第四十一章『ツシマ…2』
第四十一章『ツシマ…2』
連合艦隊参謀、飯田久恒が起草し秋山真之が補筆した電文『敵艦見ユトノ…』から
軍艦マーチをバックに艦隊が出撃するシーンは、やはり心が躍る。
椿は三つの映画でこのシーンを観ている。先述の『明治天皇と日露大戦争』
東宝の『日本海大海戦』…三船敏郎が東郷役。東映の「海ゆかば』である。
不思議なことに、もっとも映像的にちゃちな『明治天皇と…』が一番迫力があった。
奇跡的な編集の良さによるものと思われるが、後の作品になるほど妙な『てらい』が
あって、素直に感情移入できなかったように記憶する。
『海ゆかば』を観たときのちょっとしたエピソード…前の席に小学生の男の子と
父親と思える男性が座っていた。画面は佐世保?に単艦寄港していた戦艦三笠の
出航シーン、子供が聞いた『日本は三笠だけなの?』父親『…そうだね』
んなわけねーだろ…だが、椿とほぼ同世代だろう日本人の日露戦争に関する知識は
その程度の方が普通なのかもしれない。作品の方にも問題はあって、ほとんど三笠内で
話が進み艦隊を組んでの進撃シーンなど出てこないからだ。沖田浩之の熱演にもかかわらず
話も画面も暗い映画だった。かくして、誤った知識は親から子へしっかりと受け継がれていく。
午後二時、東郷はバルチック艦隊を前にして『Z旗』を揚げた頃だろう。
大本営にいる者達は待つしかない。椿もコーヒーとタバコで時間をつぶしていた。
…海戦も楽しいだろうが、この目で見るには危険すぎるよな。それに、旗艦から
肉眼で見える範囲で決着がつく時代は終わろうとしている。将来?海軍を指導するときも
モニター…じゃ無くて兵棋盤を前にすることになるだろう。神奈川の日吉辺りに
連合艦隊の司令部を造らせて…
長い三時間の後、待望の戦況報告が入った。
海軍軍令部長、伊東祐亨の顔が紅潮し、そして青ざめた。
渡された電文を大本営海軍部員の山下源太郎が読み上げる。
『敵戦艦、スワロフ、ボロジノ、アレキサンドル三世、オスラビア撃沈。
残余の艦にも多大なる損害を与えたり』
室内に安堵のどよめきが起こる。
『当然というか史実通りだな』と椿も思った。
それにしては伊東や山下の顔色ががよくないが…
『現在残敵の掃討を続行中、艦隊主力は明朝までに鬱陵島海域に終結
北方に遁走せる敵を捕捉せんとす』
『当方の損害。三笠大破炎上中、東郷司令長官は艦上にて壮烈な戦死を
遂げたことを確認せり。日進沈没、第一戦隊司令官三須中将負傷。
浅間舵機損傷、ほか各艦の被害軽からずも戦闘続行可能なり』
部屋の空気が凍り付いた。椿ですらさすがに一瞬息がとまった。
「発信は第二艦隊司令長官の上村中将の名でされています」
山下の声が震えている。無理もないか、連合艦隊を…海軍を…いや、この時点では
日本の命運を担っていた東郷の死だ。
戦果は史実通り…損害が『幾分か』多くなっている。
だが、これは充分あり得る事態だった。むしろこの方が適切な結果ではなかったかと
思わせるほど史実が奇跡的だったのだ…と椿は思う。
横須賀の記念艦三笠に行ったときのことを思い出す。艦橋はふきさらしの高所だ。
東郷平八郎は戦闘中ずっとそこに立っていたという。参謀達が司令塔…厚い鋼鉄の円柱で
被弾したとき身を守るための施設…に入ることを勧めても応じなかった。
『あそこは外が見にくくてのう』というのが理由だが、指揮官先頭のリリシズムという
面が強かったのではないか。
旗艦である三笠は相当な数の被弾をしている。砲弾の大きな破片が東郷のすぐ近くに
刺さったこともあったという。数十センチずれていたら…この世界では
ずれたのだろう、破片か砲弾それ自体が…
長岡外史を目で誘って、静まり返った部屋を出る。
海戦の成り行きは明日以降の戦闘が終わり、詳報が来るまでわからない。
椿にはやること、考えることが山ほどある。
東郷の死は歴史改変の一つの、割と思いがけず大きな結果だろう。
まあいい、『軍神』にはなるだろうが『生きた軍神』でなければ弊害は無い。
誰も反論できないような『生きてる』存在は組織、軍や国家にとって有害だからだ。
もちろん椿自身を除いては…だ。
『終わりのための戦いを始めなくてはならない』
つづく