ウサギは恋に惑う
どうして、と、声にならない疑問が駆け巡るようになったのは、いつの頃からだっただろうか。
「おはよう、佳音 (かのん)ちゃん。そろそろ起きないと、遅刻しちゃうよ?」
うとうとと、取り留めのない思考がふと浮かんでは意識が眠りの淵に沈み込む、そんなぼんやりとした微睡みにたゆたっていた佳音は、自分に呼びかけてくる声にゆっくりと瞼を開いた。寝起きには朝日に照らされた室内は眩し過ぎて、瞬きを繰り返す事でようやく彼女の両の瞳は正確に像を結ぶ。
無意識のうちに拳を握ってゴシゴシと強く擦ろうとした手は、「こら」という悪戯めいた声と共に取り上げられた。
「あんまり強く目を擦ったりしたら、佳音ちゃんの可愛い瞳に傷がついちゃうでしょ」
寝起きのボケーッと働かない頭のまま、瞬きをしつつ焦点が合うのを待っていると、佳音の瞳は次第に、すぐそばにある綺麗な顔を映し出し始めた。毎朝毎晩、ほぼ必ず一日の始まりと終わりに見る顔。
「……おはよう、蓮 (れん)お兄ちゃん」
妹の寝起きのざらついた声でも、このやたらと甘ったるい兄は嬉しそうにその美麗な表情を綻ばせる。完全に目覚めたと判断したのか、佳音の手首を掴んでいた手を、そっと離した。
因みにここは、宇佐木 (うさき)家の佳音個人の寝室であり、今彼女が横たわっているベッドは決して、初めから蓮と佳音が二人で休む為に用意されたベッドなどではない。
人間二人分の体重が加わろうとも、蓮が佳音の頭を撫でる為に腕を伸ばして重心を僅かにずらしても、豪華な天蓋付きの大きなベッドは僅かな軋む音さえ立てない。
「おはよう、佳音ちゃん。今日も朝から可愛いね」
佳音が蓮の部屋に行く、もしくは蓮の方が佳音の部屋に来てくれてほぼ毎晩必ず添い寝してくれる、そんなシスコン街道まっしぐらである次兄の蓮は、その日も朝っぱらから眩いばかりの笑みを惜しげもなく末っ子に振り撒く。
今朝も先に起床していたにも関わらず、着替えた後まだ佳音が眠りこけているベッドの傍らにわざわざ寝そべり、腕枕をしてやり佳音の寝顔を眺めていたらしい。そんな事をして何が楽しいのか、彼女にはいまいち分からない。
むくり、と、無言のまま上半身を起こすと、
「今日は何を着る?
昨日はシフォンのワンピースだったから、今日はチェック柄のキュロットなんてどう?」
ベッドから一足先に下りた蓮は勝手知ったるとばかりに、堂々と佳音の部屋のウォークインクローゼットを開け、服を取り出してきて広げてみせた。
今日こそはこの兄に物申さねばと、佳音は息を吸い込んでひたりとその顔を真正面から見つめ。
「蓮お兄ちゃん」
「なぁに、佳音ちゃん?
プリーツが入ったミニスカートの方が良い?」
キラキラと朝っぱらから輝くばかりの麗しい笑顔を向けられ、佳音は「うっ」と言葉に詰まった。
にこにこと優しい眼差しを一心に注ぎ込まれ、佳音の心臓はあっさりとそれに耐えきれなくなり、
「……キュロットで、いい」
「よーし、それなら合わせるのはー」
ボソッと、言おうと決意したはずの言葉とは違う台詞を紡ぎ出し、佳音は小さく溜め息を吐くのだが、蓮は全く気が付いた様子もなく様々なインナーをベッドの上に広げて、あれこれと彼女にあてがってくる。
佳音は今朝もまた、この麗しくも押しの強い兄との無言の攻防に、気迫負けてしまったのだ。
佳音の母、理奈 (りな)が優 (まさる)と再婚して新しく父となり。佳音の実姉の咲来 (さら)共々、優の連れ子である息子達四人と兄妹として生活を始めてから、もう一年以上になる。
再婚当初はどことなくギクシャクしていた家庭間の空気も、この頃はすっかりとごくありふれた家族として纏まってきており、互いに遠慮がなくなってきた宇佐木家の朝は常に騒々しい。
「やはり、理奈さんの作ってくれたお味噌汁が一番美味しいですね」
「優さん……」
「あっ、翔 (しょう)にぃ、それあたしの味付け海苔!」
「へっ。こういうのは、早い者勝ちなんだよ!」
「隙あり」
「ああああっ! 彬 (あきら)兄!?」
「あ、蓮君、お醤油とってくれる?」
「ちょっと翔にぃ! ふんだ、玉子焼き貰っちゃうんだから!」
「はい、どうぞママ」
「育ち盛りになんて無体な……!」
朝から家族揃って食卓を囲み、共に朝食をとる際の騒ぎは……さながら戦争である。ここに、高校卒業を機に一人暮らしを始めた長兄の匡 (たすく)が加わると、別な意味での賑わいが加わって過ぎる時間は倍加速だ。
上座の方に父と母、佳音から見て卓の向かい側に座っているのが三男の彬と四男の翔、姉の咲来。そして佳音の隣に座っているのが蓮で、だいたいがこの定位置で座って食事をとる為、兄達と姉は壮絶なおかず争奪戦を繰り広げるのが常であった。
佳音は以前一度、姉にそれとなく、場所変わってあげようか? と尋ねた事があるのだが、「尻尾巻いて逃げ出すみたいだからヤ!」と、すげなくされてしまった。
「ママ、ご飯おかわり」
ひたすらにもぐもぐモリモリと、朝食を平らげにかかっていた佳音は、今日もお茶碗をスッと母に向かって差し出した。
「あらあら、今朝も?
