火葬
「随分とまた大きな家ですねえ」
目の前にそびえたつ白塗りの巨大な門を見て、私はそう言わざるを得なかった。六月も下旬、梅雨も明けて日差しはいよいよ夏の到来を告げている。真っ白な半袖ポロシャツが目に痛い先輩の酒井さんも暑さには参ってしまった様子でその門、つまりこの家の玄関を見上げた。
「少し昔はまあそれなりに栄えていたようだなあ。傘下の企業がいくつか潰れてからは没落する一方だったらしいけどな」
「インターホン、どこですかね」
「馬鹿言ってんじゃねえよ。こんな築百年くらい経ってそうなでっかい日本家屋にそんなモンついてるわけねえだろ。開くから押してみろ」
「そういうものでしょうか」
蔦のぐるぐると絡まった扉をなんとなく押してみる。不用心にも鍵はかかっていないようで、私と酒井さんは難なく庭に入ることが出来た。
「おじゃましまーす・・・」
「人がいないな。おかしい、この間は・・・」
私と酒井さんは、東京の郊外にある児童保護センターの職員である。東京都内で一番の規模を誇るその施設はさまざまな理由で精神や身体の健康を損ねている、または損ねかねない子供たちの保護が主な仕事だ。私は近隣住民などからの情報から、実際に家庭に赴いて事情を親御さんに聞き、場合によっては施設に子供を預かる役職に就いている。
私と年が七歳離れた上司の酒井さんは、口こそ悪いが根はとても優しい人だ。何度か一緒に仕事をしているが、子供が大好きでこの仕事についたのだということは、すぐにわかった。
「酒井さん、本当にここに男の子が閉じ込められてるんですか?人が住んでる気配なんてしないですけど」
「うるせえな。確かに何回か見たんだよ。最初はたまたま見つけたんだけど・・・」
手入れもされておらず腰ほどもある雑草をかき分けながら、酒井さんはずんずん庭を進んでいく。一度助けようと思った子供は何が何でも助けようとするのが酒井さんの情熱的なところだ。ただ他の社員からは暑苦しく思われている節もあるだろう。なかなかにイケメンで身長も高いのに女っ気の一つもないのはそのせいかもしれない。
やがて縁側にたどり着いた。
こっちだ、と先を行く彼に遅れないように自分も縁側にのぼる。土足なのは気にならない。それほど土まみれになって汚れているからだ。
「こんなところに人が住めるとは思えませんけど・・・」
ただ、虐待をされている子供がいる家庭はまさに「こんな場所にまさか」だ。
「いいから黙ってついてこい」とイケメンぷりを発揮する酒井さん。もう糸を掴んでいるので不法侵入なんのそのである。
そしていきなり彼は襖の一つを壊しそうな勢いで開けた。
「おい、大丈夫か!?」
「いますか酒井さんっ」
ひっと酒井さんが息をのんだのがわかった。
同時に鼻を痛烈な異臭がつく。
嫌な予感がした。こんな仕事をしていると身に付く、あれだ。
慌てて覗き込んだその部屋の中には背の低い小さな机一つしかなかった。そして畳の上には、大きな黒い染みがあった。異様なことには、その染みは人型のように見えるのである。その上に覆いかぶさるようにぼろ布のようなものが散らばっている。
くさい。
「この部屋に確かにいたはずなんだ・・・」
足を踏み入れようとして、彼は何かに躓いた。見ると畳の一部が不自然に持ち上がっているのだ。勘を侮ってはいけない。経験上こういう箇所には何かある。
畳の隙間に手をさしいれ持ち上げてみると、そこには二冊の古びたノートが隠されていた。ごく普通のノートである。酒井さんに頷かれ、ゆっくりとそれを開く。
一冊目。拙い字だ。最初のほうには日本語かどうかすらわからないぐちゃぐちゃとした文字が乱雑に書かれている。しかしめくっていくにつれて段々と文字は整理され、半分くらいからどうにか文章として読める程度になっていた。それでもしっかりとそれなりの日本語になっているのは二冊目からだった。
少年の1人語りから、これが日記なのだとわかった。
