第四十四章『ポーツマス紀行』
第四十四章『ポーツマス紀行』
ボストンの北八十キロの小さな街…というと、なんとなく『ペイトンプレイス物語』を
思い出す向きもあろうかと思うが、ここは港町ポーツマス。
そこのアメリカ海軍造船所ビルが日露の講和会議の舞台となる。
七月十七日…会議は冒頭から紛糾する。
『本格的な会議開催は日本が不法に占拠しているロシア領から退去するのが前提となる』
…ロシア側次席代表、前駐日公使にして新駐米公使のローゼンの先制パンチに
小村寿太郎が少し顔を青くしながらも反撃する。
『我が帝国は国際法、交戦規定に背くようなことは何一つしていない。そもそも
ロシアが清帝国との約束に従い、満州に不法に居座ること無く撤退していれば
今次の戦争は起こらなかった』…物別れ。双方ホテルに引き上げる。
ウィッテは考えていた。あいつは何者だ?…コムラを始め小男ぞろいの日本代表の中で
頭一つ以上も背の高い男。外務省ショクタクとかいう訳のわからん肩書きで席に着き、
やたらと煙草を吸いながら傲然とあごを上げてわしらを眺め回していた。
他のメンバーは緊張で身体を固くしてるのが傍目にもよくわかったが、あいつだけは
物見遊山にでも来ているように、薄ら笑いさえ顔に浮かべておった。
なんなのだ、あのツバキという男は?
そう!椿は物見遊山でここに来ているのだ。
ミッション…史実より有利な条件で講和する…をコンプリートできるかどうかの
現場に居合わせたかったので、メンバーに入れるよう桂太郎首相や山県有朋に
求めてかなえられたという訳だ。奉天会戦以後、椿の立場はもくろみ通り
『闇の帝王』に近づいていた。
ホテルのボーイが椿に聞いた『汝は日本人なりや?』『然り』
『汝のように大きな日本人は多いのか?』『君よ長生きしたまえ。一世紀の後には
我のごとき者は日本人に珍しく無きことにならん』『汝は日本のどこに生まれしや?』
『ミヤギノ地方のミョウブダニという所なり』…むろん冗談だが、このボーイが
1960年代の日本に観光旅行に来て、クラマエでスモウを見物することがあれば
あるスモウレスラーの名に遠い記憶を呼び覚ますことになる…かもしれない。
ロシア側が使うフランス語はもちろん英語もろくに知らない椿が会議に出る必然性は
まるで無い。あくまで見物…ハワイを含めてアメリカ旅行をしたことが無かったし…
敢えて言えば、史実でのロシア側の出方を知ってることで小村達の背中を支える役を
務めることである。
「大丈夫ですかね椿さん」
「最初はあんなものでしょう。小村さん達には釈迦に説法でしょうが、外交交渉で
最大の難敵は交渉相手じゃなくて味方ですからね。あの強気のポーズはニコライ二世に
見せる為のものですよ」
「時間がかかりそうですな」
「ウラジオに砲弾を撃ち込まずに済めばいいのですが…じっくり腰を据える覚悟で
いきましょう。このホテルはステーキもビールもなかなかうまいですし」
椿は霜降りより赤身の肉を好む、アメリカンステーキを毎晩ワンパウンド、国費で
たいらげた。
日本側の予想は結果的に外れた。アメリカの担当者が走り回って開催にこぎ着けた
二回目の会議でウィッテは具体的な条件提示をすることに…表面は渋々に見せながらも…
同意した。
『日本の朝鮮半島に対する優越的指導権、遼東半島の租借権およびハルビン〜旅順間の
東清鉄道などのロシア利権の譲渡、双方の軍隊の満州からの撤兵』はあっさりと
認められた。
しかし『償金の支払い、領土の割譲』は強硬に拒否をされた。想定内のことである。
『ここはあわてずにね小村さん』
数日をあけたのみで開かれた次の会議では『中立国に抑留されたロシア艦艇の譲渡』にも
応じて来た。だが日本…椿には絶対譲れない一線がある、粘ることだ。
そしてロシア側の軟化の理由がわかった。『バルカンで大規模な武力衝突が発生』
日本からの情報より当地の新聞からの方が早かったが…
『ヨーロッパの火薬庫』に着いた火が大爆発につながるかどうかはまだわからない。
しかし、史実のバルカン戦争に比べても五年以上早いこの動乱は日露戦争による
ロシア帝国の威勢低下と無縁では無かろう。改変の効果?は思わぬ形で現れた。
『沿海州沿岸の漁業権の付与』そして…
『ウラジオストック付近および沿海州南部に侵攻している日本軍の撤兵』と引き換えに
『サガレンおよびその付属諸島の日本への割譲』をロシア側が認めることで
講和条約が同意に達したのは八月八日のことであった。
やった!『樺太全島を獲得する』…これが椿にとっての必須条件…『次』の為に…も
ファンファーレが(椿の頭の中で)鳴り響いた。
コングラッチュレーション!ミッションコンプリート!!
椿は手にすることが出来た。新たな自由と力…『次の戦争を楽しむ為の』だ!
つづく
ようやくここまで来ました。やらなくてはならないことはまだ残っています。始めるのは簡単でも終わらせるのは難しい…のは戦争だけではありません。もう少しおつきあい下さい。そしてともに楽しみましょう『次の戦争』を!