよ」


 不法侵入者を捕らえた後とは思えないほど穏やかな空気。

 彼らの生活において、これは本当に日常茶飯事のことなのだろう。

 警察につき渡される地獄の寸前で、こんなほのぼのとした会話の中に身を置かなければならない。髭の男にとってはこれすら拷問に等しい。


「まあまあ、そんなにぷりぷりしないで、莉都。そんな莉都もとってもかわいいけどね。ちゃんと捕まえてくれたご褒美」


 語尾にハートマークが飛んでいる。そんな声音で言って、主は持っていた茶色の紙袋の中からピンク色のそれを取り出した。


「はい、イチゴ牛乳」


 少女の頭の上に乗せて、主は幸せそうに笑う。

 自分を狙う男が真下に組み敷かれているというのに、何の警戒も示さない。

 その少女が、絶対に男を逃さないという確信を持って、まるで髭の男の存在などすでに眼中にないみたいに。


「……ありがとう、ございます」

 

 髭の男の頭上、少女は小さな声で、お礼を言っていた。


 それが、天ヶ崎あまがさき家の、とある日常。

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