佳音ちゃんには、もう少し大きなお茶碗でよそってあげるべきかしら」
「うん。そうして」
「ママ、そんな事したら、佳音ちゃんの可愛い手が腱鞘炎になっちゃうよ。こんなにか細いのに」
「そうかもしれないねえ」
理奈が炊飯器の蓋を開けてご飯を盛ってやりつつ呟くと、すかさず蓮が首を左右に振ってダメ出しをし、父である優もまた同調してしまった。
「いくらなんでもお茶碗ぐらいじゃ手首を痛めないよ、パパ」
おかわりを受け取りながら抗議してみるが、どうも彼らの中での佳音は、小さく頼りない存在という認識が強いらしい。
『もう』小学六年生だ、と感じるか、『まだ』小学六年生だ、と考えるか。その差はとてもとても大きくて、毎日背負っている象徴的なランドセルが、この頃酷く煩わしい。
どんなに栄養をたくさんつけたところで、佳音の身体は一思いに大人になどなってはくれないけれど。
「佳音ちゃん、おかず足りる?
僕のきんぴらと玉子焼き、分けてあげる」
「ありがとう、蓮お兄ちゃん」
受け取ったおかわりのご飯を頬張る彼女に、傍らの蓮はさり気なく佳音の好物をお皿に乗せてくれた。
いらない、などと即座に拒否したところで、この兄はなんら堪えやしないだろうけれど。佳音はにっこり笑ってお礼を口にする。
(ああ、早く『小さな小さな可愛い妹』だなんて、こんな状態から脱け出したい)
いつからかは分からない。
けれど佳音は、ただ『蓮から大切にされる事』に、違和感を感じ始めた。
相変わらず、賑やかに言い合いながら朝食をとる姉達にチラリと目をやってから、佳音は傍らの蓮を見上げた。
「蓮お兄ちゃん、好きよ?」
ご飯を食べながらという、脈絡も無く唐突な妹の発言に、蓮は一瞬意表を突かれたように目を見張り、すぐににこりと優しい笑みを浮かべた。
「僕も大好きだよ、佳音ちゃん」
そうしてすぐさま甘やかな声音で囁いてくる蓮に、佳音は胸の内だけで、知ってるわ、と返事を返した。
(わたしの『好き』と蓮お兄ちゃんの『好き』が、違う意味だって事、そんなのずっとずっと前から気が付いてるもの)
まるでお気に入りの玩具かペットを愛玩するように、妹を可愛がり愛情を注いでくる綺麗な次兄へと向ける思慕が、恋の色を帯び始めてきても。どう足掻いたところで絶対的に埋まる事の無い年齢差は、佳音の言葉にならない焦燥感を煽って鎮まる気配も無い。
未だ喧騒のやまない食卓で、佳音はただ黙々と箸を動かした。
一日の授業を終え、委員会のお仕事をこなした佳音は、今日も気鬱を抱えて帰路についた。
優と理奈が再婚したばかりの頃はそう、ただもう毎日が純粋に楽しかった。佳音にとっては父親という存在は憧れであったし、広くて大きなお屋敷に住めるというのも気持ちが浮き立ったし、クラスの女子達に人気の高い翔により近付ける事も鼻が高かった。
……そして何より、蓮と毎日一緒に暮らせる事が嬉しくてしょうがなかった。
それが、今はどうだろう。夕暮れに染まったこの道を、ランドセルを背負ってとぼとぼと家に向かって歩くのが、佳音はなんだか気が進まないのだ。このまま回れ右をして、いっそ二年前まで母と姉の三人で暮らしていたアパートに駆け込んでしまいたいとまで思う。
そして同時に、早く帰って蓮に抱きつきたい、なんてワガママな気持ちが同時に湧いてくる。
(寂しいよ、ギュッてしてよ。お兄ちゃんは、『わたしのお兄ちゃん』でしょう?)