日付もなく、恐らくくたびれ具合から何年もかけて書いた日記。
ぼくは本を読むことが好きになりました。
なぜかと言うと、主様が本をくださったからです。
主様は「わたしがいないときはこれを読んで過ごしなさい」と仰いました。
なのでこれでもっと文の勉強をしようと思います。
この日記はちゃんとかけるようになりたいです。
たくさん日記が書けるようになるといいです。
今日の天気はくもりです。
雲がたくさんあるからくもりなのでしょうか。
主様はいつもの通りずっと文を書いておられました。
主様は今日はいらっしゃいませんでした。
本を読んでいると海というものがあると知りました。
たくさんの水があるところだそうです。
行ってみたいと一日に一回ご飯をくれる人に言うと、主様が怒るからだめだと言われてしまいました。
なぜ、だめなんでしょう。
雨は今日も止みません。
梅雨と言うのだと本に書いてありました。
主様に聞くと、それは六月に降るものだから違うよと仰いました。
では六月とは何ですか、と聞くと主様は困ったように笑いました。
一回寝て起きると一日です。それを三十くらい繰り返すと一か月になります。それを一から十二まで数えるのだそうです。むずかしくてぼくにはわかりません。
主様はいつも外からやってきます。
障子の向こうには何があるのか、わかりません。
主様は恐ろしいものがあるのだとおっしゃいましたから、そうなのです。
主様はうそをついたことがありません。ぼくが聞いたことは何でも答えてくださいます。恐ろしいものとは何ですか、と聞きました。
主様は「お前を殺そうとするものだよ」と仰いました。殺す、という言葉の意味をぼくは知っています。
外は海があるのにとても怖いところです。
今日のご飯はいつもと違いました。
魚をはじめて食べました。
海にいるものだそうです。ぼくは外に出てはいけないから特別にご飯をくれる人がつけてくれたそうです。
主様に知られないようにと言われました。
ですから主様はきっと魚と海がきらいなのだと思います。
主様が鏡を持ってきてくださいました。
そうしてぼくがなぜこの部屋から出ることができないかを教えてくださいました。
主様の顔には目が二つついています。でもぼくの顔の目は右のほうがぐちゃぐちゃになっているのです。ぼくは今まで自分に目が二つあることを知りませんでした。
あと、主様の顔は薄い黄と橙と赤を混ぜたみたいな色をしていらっしゃいます。でもぼくの顔はぐちゃぐちゃの目がついているほう半分くらいが紫と緑の色です。
生まれつきの痣なのだよ、と主様が教えてくださいました。
なんで主様と違うのですか、と聞くと母親が片輪なのだから仕方あるまいと仰いました。片輪とは何でしょう。
本を読んで片輪というものを見つけました。
片輪とはふつうの人と違う人のことを言うそうです。たとえば目の見えない人はふつうの人と違うそうです。ふつうの人は目が二つあって片方をかくすと見えるところがせまくなるそうです。
ぼくは右目の上に手をのせても何もかわったようには感じません。ぼくのぐちゃぐちゃの右目は絵のふつうの人とは全然違いました。
あとふつうの人はきれいな顔をしています。ぼくみたいに色が変わっていません。
鏡を見るのが厭になりました。
ぼくを産んでくれた人も片輪だったそうなのですから、きっとぼくみたいに気持ち悪かったに違い有りません。
片輪のことをたくさん本で調べました。
ぼくは耳が聞こえますが片輪の人にも色々いて、聞こえない人もいるそうです。くらげみたいに関節がなくぐにゃぐにゃと立っていられない人や、頭ばかり大きくて体が赤ん坊のように小さい人も片輪というそうです。
それで、片輪の人はふつうの人とは違うので苛められてしまうそうです。
主様はそれできっとぼくに外に出てはいけないと仰るのです。
ぼくのことを守ってくださっているのです。
