1.
「そうだな、最初に感じたのは、ただただ怒りだった」
女はそういうと小さく笑った、夜闇にまぎれて表情は見えない、小さく震えた空気が、彼女のそれを伝えた。
何もかもが声をひそめているようだった。風も、遠い山の獣も、しんと息をひそめて彼女を注視している。
「腹が減った、なぜ私がこんな思いをしなければならないのか」
黒い帳がおもむろに引いていく。月にかかっていた雲が、音もなく風に流されていった。
形のよい足が、冴え冴えと青く映し出される。高く組まれたそれが、もてあまされたように揺れていた。
「少し付き合え人間」
男の足がすくむ。
脂汗が滲み、口はからからに渇き、呼吸は浅く乱れている。
見通しが甘かったのか、思いあがっていたのか。彼の抜き放った剣は、振りかぶることさえできず、かたく握りしめられている。
「なに、悪いようにはしない。語るだけ語ったら、ゆるりと楽しむとしよう」
艶然と魔竜の王が笑う。それはとても蠱惑的で―――死そのものの気配がした。
1.
衝撃と苦痛、それから、激しい怒り。
まず、最初に自覚したのはそれらだった。
腹が減った。真っ赤に染まる視界に、ただそれを思った。理不尽だと。なぜ私はこんな思いをしているのか、と。
思えばこの時が、私が私を自覚した瞬間だったのだろう。この時まで、茫漠とした、それこそ獣同然の生活をしていたらしい。
何が起こったのか、何が起きているのか。それこそトカゲよりわずかにましなだけの頭で私は考えた。答は目の前にあったな。今は狩りの最中で、襲撃をしくじり、反撃を受けているのだ、と。
おかしな話だ。
私には記憶があった。確かに人間であった記憶だ。家族と過ごし、友と笑い、懸命に生きていた記憶だ。不可解で、理不尽だった。
人間の記憶は闘争を忌避していた。目の前の獲物が恐ろしくて仕方がない。大きな獣だった。何者であったかは知らん。大きな牙と、二つに割れた蹄と、太い首。血走った眼に泡吹く口。あらゆる痛みを拒絶するような、ばりばりに強張った毛並み。松脂と獣の臭いがした。とても美味そうだった。
そうだ、私の本能とでもいうべきか。それは、貴奴を獲物として捉えていた。自分の倍は高さのある、その獣をだ。
貴奴の目にはどう見えていたのだろうな。小生意気な獲物か、はたまた。
湧き上がる衝動にしたがって吠えた。吼えたと言ったほうがよいか。ニュアンスの違いがわかるか? 人間。……ほう、わかるのか。それは重畳。
わき腹がひどく傷んだのを覚えている。幸いにして、出血はなかった。鱗の幾枚かが、割れてはいたな。自慢の鱗だった。そうだ、私はこの姿に生まれてからの記憶も自然と受け入れていた。経験に知性が意味を教えてくれた。自分が何者で、いかなる存在であるのか。ただのトカゲでもなく、元人間のかよわきものでもない。
私は、竜に生まれついていた。生まれ変わったのか、憑依したのか、それはこの際何でもいい。ただ、今一度の生を与えられていた。そしてそれは風前のともしびだった。
もう一度吼えた。先ほどは怒りをほとばしらせるためだけに。二度目は、お前を殺すと明確に知らせるために。
獣は駈け出した。後ろではない、私に向かってまっしぐらだ。貴奴も明確に意思をみなぎらせていた。その五体に、その瞳に、その鋭く大きな牙に。私も駈け出した。無謀と思えるほどまっすぐに。
あの牙を振り上げられれば私は死ぬだろう。あの蹄で踏みつけられれば私は砕かれるだろう。それでも前に出た。退いては、肉体が無事でも魂が死ぬ。
息を深く吸った。もう一度吼える為だった。だが、吼えれば何もできずに私は死ぬだろう。距離はもはやさほどない。瞬きひとつの猶予があるか。のど元に灼熱が生まれたのはその時だ。戸惑いは一瞬もなかったように思う。そんな時間はなかった。
開いた口からは爆音がほとばしった。同時に灼熱の炎も、いくつもの魔法陣が同時に展開されていく。威力の上昇と、範囲の拡大、方向の制御。それが竜語魔術と呼ばれていることを知ったのは、相当後になってからだったな。
炎は獣に直撃した、哀れな貴奴はよけることもできず、まともにそれにぶち当たった。骨のひしゃげる音、内臓の破裂する音、毛並みの燃え上がる音、血の沸騰する音。聞こえるはずのないそれらが、どういうわけか爆炎のなかから聞こえてきた。
―――竜の炎と魔獣の炎をいっしょくたに考えるなよ? 貴奴らの炎は文字通りの炎だが、私のそれは爆弾の炎だ。おっと、すまぬな、爆弾と言っても通じるまい。……なに、わかるのか? ふん、貴様、どうやら見た目通りの人間ではないらしい。
話が逸れた、とはいうものの、私の記憶にある最初はそんなところだ。
震えているな、人間。そう慄くな。私とて、無闇に貴様を殺そうとは思わぬ。
あいにく私のひざ元に来る者たちは、喋れる者が少なくてな。対話をする、というのも新鮮でよい。
さあ人間、貴様を聞かせてみろ。それによっては、牙か、宝か。くれてやるものが変わるだろう。あるいはこの身を抱けるやもしれんぞ。