妹だなんて嫌だと思うくせに、妹なのだから甘えさせて欲しいと、毎日の矛盾した感情に葛藤し、思わず佳音は頭を抱えて道路にしゃがみ込んでしまった。
「うう……」
「ど、どうしたの佳音ちゃん!?」
無意識のうちに唸りながら頭をかきむしっていた佳音だったが、そんな姿を偶然見掛けた人物は、彼女の体調や怪我の有無を心配して傍らへすっ飛んできた。なんともタイムリーな事に、やはり丁度帰宅途中であった蓮が。
といっても、実のところこの遭遇は全くの偶然というものではなく、蓮の帰宅が最も早くなる曜日に佳音はワザと委員会の用事を入れて帰宅時間が重なるよう下校しているという、なんとも作為的な裏があったりする。
とはいえ佳音は今回、蓮の存在に気が付かぬままこんな風に無意味にしゃがみ込んだのだが、兄に余計な心配を掛けさせる羽目になってしまった。
「蓮お兄ちゃ……」
心配そうに顔を覗き込もうとしてくる蓮から差し出された手を握り、兄の名を口にした佳音は、優しい彼のその向こうに見知らぬ少女の姿を捉えて言葉を途切れさせた。それは、恋する少女の勘とでも言うべきものでしかなかったが、蓮の通う高校の制服を身に纏いこちらをじっと見ている彼女を一目見た瞬間に、佳音にはもうとにかくピンときたのだ。
即ち、『あの女は蓮に気がある自分のライバルである』と。兄に促されるようにして立ち上がった佳音は、迷わず蓮に抱き付いた。
「大丈夫、佳音ちゃん? どこか痛い? それとも気分が悪いの?」
「全然大丈夫だよ、お兄ちゃん」
「本当に?」
「宇佐木君、その子、宇佐木君の妹さん?」
恐らく、ここまで一緒に帰ってきたのであろう同じ学校に通う少女を放ったまま、蓮は心配そうに佳音の額に手を当てて熱を計るも、彼女は果敢にも話し掛けてきた。そこに何か問題があるとすれば、その声色があからさまに媚びを含んでいるブリッとした声だという事で。
亜麻色にカラーリングした髪を複雑な形に結い、気合いと時間を掛けていると分かるナチュラルメイクの彼女は、鞄の取っ手を両手で握りつつ膝の前当たりでぶら下げている。腕を使い、ぼいーんな身体をさり気なく強調して見せ付け、蓮の何かをそそらせたいのかと問い詰めたくなるようなポーズだ。
問題の兄は首だけをそんな少女の方に向けて、うん、と頷いた。
「僕の下の妹の、佳音ちゃん。すっごい可愛いでしょ?
佳音ちゃん、彼女はクラスメートの高津 (たかつ)さん」
(なるほど、『僕の友達』でもなく名前で呼ぶような親密度でもなく、『ただのクラスメート』さんね)
普通の兄妹ならば、別に互いの男女関係を正直に告白する事も無いだろうが、佳音にやたらと甘いシスコンな蓮の事だ。もしも高津とやらに気があるのならば、佳音にも好きになってもらいたいとばかりに、もっと熱が入って嬉々とした口調で紹介するに違いない。
つまり、この女は今日のところは下校を共にする機会をものに出来ただけで、蓮に一方的に想いを寄せている十把一絡げの一人に過ぎない。
「初めまして、高津さん。いつもうちの蓮がお世話になってます」
「あはは。佳音ちゃん、それじゃまるで年長者みたいな言い種だね」
蓮の背中に身体半分隠れるようにして、兄の背中にべったりと抱き付いたまま、佳音はぺこりと高津に向かって小さく頭を下げてみせた。
コンセプトは、恥ずかしがり屋で身内以外には人見知りをする、内気な少女だ。だが、高津には佳音の『あらあら、わたしの旦那がお世話になっているようで。おほほほ~』な真意が十分伝わったらしい。内心、姉の咲来の方が客観的に見ても断然美人だな、と冷静に評価を下した高津の頬が僅かにひきつった。
「初めまして、佳音ちゃん。高津ミカコです。
確かに可愛らしいけど、あんまり宇佐木君には似てないね?」
蓮からフルネームですら紹介して貰えなかった高津は、佳音の事を小生意気でうざったいクソガキだと認識したに違いないのだが、それでも挫けず将を射んとすればなんとやらで、蓮に同調するような台詞を紡ぎ出してきた。
まあ、佳音には彼女の口にした『可愛い』が『小さい子』だという意味しか抱いていないという本心は思い切り透けて見えたが、要は蓮が気が付かなければそれで良いのだろう。
連れ子同士なんだから似てなくて当たり前だっつーの、と佳音が内心こっそり胸の内で毒づいていると、蓮はキョトンとした表情で首を傾げた。
「えっ、そうかな?
