山からおりるはなし
-遠き山に日は落ちて-というフレーズを男は思い出していた。
といっても男のいるまさにその場所こそが「山」なのである。
男は途方に暮れていた。日もまた暮れようとしていた。
山登りに多少覚えのあるものの心得として、深い山においての行動時間は午前中、遅くとも午後3時には終わっていなければならないというものがある。単に暗くなって足元がおぼつかなくなるというのもあるが、最大の問題は天気である。どうしても高山では早朝のほうが気候が安定するのだ。幸いなことに今雨が降り出す様子はなかったが、もう一つ別の問題が男に迫っていた。
気温の低下である。
寒い。いくら近場の、昔来たことのある山だからといって、思いつき登山などするのではなかったと男は後悔した。登山道はかなり整備されており迷う要素などどこにも無かったはずなのだが、この結果である。初めて登る山ならば逆にこうはならなかったろう……日ごろ軽い気持ちで山に連れて行ってくれと言う友人たちに言ってきた台詞が自分にはね返ってくる。「山を舐めるのが一番危険だ」。
もう完全に陽は沈み、絶望的なまでの暗さと寒さが山肌を舐め始めていた。最低限用意しておいたヘッドライトをつけて男は考える。こういう時はやみくもに下へ降りず山頂方面に向かうのが良いとされる。日本の山ならば山頂には必ずと言っていいほど登山道が通っているはずだし、辺りの見晴らしも効く。逆に谷へ沢へ降りても滝に出くわすとそこで行き止まってしまうし、何より沢は鉄砲水が起きれば終わりである。
しかし男はふもと―と思われる―の方向へ歩き出した。この山は宿泊するような山ではないから登山道へ出たところで人に合う可能性はこの時間だと絶望的だし、それに特に注意するような沢も無かったはずだ。どうあれふもとにさえ出てしまえばバス道にはたどりつけるはずだ……。
実際は定説通り山頂に向かうのが正しいのだろう、男はそう気づいていたが明日も仕事であるという焦りが無意識のうちに足を下へ下へと運ばせた。
歩き始めると寒さはそれほど気にならない。が、ヘッドランプの灯りだけを頼りに歩いたことなど無かった男には登山道から外れた野のままの山を歩くのは至難の業であった。
枝に服が、ザックが引っかかり破れていくのが分かる。晩秋の落ち葉が降り積もった地面は登山靴を履いていても容赦なく男の足を奪う。もう尻は真っ青かもしれないな、男は笑う気にもなれずにそう思った。
いったん水を飲むために男は座り込み、水筒を出した。ピクニック気分で来たためいつものハイドレーション(ポリ袋に入れた水をチューブで吸って飲む携行水筒)ではなく魔法瓶である。熱いほうじ茶がじんわりと体に染みてくる。自分がどの方角から来たか、それだけは見失ってはいけない。茶を飲みつつ男は神経を尖らせた。
暗闇の中、全神経を集中させていると男は山の中が決して静寂ではないことに気がついた。木々がこすれ合う音がする、風が山を通り抜けていく音がする、遠くで女が叫ぶような声がする……あれは鹿だ、わかっていてもぞっとしない鳴き声である。
じっとしているうちに男は自分がパニックになりかけていることに気づき始めた。身を包む外の音がどんどん大きくなってきて鼓動がみるみる激しくなってくる。ヘッドランプの灯りのその先に見えもしないモノが見え出すような気がする、いやもう見えている気がする、今ざっと横切ったのはなんだったか、今おれの耳元に吹きかけられたのは風かそれともナニモノかの息か、今座っている場所は果たして本当に地面か、実際は果てしない暗闇のまんなかにおれひとり居るのではないか。
たまりかねて男は大声を出した、これがまた良くなかった。疲労と恐怖で変質した声は自分のそれとは思えぬ獣のような響きをともない、それが山に木霊すかたちで広がっていく。男は限界だった。
涙を流しながら、意味もない何事かをつぶやきながら男はがむしゃらに山を下った。転がったといったほうが良いかもしれない。それほどまでに夜の山の闇はおそろしかった。闇の中に自分が溶けていきそうだった。もう止まることなど出来なかった、走ることでしか恐怖を追い払うことは出来なかった。
何度目かの転倒で、男は自分の頬に振れるものが柔らかい落ち葉ではないもっと硬いものであることに気づいた。ヘッドランプで照らしてみるとアスファルトである。道に出たのだ。
アスファルトの感触を確かめるように這いつくばっていると強烈な光が男を照らした。何か怒鳴り声のような大声が聞こえる……バスだ。
運転手は至極迷惑そうな顔で男をバスに乗せた。この時期管理者に無断でキノコを採ろうとする連中がいるらしいがあんたもそれじゃないかね、などと言われているようだったが男はひたすら柔らかいシートの感触を享受した。時間を見るとまだ夜の九時……もう何十時間もさまよっていたような気がしたが実際はほんの数時間程度だったのだ。
怒涛のごとく押し寄せてくる睡魔に負けながら男は思った、もう俺は二度と山に登れないだろう。夜の山の闇を単身で味わった身にはもう山は異界の存在としてしか残らなかった。