今日は主様がお酒を持ってきていました。本で見たのと同じ形だったのできっとそうです。
主様はたくさんそれを飲んで顔を真っ赤にしていました。それでぼくを見るととても大きな声で笑いました。
主様がこんなに大きい声で楽しそうに笑うのを見るのははじめてでしたので、とても驚きました。
主様はいつも静かで落ち着いたお方だからです。
主様はぼくを指さして「お前の母親も同じだ!醜く哀れだったのだよ、ああ、私は悪くない、悪くない」と仰いました。
ぼくは自分の母親のことをずっと知りたいと思っていました。それで主様に「ぼくの母上はどんな人でしたか」と聞きました。
主様はまたげらげらと品なく笑って「お前と同じ片輪者の醜い母親だった」と仰いました。「私と出会った十五か六か、若いころは美しかった。しかし二十歳で病にかかり肌が爛れ目と耳は潰れ手足は思うように動かせぬようになった。だがそれでも最期の慈悲をくれとせがまれ仕様が無くだ!仕様が無かったのだ!ああ、化け物を抱く心地は最悪だったものだ。今でも寒気が止まらぬ。そうして産まれたのがお前だよ。もうすぐ十五になる、若いころの母親に右目と痣以外はよく似ているお前さ。お前も十分醜いが到底母親には及ばない。周りの者はお前を嫌うが私はお前のことが嫌いではないよ。母親を知っていればなおのことさ」
主様はお酒をまた飲むと、乱暴に襖を開けて出ていってしまいました。いつもはおやすみと言ってきちんと閉めて行かれるのに、今日だけは違いました。
ぼくは片輪で馬鹿ですから主様の仰ったことはあまりわかりませんでした。でも頑張って考えて、それでとてもすごいことがわかりました。
主様は、ぼくの父上なのではないでしょうか。覚えている一番昔から主様のことをぼくは主様と読んでいます。主様がそう呼べと仰ったからです。
外。襖の外には真っ黒な空と真ん丸な月が浮かんでいます。ぼくはこの文を書き終えたら、いっぺんだけでもいい。外に、外に出てみようと思います。
何日経ったのかわかりません。
ここに戻ってきたのが四日前くらいなので多分それくらいだと思います。
やっと人がいなくなってひみつでまた日記を書けるようになったので何があったのか書こうと思います。
外に出たぼくはすぐにつかまってしまいました。ふつうの人はとても足が速いです。とっても大きくて腕も太くてすぐにつかまってしまいました。外には少ししか出られませんでした。空気がとてもおいしかったです。
ぼくはいつもいる部屋とは違うところに放り込まれました。一晩中ずっと怖い大きな人が入口にいて、もう外には出られませんでした。
次の日はご飯がありませんでした。とてもお腹が空きました。
その次の日くらいに、主様がいらっしゃいました。ぼくは急に怖くなりました。主様は外に行ってはいけないよと仰ったのに、なぜぼくは外に出てしまったのでしょう!主様はきっと悲しい顔をしてぼくをお叱りになるだろうと思いました。
でも主様はお酒を飲む前の静かな主様ではありませんでした。主様からまた変な臭いがしたのでまたお酒をのんで酔っ払っているのだと思いました。
ぼくはすぐに謝ろうとしたのですが、主様はたいへん怒っていらっしゃったので、ぼくを思いきり殴りました。
主様がぼくのことを殴ったのは初めてです。主様はぼくのことを殴り続けました。何か言われましたがよく聞こえませんでした。気が付いたら畳にねばねばしたものを吐いていました。胃液です。喉がガサガサして血も出ました。何度か吐いてそれで畳を汚してしまいました。主様はそれにも怒ったようで何度も何度も謝ったのに許してくれませんでした。立てなくなって、そうしたら主様はようやく止まってくれました。
そして何度も溜息をしてそれから優しくぼくの頭をなでてくださいました。
「すまなかったね。だがお前が悪いのだよ。私を裏切るようなことをしたお前が悪いのだよ。裏切らないでおくれ、私を裏切らないでくれ。お前は私の物だ」