僕はけっこう似てると思うけど」
「そ、そうなんだ」
何でやねん、とやはり心の中だけでツッコミを入れる佳音。
「兄妹の中で特に、僕と佳音ちゃんは一番性格がそっくりなんだ」
しかし蓮は、なんとも判断に困る台詞を笑顔で言い放ったのである。
そして佳音の背中に腕を回し……ランドセルを背負っているせいで、腰の下の方に回しつつ抱き寄せ、
「それじゃあ、僕はこれで。さよなら高津さん」
「え、ええ。宇佐木君、また来週学校でね」
「バイバイ、高津さん」
目を瞬いて甘い声を出し、言葉に出さないまま延々と『何か』をねだってきていた高津にあっさりと背を向け、佳音を促しながら帰路についた。未練がましく蓮の背中を一心に見つめてくる高津に、べーっ! と舌を出してやりたいのは山々だが、そんな仕草をしては蓮に呆れられてしまうので、目が合った瞬間にふふんと鼻で小さく嘲笑ってやるに止める。彼女はムッと表情を歪めるが、簡単に苛立ちを顔に出してしまうなど、高津は明らかに蓮には不釣り合いな小物だ。
それでも、佳音の知らない蓮の姿を知っている上に、図々しくも下校時にアタックを仕掛けてくる。
知らず知らずのうちに、兄の腕に抱き付いている腕にはギュッと力が込もっていた。
「んだよ、今日は落ちゲーだっつっただろ!?」
「いいえっ、昨日のリベンジよ! ダンスゲームで勝負!」
家族皆で賑やかな夕食を終えて、佳音が自分の部屋ではなくリビングにて宿題に取り組んでいると、ゲーム機を抱えた翔と、そのソフトをずいずいと突き付けながら後を追ってきた咲来が、言い争いながらどやどやとリビングになだれ込んできた。
この二人は、同い年なせいかほぼ常に何事かを競い合っているが、最近はテレビゲームによる対戦にハマっているらしい。
「お、佳音。宿題中なのか。
テレビ、良いか?」
「勉強の邪魔になるなら、場所移るけど」
どうやら家の中の一番大きなテレビで華々しい決闘を演じたいらしく、先客の姿に気が付くと、二人揃って微妙に気まずそうな表情を浮かべ。翔がゲーム機とテレビを交互に指差して確認してきた。
「ううん、良いよ。もう終わったし」
コクリと頷いて佳音が同意すると、翔は早速ゲーム機のコードを接続し、すかさず咲来がダンスゲームのソフトを挿入した。
本当のところ、蓮の事を考えてばかりで宿題にも身が入らずにいた。この状況ならば例え佳音が一人でぼんやりしていようとも、翔と咲来は互いの勝負に熱中するので必要以上に構われる事も無いし、はたからは兄と姉の対決を高みの見物しているようにしか見えないので、物思いに耽るには好都合である。
《ねえもっと、こっちを向いてよダーリン。
あなたと過ごしたあの夏、キラキラ眩しい水しぶきをもっと一緒に感じて欲しいの》
テレビから流れてくるやたらと明るいアップテンポな曲とは裏腹に、その歌詞は微妙に女々しい。
翔操るナイスバディ美女は、曲に合わせてリズミカルかつダイナミックにくるくると華麗なダンスを見せているが、画面を二分しているもう半分、咲来操る野球帽の少年は先ほどから操作ミスを連発されて微妙なポーズを繰り返している。
「よっ、はっ、ほっ!」
だが、リズム感など全く感じさせない裂帛の気合いを発しながら真剣にコントローラーを握る咲来の横顔は、こんな時でも美人である。オマケに、明らかに劣勢であるにも関わらず、その表情は実に楽しそうだ。
「良いなぁ……」
せめて、咲来ぐらいに美人だったなら良かった。それならば、佳音自身は忌み嫌っている『子供の武器』を駆使せずとも、蓮に色目を使う少女達を堂々と追い払えただろうし、少しはあのとぼけた兄に意識して貰えたかもしれない。
可愛らしい顔立ちの同じ母から生まれた姉妹であるというのに、佳音と咲来は全く似ていない。悲しい程に。
咲来は柔らかで自然な栗色の髪とパッチリとした瞳の、人目を引く綺麗系な美少女であるが、亡き父親似である佳音はお世辞にも美少女とは言い難い。剛毛な黒髪は重たい印象しか与えないし、鼻は低くて一重瞼の目というどこまでも平凡な顔立ち。
「ん? 佳音もやりたいか?
