第三十六章『奉天へ…1』
第三十六章『奉天へ…1』
椿が立見尚文、臨時軍司令官(建て前上いまだにそうなっている)の承認のもと
…というより、なかば見切り発車で送り込んだ増援部隊四千が黒溝台に着き、
沈旦堡と李大人屯の塹壕…工兵隊は先発させてあった…に飛び込んだとき
秋山支隊の守る三十キロに及ぶ戦線の前には、見渡す限りの大地を覆い隠した
ロシアの大軍が迫っていた。
事前に児玉源太郎に話しを通し、大山巌総司令官からもらっていた裁量権…
日本軍左翼の守備についての限定的な…を行使したのだ。
秋山支隊の兵力は一万を超えることになった。十二門の野砲と十八門の機関砲が
支隊の火力にプラスされている。
少しはましになったろう。秋山支隊につぶれてもらっては困る。
この戦争で英雄が出るなら、それは乃木希典ではなく秋山好古であって欲しい。
彼の創設した、機動力と火力を併せ持つ機動兵団を日本陸軍のスタンダードに
する為にも生き残ってもらわねば…
もっとも、秋山好古は自らがおかれた戦略上の必要から陣地にこもり敵を迎え撃つと
いう不本意な戦いを強いられているのだが。
一月二十五日、攻勢作戦を開始したロシア軍の動きに日本軍も即対応した。
まずは砲撃の応酬、日露の大砲の数はともに約千二百門で拮抗している。
その中には椿が旅順から引っ張って来た十二門の『二十八サンチ榴弾砲』と
黒井悌次郎中佐が率いる海軍陸戦重砲隊も含まれる。この両者は中央正面を
担当する第二軍、四軍に与えられ、それぞれの正面のロシア軍陣地に巨弾を
降らし始めた。
グリッペンベルグにとって少しだけ意外だったのは、沈旦堡の西に展開している
日本軍歩兵が思ったより分厚い陣を敷いていたことだ。
しかし、その乃木第三軍にしても眼前の敵に対処するだけで手一杯であり
秋山支隊との間になだれ込んでくるロシア軍を押しとどめることは出来なかった。
李大人屯から黒溝台、沈旦堡にいたる秋山支隊の陣地群…かなり離れていて相互支援は
困難…には二個師団強、五万の圧力がかかり頭も上げられないような状態だった。
それでも、一部だが野戦築城レベルの防御陣地と機関砲が敵の接近を許していない。
ロシア軍の戦線後方への浸透を防げないのも確かだが…。
会戦三日目、小やみになった雪の中、七万を超えるロシア軍が沙河北方の平原に
進出したときグリッペンベルグは奉天の司令部で勝利を確信した。
同じような確信のもと前進の脚を速めたロシア軍将兵の前にそれは現れた。
「…………!?』
前方の、左右に延々と連なる低い丘陵線上に見渡す限り日本軍が並んでいた。
縦隊となって進むロシア軍の前で、日本軍は鶴が翼を広げるように機動する。
「日本軍の総予備隊か…ん、十万だと?臆病者め、過大報告に決まってる!」
グリッペンベルグがそう思うのも無理はない。会戦を行うにあたって総予備隊が必須なのは
前にも述べたが、日本軍にそんな大兵力が残っている訳はないからだ。
それでも彼は、手元の予備隊三万を急行させることにした。
…奉天はほとんど空になった。
椿は滂沱しながら観ていた。
折からわずかに雲が切れ、差し込んだ数条の陽光の下で繰り広げられる
一大ページェントを!
彼我十数万の軍勢が、雪煙を上げて動きぶつかりあう。
とどろーくつつおーと、とびくーるだんがん…おっと、これは『広瀬中佐』か…
臨時立見軍七万が、ほぼ同数のロシア軍を包み込むように展開し攻撃している。
激闘…多数の機関砲を持つ日本軍が押すと思えば、後から後から増援部隊が
参入してくるロシア軍が押し返す。
ちなみにこのときの日本は、椿の軍と緊急に輸入したものを合わせて千門近い数の
機関砲を持ち、世界最大の機関砲(銃)大国であった。ドイツやイギリスも
まだ制式兵器としては採用していなかった。
「これ、これ、これが観たかったのだ!生きていてよか……ん!?」
「突出しすぎています。退がりましょう!」
副官井上大尉の声に気がつくと、なるほど大分敵影が近い。
さほど遠くないところに砲弾が落ちたりもしている。
椿は見物してるだけで、実際の指揮は各級の指揮官がやっているから
最前線にいる必要は、本人の興味以外にはない。
楽しさに我を忘れていたが、さすがに少し退がるか…
振り返ろうとして、ふと見上げた空に黒く丸い点が見えた。
「…砲弾?…丸く見えるということは、まっすぐこちらに向かってくる?」
すべてが輝き、そして暗転する数瞬の間に椿五十一郎は思った。
「やるべきことは……やった…」
つづく