「わかりました、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
主様はにっこりと笑うと襖を閉めて出ていかれました。
主様はとても優しいです。こんな気持ち悪くて言うことのきけないぼくに、触れてくださるのですから。
もう外に出る気はありませんでした。ほんの少しだけ空いた障子の隙間から月が見えました。
すると、そこに誰かいるのが見えました。主様や見張りの人のような着物ではなくて、上下がわかれた変な服装です。その人は迷っているのか人を探しているようでした。やがて「こんなところに誰か住んでるわけないか」と言って出ていってしまいそうになりました。
ぼくは慌てて日記を取り出して紙を破って丸めて投げました。気づいてくれたその人はこっちの方を見ました。ぼくはとっさに隠れました。痛む体より心臓が痛い程うるさかったです。少し開いていた戸を閉めて、痛いところを摩りながら眠りました。
次の日も朝早くから主様は来てくださいました。今まではずっと夜にしかいらっしゃることはなかったのに。主様の目の下には大きな隈がありました。
主様には「おはよう」と挨拶をしていただきました。
「お前がもう逃げないとは思っているがね、心配なのだよ。少し足を貸してごらん」と言われたので主様に言われた通り四つん這いになって足首を差し出しました。
主様はぼくの足首をつかむとそこに何かを押し当てました。殴られたときの比でないくらいには痛かったので、多分刃物で切られたのだと思います。両足を切られてもう死んでしまいそうなくらいに痛くてぼくは畳の、吐いたものが乾いて張り付いている上を転げまわりました。主様にやめてくださいと何度もお願いしたのにやはり主様は足を力ずくでおさえつけて、切ったところに糸を通してそのうえから包帯を巻きました。
「何をするのですか」
「なあに、それが治るまでそうしていなさい。もうお前が逃げ出せないように保険をかけただけなのだから」
主様はまたぼくの頭をなでてくださいました。主様がそうしろと仰ったのでもうこの包帯はとりません。主様には何か考えがあるに違いないと思うのです。ぼくは元の部屋に戻されました。
それで、しばらく気を失っていて今日になりました。
ずっと痛いと感覚がなくなるのだということは初めて知りました。歩くことができないので横になったまま外を見て一日を過ごしました。主様が「もうさすがに歩けはしないね」と思い切り外へ続く障子を開けておいてくださいました。昼は鳥が飛んで明るくて空に浮かぶ雲が綺麗です。なんとなくぼくを産んでくれた母上のことを考えていました。ぼくはとてもそんな昔のことは覚えていません。もう死んでしまったのでしょうか。主様は、主様のことは父上と呼んでいいのでしょうか。
そうしていると、ぐるりとお屋敷を囲んでいるらしい塀の上から、急に人が出てきました。いつか見た、あの人です。ぼくはまた隠れようとしたのですが動けないので上手くいきません。その人はぼくを見て目を見開いて、何かを投げてきました。すぐにいなくなってしまいました。その紙を開くと、字が書いてありました。「きみ のなまえ は なんですか だいじょうぶ ですか」
手紙です。本で読んだことがあります。ぼくは慌てて
日記を破いて一生懸命文を書きました。ぼくはもっと難しい漢字も読めるし文も書けます。でも困ったことが一つあります。名前、なまえがぼくにはないのです。主様はぼくのことをお前と呼びますが、それが名前でないことは知っています。名前はふつうの人にしかないものだと思っていました。なので「ぼくには名前はありません」と書きました。でも前につかまったとき、見張りの人が「妾の子のくせに」と言っていました。ぼくの名前はそれなのかもしれないと思って本で調べました。
妾の子というのは、ぼくの名前ではないようです。