ちょっと待ってろ。すぐに勝負をつけてやる」
「なんですって? 聞き捨てならないわね。佳音、お姉ちゃんが翔にぃを倒して場所を譲らせてあげるからね!」
単に、(わたしもお姉ちゃんぐらい美人だったら、蓮お兄ちゃんにあんまり子供扱いされなかったかなぁ?)などと、無意味な想像を巡らせていただけだったのだが、兄と姉がゲーム対決をしている様子を眺めながら呟いたのは失敗だった。これでは、自分もゲームで遊びたいのに、二人だけで楽しんでズルいと羨ましがっているようにしか見えない。
「はんっ。このおれに勝とうなんて、100年早ぇんだよ咲来!」
「甘いわ!」
「なっ! いつの間にジャマーを習得しやがった!?」
何だか別の意味でも勝負に熱が入った二人は、案の定というかこれまでの戦績から導き出される想定内ケースで翔が有利にゲームを進めていたのだが、どうやら咲来が何かの妨害工作を講じたらしく、翔操るナイスバディ美女はダンス中にぼい~んと転んでしまった。咲来操る野球帽の少年はその隙に、華麗なダンシングで点数をがしがし稼いでいく。
しかし、圧倒的に開いた点差を埋める事は叶わず、曲が終了した時点で勝者のスポットライトは美女の方に輝いていた。
「キーッ! く~や~しいぃぃっ!」
「お姉ちゃん、すっかりゲームにハマってるね」
敗者は去るのみ、とばかりにコントローラーを佳音へと放り投げ、両手をぶんぶかと不満気に振り回す咲来。美少女というものは、そんなおバカっぽい仕草でさえ可愛らしく映るから不思議である。
「佳音、操作方法分かるか?」
「全然分かんない」
一方、今日も勝利を収めた翔は上機嫌で佳音にコントローラーを握らせ、ゲームの遊び方を説明し始めた。要は、画面に表示される記号と対応したボタンをリズムに合わせて押していけば良いらしい。
「初プレイだからイージーモードにしとこう」
「翔にぃ、あたしにはそんな気遣いしてくれなかったクセに」
佳音が翔から遊び方を教わっている間に、部屋から化粧ポーチを持ち出してきた咲来は、不満気にそう漏らしながら佳音の背後に座り、妹の下ろしっぱなしの髪の毛をいじりだす。
佳音が操作キャラクターを適当にひょろ長いあんちゃんを選び翔がステージを決定すると、テレビ画面からは先ほどとはまた違う、どことなく静かなバラードが流れ始めた。
《昨日も今日も、何も変わらない一日だなんて、諦め始めていたけれど。
ねえ、違うのね。時は過ぎ去っていくの。変われないのは動けない私のせい》
画面の中に次々と現れては消える記号に合わせてボタンを押しつつ、ぼんやりと歌に耳を傾ける佳音。テレビの中でひょろ長いあんちゃんは、軽やかにひょろひょろと回転する。
「ねえ、お姉ちゃん」
「ん? なぁに?」
「お姉ちゃんは綺麗なのに、どうしてわたしは綺麗じゃないのかな?」
「はぁ?」
以前から感じていた疑問を口にすると、隣の翔が素っ頓狂な声を上げた。テレビ画面の中で、ナイスバディ美女がつんのめる。
しかし姉の方は佳音の背後に腰を下ろした姿勢を崩さず、コームやピンを操り髪の毛をいじる手も休めない。
「何言ってるのよ、佳音。
い~い? 美しさっていうのは、待ってても来てくれるものじゃないわ。自分で作り上げるものなのよ」
佳音の髪の毛をぐいぐいと引っ張り、謎の工作に励みつつ姉は力説し……
「って、匡にぃが言ってたわ」
「受け売りかよ!? ってか、匡兄さんとどんな会話してんだか……」
しれっとそんなネタばらしを交えつつ、咲来は佳音の肩をポンと叩く。
《そうよ、一歩を踏み出すの。
大丈夫よって自分に言い聞かせて。
だってあなたは受け止めてくれるもの》
テレビ画面の中ではひょろ長いあんちゃんがどアップで映り、夕日を浴びながらの大ジャンプを決めて回転しながら着地、フィニッシュの文字がフラッシュし、曲も最後の音が消えた。
「だから例えばさ、こんな髪型にしてみるとか」
