第四十二章『ツシマ…3』
第四十二章『ツシマ…3』
帆走によらない、蒸気機関によって動く近代的軍艦による大海戦はまだ数例しか
なかった。日清戦争の黄海海戦、米西戦争、そして日本海海戦。
最初のは(ヨーロッパから見れば)世界の僻地で起こった、野蛮国どうしの戦いであり
軍事関係者以外にはそれほど注目されなかった。二番目のものは海戦というより『屠殺』と
言った方がふさわしい一方的な戦いだった。スペイン領キューバでの騒乱に端を発した
この戦争はアメリカの言いがかりとしか思えない理由で宣戦布告がなされてる。
アメリカ軍艦『メイン』の爆沈事件がその理由だが、当時スペインにそんなことをする
必然性は全くと言っていいほど無かった。その後の歴史が証明しているように
『先に手を出した』悪逆なる敵を打ちのめす『アメリカの正義』のプロトタイプ…
かなり露骨な…とされている。攻撃、防御、速力、数のいずれでも隔絶する
アメリカ艦隊がスペイン艦隊を叩き沈めた。結果、アメリカは西インド諸島の一部、
太平洋のグアム、フィリピン群島を手に入れる。キューバがその後百年にわたって、
頭痛のタネになったのは計算外だったろうが。
規模からいっても、双方の戦力のバランスからいっても、今後の海軍戦略にとり今次の
日露の海戦は世界の注目に値した。…黄海海戦やウルサン沖海戦も価値はあったが、
その決定度において『ツシマ海戦』には見劣りするということだろう。
日露艦隊の戦力はなるほど、見方によっては伯仲していた。
日本海軍主力…戦艦『三笠』『敷島』『富士』『朝日』の四隻
一等装甲巡洋艦『出雲』『吾妻』『浅間』『八雲』『常磐』『磐手』
『日進』『春日』の八隻
ひとくちに戦艦と言っても、技術革新が著しいので旧式と新鋭ではかなり差がつく。
排水量一万〜一万五千トン、厚い装甲が施され、三十サンチ級の主砲を連装二基四門を装備
中小の砲を多数舷側に並べてあり、十五ノット前後の速力をだす。
これがこの時代の戦艦の標準である。
日本の四隻に対してバルチック艦隊は八隻を擁し、巨砲の数では優位に立つ。
装甲巡洋艦は、六千〜一万トン、戦艦と比べると薄いが装甲を持つ。
主砲は二十サンチ級を連裝二基の四門、多数の舷側砲を持つ。
攻防とも戦艦より非力だが速力は十八〜二十ノット以上と速い。
日本は八隻でバルチック艦隊の三隻を圧倒していた。
他の中小の巡洋艦、駆逐艦などを合わせた総合戦力で日露の艦隊は
ほぼ伯仲していると考えられた。
海戦が個艦同士の砲力のぶつけあいであるならば、双方同程度の損害を出すだろう。
あえて優劣を付けるとしたら乗員の練度だが、これも見方によって評価は
定まらなかった。日本海軍に高い点を付ける者も、昨年八月の黄海海戦で旅順艦隊の
主力を撃沈できなかったことからその射撃能力に疑問符を付ける。
だがそれは日本海軍の砲弾の性質から来るものであった。『下瀬パウダー』と呼ばれる
高温の燃焼ガスを発生する火薬を詰め込んだ砲弾は、敵の装甲を破るというより
艦上構造物に大火災を引き起こしその戦闘能力を奪うことに威力を発揮した。
敵艦を浮かぶ鉄の箱にした後、水雷戦隊でとどめをさす…これが日本海軍の
用兵思想である。そもそも冶金技術、砲熕技術の進歩の度合いの差により
この時代は砲弾の貫徹力より装甲の方が勝っていたのだ。
海戦の結果はほぼ一方的なものだった。勝負は始めの三十分でついたといわれる。
北上するバルチック艦隊を迎え撃った連合艦隊は『東郷ターン』…敵前での回頭により
敵進路を押さえ込む形で砲撃を開始した。むろんその間、射たれっぱなしだった日本艦隊は
三笠以下大きな損害を受けたが、すぐに補ってあまりある戦果をあげることになる。
不規則な二列縦陣で進むロシア艦隊はそれぞれの先頭艦,スワロフとオスラビアが集中攻撃を
受けて火災が発生、戦闘能力を喪っていった。
なんとか日本艦隊から逃れようとするロシア艦隊は、何度も進路を変えるがその度に
東郷に先を読まれて果たせない。そのうちに砲弾だけでは沈まないはずの戦艦オスラビアが
海中に没した。その理由は日本海の波の荒さにあった。艦が大きく傾くため装甲が
施されていない艦底部分が露出して、そこに砲弾を受けることになる。また、艦上に
あいた穴からも海水が入り込み復元力を奪っていったのだ。
何度目かのターンで第一戦隊の殿艦…最後尾…になった三笠に飛来した二発の砲弾、
一発が艦橋を直撃、東郷以下司令部幕僚のほとんどを死傷させた。なぜか秋山真之だけは
かすり傷だったが、後に彼が精神の均衡を崩す原因はここにあったのだろうと言われている。
もう一弾は発射直前の第二主砲塔に命中、誘爆した下瀬火薬により三笠は大破炎上する。
先頭艦になっていた装甲巡洋艦日進も攻撃を集中され、水線下への命中弾により
沈没を免れなくなった。このとき第一戦隊司令官…第一艦隊の次席司令官
三須中将が負傷して、日本艦隊は指揮系統に大混乱を起こす。
日進に乗り組み『左手の指一本』を喪いながら、駆逐艦に救助された少尉候補生
高野五十六は後にこのときのことを思いかえしては『指揮の混乱と言うリスクを
考えると指揮官先頭という策は敢えて採るべきではない』と語った。
このときロシア艦隊を取り逃がすという危機を救ったのは上村彦之丞中将が指揮する
第二艦隊だった。参謀佐藤鉄太郎中佐の具申を容れ、『我に続け』の信号旗を揚げると
混乱する第一艦隊をよそに突進した。非力な装甲巡洋艦で戦艦部隊に挑むのは大きな
危険をはらんでいたが、このときすでにロシア艦の多くが火災を起こし戦闘能力を
落としていたのが幸いした。快速を利して接近すると速射能力を存分に発揮してロシア艦隊を
打ちのめした。
結局、三笠と日進、艦尾からの浸水が止められず沈没した装甲巡洋艦浅間の三隻が
日本艦隊が喪った主力艦のすべてであり…他水雷艇四隻…その後の推移は史実と
変わりはなかった。ロシア戦艦は沈むか降伏して拿捕された。巡洋艦以下もほとんど
同様の運命を辿り、撃沈、拿捕、中立国に逃げ込んで武装解除を受けるなどの結果となった。
バルチック艦隊は文字通り『消滅』した。目的地ウラジオストックに到着できたのは
小型の巡洋艦一隻、駆逐艦二隻と運送船一隻だけであった。
この恐ろしい二ユースが確報となってロシア帝国の宮廷に届いたとき
皇帝ニコライ二世も、そして彼に常に強攻策を吹き込み続けて来た
皇后アレクサンドラも呆然とする以外になかった。ほぼ同時に入って来たのは
傷口に塩をすり込むような情報だった。
『日本軍、樺太に上陸』
つづく