本当の妻ではない人との間の子供を妾の子と言うらしいです。ぼくの母上と主様は、本当の夫婦ではなかったようです。いけないことだと本には書いてありました。ぼくは生まれてはいけなかった子供なようです。
だからきっと片輪なのだなあと納得しました。
それから外から来た人と、何回か手紙を投げてやりとりをしました。外から来るその人はとてもきれいです。「きっとそこから出してあげるからもう少しだけ頑張って」とある日の手紙には書いてありました。おかしな話です。「ぼくはここから出たいとは思いません」と返しました。その人はたいそう驚いているようでした。「外に行けば楽しいことも嬉しいこともたくさんあるんだ」と書いてありました。でもぼくみたいな片輪が外に出たらきっととんでもないことをされるに決まっています。それこそ主様を裏切ることになってしまいます。ぼくみたいな化け物に触れていただけるのは主様だけなのです。「なら貴方は、ぼくに触れますか」と書いて、その紙をぐしゃぐしゃに丸めてしまいました。ぼくには主様だけです。でもその外から来た人からもらった手紙を読むと、とてもお腹から胸のあたりがぽかぽかします。
変な事です。
足の傷が治ってきたように思います。あれから何か月か経ったのかもしれません。日記が見つからないように畳の下に隠すのも大変になってきました。立とうとしたり力をいれたりしようとするととても痛いのです。主様は包帯をとって、「もういいね」と仰いました。
見るように、とのことなので足首を見てみました。確かアキレス腱でしょうか、そこに切り込んだあとに糸が通してあります。血がかわいて茶色になっています。
「がんばったね。たいそう綺麗にとおった」と主様がほめてくださったので嬉しくなりました。
「お前が逃げようとしたら、まあそんなことはないだろうが、もし逃げたりしたらこの糸を引いてあげようね。傷口が開いて痛いだろう。私はそんなことはしたくないからね、大人しくしているんだよ」
ぼくが言うことを聞けないどうしようもない子だったので、主様がご慈悲をくださったのです。こうでもしなければぼくがまた外に出たくなるかもしれないということを考えてくださったのです。主様は本当に聡明で、素晴らしい方です。
ぼくは今日から手紙を交換することをやめました。
主様は、主様はどうしてしまったのでしょうか。
主様は初めてお酒を持ってきた日から、何かが変わってしまっています。
昨日は何かやけになっている様子で、夕方に入ってくるなり横になっていたぼくを蹴りました。それで乱暴にぼくを仰向けにして「足を開け」と仰いました。そんな乱暴な言葉づかいをされる主様は久しぶりに見て、とても怖くなりました。ぼくが何をされるのかわからずに固まっていると、主様は舌打ちをしてぼくの腿をぐいっと押さえつけました。それからこの日記には書けないようなおぞましいことをされました。
ぼくは本で読んでそれがいけないことだと知っていました。なぜいけないかというと、ぼくは主様と性が同じで、あと主様の子供だからです。血が近しい者とそういうことはしてはいけないと書いてありました。ぼくは何もしていないのに涙があふれてきて何度も主様にやめてくれるようお願いしたのに主様はやめてくださりませんでした。主様は「何を言う、お前は人ではないのだよ。ただの醜悪で汚い化け物なのだから、私の子などではないし俗世間で咎められるようなことは何もしていないのだ。すべてこう生まれたお前と、お前をこう生んだ母親が悪いのだよ」と仰いました。
痛くて体が燃えるように熱くて、死にたいと思いました。なんでぼくは生きているんでしょう。まるでわかりません。ぼくは片輪者なのに、なんで人間に似た姿をしているんでしょう。空を飛んでいるだけの馬鹿な鳥にでも生まれればよかった。