じゃーん、とばかりに咲来は佳音の眼前に手鏡を翳してきた。いつもの見慣れた平凡な佳音の顔が映り込むそこには、自信満々な姉の手によって頭上に結い上げられた二つのお団子頭。
いや、お団子というより三角形を象っている。ネコミミヘアーとでも言うべき髪型だ。
「……お姉ちゃん、器用だね」
「やだもう、可愛いじゃない佳音! あんたこういう髪型の方が断然似合うわ」
「ありがとう。わたし、もう行くね」
「おお……って、うぉ、パーフェクトフィニッシュだと!?」
佳音は早速この髪型を蓮に見せたいと思い立ち、コントローラーを放り出してそそくさと立ち上がったのだった。
佳音の髪型に唖然とした眼差しを向けていた翔が我に返り、改めて視線を向けたテレビの中では、ダンスタイム終了画面でひょろ長いあんちゃんがなんとも言い難い決めポーズ姿勢のまま夕日を浴びており、そのスコアにギョッとした声を上げた。
咲来もまた「ええ!?」と驚愕の声を上げるのを尻目に佳音はリビングを飛び出し、蓮の部屋へと一路廊下を駆け出した。
蓮と佳音の自室は、宇佐木邸の中の子供部屋として割り振られた区画内でも、最も近い隣り合った場所にある。
誰にも気付かれずに行き来するのも容易であるし、互いの部屋を遮る壁に耳を当てれば音だって筒抜け。
そんな兄の部屋の前に立ち、ドアをコンコン、と小さくノックすると、中から「どうぞ」と入室を促す蓮の声が。佳音はノブを回してドアを引き開け、弾む足取りでスルリと室内に。
勉強机に向かっていた蓮は、座ったまま椅子を回転させて身体ごと背後に振り返るも、ろくな対応もとらせずにぴょんと飛びかかってきた佳音に「わっ!?」と驚きつつ、咄嗟に妹の腰に腕を回して支えてやった。
「どうしたの、佳音ちゃん?」
「見て見て、お姉ちゃんが髪結ってくれたの!」
椅子に腰掛けている蓮の膝の上にどっかりと座り、向かい合わせになる体勢で兄を見上げた佳音は、両の人差し指で頭上の辺りを指差した。
不安定な場所の為か、微妙にもぞもぞと身動きして安定姿勢を探る佳音が背後から倒れ込んで頭をぶつけないよう、蓮は彼女の背中へと回した両手を更に引き寄せる。
そして、佳音の髪の毛に目をやって唇を綻ばせた。
「うん、すごく可愛いね。似合ってるよ、佳音ちゃん」
いまいちどころかいまさんぐらい、期待していた反応とはズレているが、かといってそれでは蓮からどういった台詞を引き出したかったのかと言えば、佳音は自分の心ながら明確な答えが見えてこない。
ただ、今の彼女に分かるのは、この対応があからさまに子供扱いだ、という事ぐらいである。
次なる話題を求め、佳音は蓮の顔から机の上へと視線を滑らせてみた。しかし、そこに広げられた難しそうな参考書や教科書、ノートに目がいき、途端に罪悪感に駆られた。
蓮は今年、高校三年生の受験戦争真っ只中という忙しい立場なのである。いくら気の優しい性格であろうとも、集中して勉学に励みたい時に甘えん坊な妹が邪魔をしてきては、ストレスが溜まるだけだ。
「蓮お兄ちゃん、お勉強の邪魔になるなら出ていった方が良い?」
佳音はシャーペンが転がっているノートに指を滑らせ、小声で問う。いかに見慣れた蓮の筆跡であろうとも、そこに綴られた文字や記号は佳音には全く理解出来ない。さながら宇宙文字だ。
慌ただしく押し掛けて来た挙げ句、今更になって申し訳なさそうに神妙な態度をとる佳音に、蓮はクスリと笑みを漏らした。
「このままじゃ、勉強にはならないね」
「じゃあええとね、わたし、お夜食作ってきてあげる!」
なんとしてでも、ただのお邪魔虫のままで今夜を終えてなるものかと、兄の役に立てそうな名案を打ち立てて膝の上から下りようとしたのだが、蓮は佳音の背にがっちりと回した腕の力を緩めもしない。
「それはいいよ。また明日、お願いできる?」
「う、うん。
あの、お兄ちゃん? わたし、そろそろ下りようかと……」
身を捻ってアピールしてみても通じないので、腕を離して欲しいと遠回しにお願いしてみたのだが、
