第四十章『ツシマ…1』
第四十章『ツシマ…1』
「海軍の方では、待って欲しいということです」
長岡外史がビールを飲み干したグラスを置きながら言った。
「バルチック艦隊との戦いが終わるまでは巡洋艦どころか水雷艇の一隻も
出せないそうです。ふー…ヱビスもよいですが今日のように暑いと、この『ドライ』が
うまいですな」
新しいもん好きだよなあ、この人は…井戸で冷やした缶ビールのロング缶、
三本で一ポイントだ。俺も滅多に飲めないのだが、長岡には色々やってもらって
いるからな。ゆであがったばかりの空豆を口に運びながら椿は思った。
「おっ、有り難うミサ。君たちも一杯ぐらいどうです?…井戸からもう二、三本
持って来て下さい」
顔を見合わせて、それでもうれしそうにビールとグラスを取りに立つ二人。
新しい酒であるビールは日本の気候と日本人の嗜好にあったらしく、戦後に
大繁盛するビヤホールには女性客の姿も多かったという。
「東郷閣下の気持ちもわかりますがね。ことはタイミング…時機が大切ですからなあ」
「その時機は海戦の結果にも左右されましょうな」
「ん……艦艇の手配は後で詰めるとして、作戦計画を二段階に分けて設定しましょう。
第一段階はことによったら、見切りで実行するのも可かと…おお、来たか。
さ、グッとやろうじゃないか」
仏印…フランス領インドシナのカムラン湾で合流した、ロシア第二、第三太平洋艦隊…
日本で好まれている呼称『バルチック艦隊』は五月十四日ごろ出航したらしい。
これは、十九日に台湾とフィリピンの間のバシー海峡で三井物産のチャーターした
ノルウェー船が、ロシア艦隊から臨検を受けたことで確認された。
陸戦の改変効果は海のスケジュールを変えるほどには波及していないようだ。
ならば、二十七日にはツシマ沖で海戦が起こるだろう。
連合艦隊だけでなく日本全体の…いや、多少でもこの戦争に興味がある世界中の
人々が待つ、じりじりとした時間が過ぎていく。
『結果』を知っている椿も、周囲の気にあてられたのか何か落ち着かず、酒と
タバコの量が日を追って増えていった。
バルチック艦隊の進路については、連合艦隊の中でも色々と説が出て混乱もあったという。
日本艦隊との戦いを避け、太平洋を北上して津軽や宗谷海峡を抜けるのではないか?
その場合、現在連合艦隊がいる韓国の鎮海湾から出撃したのでは捕捉、撃滅が困難で
ウラジオストックへの遁走を許すことになりかねない。戦艦、巡洋艦の数隻でも
ウラジオに入ってしまうと、日本周辺の航路は再び脅かされることになる。
また、あの困難な封鎖作戦を続けるのは避けたい。
最後の数日バルチック艦隊の消息が途絶え、想定速度からいって対馬海峡に現れるはずの
二十五日になっても位置がつかめなかったことから、幕僚達の焦慮は頂点に達した。
要は、長旅による機関の疲労、艦底付着物の増加、老朽艦の多い第三太平洋艦隊との
合流などによって想定より速度が遅かっただけなのだが…
『もはや北に移動するべきではないのか?』
だが東郷平八郎は動かなかった。
『敵が対馬に来る…というから、来るさ』と言ったらしい。
『東郷は運のいい男でございます』とは、連合艦隊司令長官に抜擢したときの
海軍大臣山本権兵衛の言葉だがそれは正しかった…この時点では……まだ
二十七日、午前六時三十四分、旗艦三笠から打電されたあの有名な電文を
椿は泊まり込んでいた大本営で聞いた。
『敵艦見ユトノ警報ニ接シ、連合艦隊ハ直ニ出動シ之ヲ撃滅セントス、
本日天気晴朗ナレトモ浪高シ』
つづく