主様がいつの間にかいなくなっていました。きっとぼくが気絶している間です。体がべとべとして変なにおいがして気持ち悪くて。本当に死にたいと思いました。でも主様はぼくを化け物と言いながらもそれでもぼくに触れてくださいました。片輪に触ると障害がうつるという噂が本に載っていました。それを気にもしない主様はぼくにとって唯一の存在なので、ぼくはこれに耐えなくてはいけません。
多分明日からもこのおぞましい行為は続く気がするのです。
日記を書くことは楽しいです。その他に本を読むしかぼくにはすることがありません。でもぼくはそろそろ死ぬと思います。
もう死にたいわけではないし死にたくないわけでもないしそもそも死ぬということの意味をきちんとは知りません。思い出せない母上は病気だったそうなのでもう死んでいると思いますが、自分がそうなりそうだというのを感じるとは思いませんでした。
ここ数日で、ぼくのお腹はぽっこりと奇妙にふくらんできました。本で読んだのによると、妊娠というらしいです。ぼくは人間ではないけれど人に似ているので多分間違いないと思います。人だと女の人しかしないようですが、ぼくはまず人ではないので大丈夫です。
でもとても気持ちが悪いです。しかもずっとです。
とてもお腹は空いているのにお米の臭いを嗅いだだけで吐いてしまいました。
この文章を書くので精いっぱいです。ですからぼくはもうすぐ死ぬと思うのです。
死んだらすべての生き物は天国か地獄に行くそうです。ぼくは悪いことをしたので地獄にいきます。そこで生の罪を償います。そもそも生まれてはいけなかったぼくが罪を償いきれるかどうかはわかりません。だけれど、しっかりと炎に焼かれて針に刺されてまた生まれたいです。その程度ならいくらでも我慢できそうです。
それで今度生まれ変わるときには、人間に生まれ変わりたいです。できればふつうの人がいいです。本当は、本で読んだたくさんのことがしたかったです。手紙をくれたあの人が教えてくれたたくさんのことがしたかったです。主様に、名前をいただきたかったです。名前を呼んでいただきたかったです。手をつなぐということをしてみたかったです。病気でない母上と、父上と、一緒にご飯を食べたかったです。本当は、本当は、ぼくは片輪になど生まれたくはなかったのです。
明日も生きていたら、日記を続けようと思います。もし誰かがこれを読んだらぼくがふつうの人に生まれ変われるよう一緒に祈ってください。お願いです。どうか来世のぼくに、名前がありますように。
日記は、そこで途切れていた。
酒井さんが私の横でがっくりと膝をついたのがわかった。その顔は死体でも見たかのように青ざめている。いや、『かのように』などではない。酒井さんはこう呟いた。
「遅かった・・・」
「何言ってるんですか・・・酒井さん・・・」
どうにかそう返したものの、私にも答えはわかっていた。少し前に酒井さんがたまたま監禁されているのを見つけた少年の末路は「アレ」だ。あの黒くてくさい、あの染みだ。
「人間ってのは恐ろしいもんだな・・・」
はは、と乾いた笑みをこぼした酒井さんは、「帰るぞ」と踵を返した。
「待ってください、警察を呼びましょうよこれは殺人です!」
私が必死に呼び止めても酒井さんは反応しなかった。
その次の日、酒井さんは職場を休んだ。私はその日、半年前に水死体で見つかったカウンセリング部署の男性の噂を聞いた。何も関係がない事故だが、なんとなく酒井さんが心配になった。夜に酒井さんに電話をしてみるが、つながらない。
そのときニュースで、あの少年のいた日本家屋のある
山が燃えている映像が流れた。放火が原因か。
炎はあっというまに山全体に広がったようで、逃げる間もなく、放火魔はまだ山にいるかもしれないとニュースが告げる。消防は車の他にヘリも何台か使っての必死の消火活動を行っている。携帯が鳴った。
酒井さんだ。
あわてて開いたメールには一行にも満たない短い文が綴られていた。それで、酒井さんにもう二度と会うことはできないとわかった。
『見てろ、火葬だ』
狂気は、伝染する。