「う~ん、どうしようかな?」
蓮は楽しげな笑みを浮かべて、離すどころか益々力を込めてきた。自然と、佳音の上半身は彼の胸元にもたれ掛かるようにして密着してしまう。
「蓮お兄ちゃ……」
「僕ね、これから土日の予定は殆ど埋まってるし、今夜から勉強量が増えるんだ。
だから今日からは佳音ちゃん、一人で眠れる?」
ぎゅっと抱き締められて、心臓が痛いほどにドキドキと大きく騒いでいた佳音は、思わずポカポカと蓮の胸板を拳で叩く。
「お兄ちゃんっ! わたし別に、お兄ちゃんと一緒じゃないと寝れないような小さい子供じゃないっ!」
「こら、痛いから叩くのはやめようね」
片手であっさりと手首を掴まれてしまい、抗議に振り上げた拳は封じ込められて。佳音は不満な気持ちを隠す事無く、頬を膨らませながら顔を背けた。
気の進まない蓮に、無理に添い寝して欲しいなどと頼み込んだ訳ではないのに。兄の言い草ではまるで、佳音がワガママを言ってそれを強要していたかのようではないか。
「蓮お兄ちゃんは、いつまでわたしを子供扱いするつもりなの。
大人扱いなんて無理だろうけど、むずがる赤ちゃんをあやすみたいな態度をとらないで」
「あのねぇ、佳音ちゃん。僕は君を、わざと子供扱いしてるつもりはないよ?」
佳音の背中に回されていた腕が滑るように上ってきて、そして掴んでいた手首も離されて。蓮の両手は、彼女の頬を優しく包むようにしながらそっとその顔を上向かせた。
佳音の瞳に、どこか苦笑気味な表情を浮かべた蓮の顔が映り込む。その整った顔立ちは段々近付いてきて、彼女のおでこにコツンと額を当てた。
「僕は君を赤ちゃんみたいだなんて思ってもいないし、ずーっと『可愛い佳音ちゃん』としか思ってない。そういった態度しかとってきてないんだけど?」
「だからそれが、嫌なの!
わたし、わたしは……蓮お兄ちゃんの事が好きなんだから!」
息が掛かるほどに近い距離にいる蓮に、混乱と緊張がない交ぜになった不可思議な興奮状態の中、佳音は(言った! 言ってやったぞ!)と、何かをやり遂げた達成感を得た。
「僕も大好きだよ、佳音ちゃん」
だがしかし、毎度の事ながらこの兄は佳音の一世一代の決意を込めた告白をさらりと躱して、にこっと微笑む。
「だから、そうじゃなくて……」
「佳音ちゃんこそ」
兄妹愛だとか、憧れや親愛の気持ちの『好き』じゃないのだと、否定しようとした佳音の言葉を、蓮が珍しく強い口調で遮った。
頬に優しく添えられていた手が、後頭部に回されて……グイッと引き寄せられ。ただでさえ近距離にあった蓮の瞳が、睫毛が触れ合いそうな程近くにある。声を出そうにも、唇を塞ぐ柔らかい物は何なのか。
「佳音ちゃんこそ、早く僕の『好き』に追い付いて」
硬直している佳音の頭を撫でていた手は、いつの間にか宥めるように背中を撫で下ろしている。
「れ、れれれ蓮お兄ちゃんっ!?」
「好きなんだから、一緒に眠れないのは寂しいよね?」
「え? あ?」
今、キスされた!? と、混乱の中にある佳音を置いてきぼりにして、蓮は全く動揺した様子もなく先ほどの話題に立ち返った。
「僕が寝るのは凄く遅くなるけど、もし良ければ佳音ちゃん先にそこで待っててくれる?」
『そこ』と、指し示されたのは蓮のベッドで、佳音が五人ぐらい並んでも窮屈さは感じなさそうな広々とした大きさ。
「……蓮お兄ちゃんの、勉強の邪魔にならないのなら、待ってる」
上手く状況が整理出来ないままであったが、本心から言えば蓮と一緒に眠るのは嫌ではないどころか嬉しかったし、それは今までもこれからも子供扱い故の行為ではない、のだろうかと胸がドキドキと高鳴った。
「そうしてくれると、僕も嬉しいな」
もう一度蓮の顔が近付いてきた時には、佳音は自然と両目を閉じて両手を彼の首に回し、自分から抱き付いていた。
(ねえ、蓮お兄ちゃん。わたしが抱いてるこの『好き』以上の気持ちがあって、あなたはそれをわたしに向けてくれてるの?)
二度目の口付けの余韻にうっとりしている佳音の頭を撫でてやりつつ、蓮は楽しげに片手で参考書をパラリと開いた。
「そうそう、それでね佳音ちゃん。僕の勉強時間が増えたのは、これを学ぼうと思って」
佳音が難しそうな参考書だと思ったそれに記載されていたのは、見たことも無いような謎めいたマークがページにビッシリと並んでいる。
「黄色いダイヤ地に、ジャンプしてる……馬?」
「惜しいっ。ここに角があるでしょ? これは『シカ飛び出し注意』の標識」
「こっちのは見たことある。赤い逆三角形に白字で『止まれ』」
「それは一時停止だね」
「蓮お兄ちゃん……いったい何を勉強してるの?」
様々な図形は、どうやら道路標識や案内のようだと見当はついたが、わざわざそれを、受験生という忙しい時期に学ぶ意義が掴めず佳音は首を傾げた。
「運転免許には、学科試験があるんだよ」
「免許取るの? え、だってお兄ちゃんまだ17歳じゃ……」
「試験場で資格を受けれるのは18歳からだけど、教習所へは今から通えるから」
蓮は笑みを浮かべたまま佳音を膝から下ろして床に立たせると、彼女の顔を下から見上げるようにしてその唇を軽く指先でなぞる。
「夏休みには、二人で遠出しようね」
「うんっ」
蓮が誕生日を迎えるのは、暑い日差し照りつける夏の最中。
免許を取ったならすぐに、他でもない佳音をドライブに誘ってくれるだなんて、それはもう嬉しくて仕方がない。
「先に寝ててね」と、やんわりと勉強に戻りたいと促された佳音は、いつもより早いスピードで脈打つ心臓を静めようと、自らの胸元を手のひらで押さえた。そんな行動をとったところで、蓮の姿を眺めているだけで、鼓動は勝手にリズムを早める。
「お休み、佳音ちゃん」
「お休みなさい、蓮お兄ちゃん」
いつも当たり前に交わしていた就寝の挨拶だけれど、蓮と佳音の間ではその日から密やかにそこに一つ、新しい習慣として『お休みなさいのキス』が加わった。
そして、蓮のベッドに潜り込みながら佳音は考えた。きっと、明日の朝からは『おはようのキス』が付け加えられるのだろうと。
…………それから約三年後の、とある夏の日の事。
佳音が食べていたアイスキャンディーを、当然のように蓮もパクパクと食べてしまい、新しいアイスを買わせに近場のコンビニにまで足を向けた。
「蓮お兄ちゃんのバカ」と拗ねてみせれば、この兄は甘やかしに甘やかしてくるのだが……そうすると、後で悔やむ羽目になると既に学んでいる佳音は、適度に不満を露わにするに止めた。人間、何事もほどほどが一番である。
「佳音ちゃん、暑くない?」
「あつ~いっ! んもう。いっぱいアイス買ってね、お兄ちゃん!」
夏場には欠かせない大きな日傘を蓮がわざわざ持ってくれたので、佳音は小さなポシェットを引っ掛けただけの手ぶらのまま、兄と手を繋いで道路を歩く。家から最寄りのコンビニまでは本当に近く、徒歩でほんの数分しか掛からない。
「佳音ちゃんも、来年はやっと高校生だね」
「そうね。あっという間だったわ」
「僕には、途方もなく長かったよ」
ペロリと小さく舌を出しつつ佳音がわざと軽く答えると、蓮は大真面目にしみじみと呟いて、ふと立ち止まった。
「あのね、佳音ちゃん。お願いがあるんだけど」
「どうしたの、改まって?」
この兄が、平時にこうして『お願い』をしてくるだなんて珍しい。大抵の物事は自力でどうにかしてしまう人なだけに、佳音を頼ってくるだなんて滅多にない。
蓮は佳音と繋いだ手に少しばかり力を込めた。珍しく緊張しているようである。
「佳音ちゃん、中学を卒業したら……僕と一緒に暮らさない?」
「もう一緒に住んでるじゃない」
「そうじゃなくて……」
ぎこちなく、僅かばかり視線が逸らされた。その頬は、夏の暑さだけでなくほんのりと色づいていて。
「ほら、家に居たらパパやママが居るでしょ?
いずれは僕が継ぐって言っても、何もずっと同居してなくても」
「蓮お兄ちゃん、よく分からないよ?」
蓮が言いたい事はなんとなく察した佳音だったが、わざと空惚けて可愛らしく小首を傾げてみせた。
蓮は一瞬微妙に気まずそうな表情を浮かべるも、笑いを堪えている佳音の姿で真意を理解したらしい。瞬きする間にその面には甘い笑みを浮かべ、佳音の耳元へ唇を寄せてくる。
「どこか二人で住む部屋を探して、来年から甘い新婚生活を始めませんか」
そうして、いつから考えていたのかは分からないけれど、蓮はかねてから大真面目に考案していたらしい口説き文句を、熱い吐息と共に囁いてきたのだった。
……そう。来年も、再来年も、その先もずっと。