第三十四章『黒溝台は燃えているか』
第三十四章『黒溝台は燃えているか』
満州軍司令部では約半月もの間、作戦計画を巡って揺れ動いていた。
元々日本軍は二月後半、寒さがやや緩み、それでもまだ河川が氷結していて
移動が容易なうちに奉天のロシア軍に攻撃をかけるという素案を持っていたが、
そこに『ロシア軍大増援』の情報が入ったことから事態は一変した。
参謀、松川敏胤大佐の主張する積極案はロシア軍がふくれあがる前に
攻めるしか勝ち目は無いというもので、多くの参謀が同調していた。
これに対し、井口省吾少将は沙河の陣地を強化して敵野戦軍を待ち受け、
出血を強要すべしと言って譲らない。両者の説には一長一短があり
さすがの児玉源太郎も決めかねた。
意見を求められた椿は言った。
「気がつきにくい点ですが、敵が攻勢に出てくるとしても、五十万が揃ってからとは
限らないのではないでしょうか、児玉閣下」
「……そうだな。グリッペンベルグが自軍の優勢を確信した時点で出てくる可能性は
十分考えられる」
「加えて、これ以上の増援が望めないと判断する事態が起きれば、それが引き金に
なるでしょうな」
「そんな事態が起こると?」
「ニコライ二世は気まぐれだそうですから」
「………」
「しかし、この厳寒期に大規模な動きをしてきますかね」
「松川さん、その厳寒期を利用してナポレオンを破ったのはどこの国です?」
「………」
「すると、たとえ待ち受けるにしても立ち後れてはならんということですか」
「しかりです、井口さん。お客を迎えるにはそれなりに準備がいります。
松川さんの案が求めている積極性、攻撃性は待ち受ける場合にこそ必須ですよ」
「いずれの策をとるにしても『鴨』はすぐにでも動かせるよう指示を出しとくか」
「全く、長岡のおかげで変なものを創らされたが、『あれ』にも働いてもらわんとな」
参謀達の話しに出た『あれ』とは少し前に東京での話しに出た『あれ』である。
『鴨緑江軍』…満州野戦軍から戦力を引き抜きでっちあげた新しい軍。
乃木第三軍から第十一師団を引き抜いて中核とし、後備師団、後備旅団を
それぞれ一つずつ加えた総兵力三万弱の軍が『あれ』という訳だ。
特徴は大本営の直轄軍であること…当面は満州軍司令部の指揮に任せられているが、
現地軍にとって面白かろうはずもない。また、十一師団はともかく後備を多く
含んでいることから戦力としては低く見られており、司令部の参謀達からは
『鴨軍』と呼ばれ軽視されていた。
だが、椿はその創設を支持した。戦争終結への切り札の一つだと考えたからだ。
八十キロ近くにも及ぶ対峙線での日本軍の配置は以下の通りである。
最右翼(東)に鴨緑江軍、三万
右翼…黒木第一軍、四万五千
中央右…野津第四軍、六万
中央左…奥第二軍、五万五千
秋山支隊(奥軍所属だが半独立)…五千
左翼(西)…乃木第三軍、四万五千
総予備隊…臨時立見軍、七万五千
総兵力三十一万五千…これは現時点でのロシア軍とほぼ同じ兵力と思われた。
ただし、開戦以来の損耗を後備の兵で補充した上の数字であり、欧露からの
現役兵で構成されているロシア軍と比較すると質の面で同等とは言いがたい。
だが史実の奉天会戦は二十五万の(質の落ちた)兵で三十二万のロシア軍と
戦ったのだ。旅順攻撃での損耗が少なかったことで、質も少しは上のはず。
松川敏胤の積極案とは史実の奉天会戦のそれである。
まず、鴨緑江軍がロシア軍左翼(東)の山岳地帯に進出、点在する敵陣地を
攻撃しつつ前進して奉天側背を脅かし、ロシア軍をそちらに引きつける。
次に第三軍がロシア軍右翼(西)を攻撃しながら西に回り込み、やはり奉天側背に
脅威を与える。その後戦力が薄くなる…と予想される…中央正面で第一、二、四軍が
攻撃をかけ突破しようというものだ。
多分に手前勝手な要素が入っており、その複雑な作戦計画のどこか一部に齟齬を
生じれば、全体が破綻しかねない危険性があった。
クロパトキンは見事に引っかかった…陽動にいちいち丁寧に、過剰に反応したあげく
…中央正面では日本軍の攻撃をがっちり受け止め、頓挫寸前に追い込んでいたにも
かかわらず退却命令を出すという大失策をやって自ら『負けて』くれた。
乃木軍と秋山支隊の進撃に必要以上に脅威を抱き『嫌気』が差したのが原因と
されているが、松川の計画にそれまでの経験から得たクロパトキンの思考様式が
入っていた…と見るのはうがち過ぎだろう。
かろうじて奉天を落とし、ロシア軍に…主に退却時に…大損害を与えたとはいえ
『敵主力の撃滅』という大目的は達成されなかった。
これは中央正面のロシア軍の陣地群…準要塞ともいうべき堡塁群に攻めかかった
第一、二、四軍が戦力をすり減らしてしまい、追撃の力をもたなかったことによる。
砲弾欠乏も一因とされるが今回?は問題ない。八十万発の備蓄があるから…
しかし!グリッペンベルグが同様に動く可能性は限りなく低い。
こちらの兵力、砲力が史実よりましとはいっても、徹底的に粘られたら勝機は薄い。
力を使い果たし、よくて相打ち…実質日本の敗北となるのが関の山だろう。
その場合に打つ『最後の一手』を持ってはいるが、椿としては敵に出て来て欲しい。
沙河戦ではその場に居合わせなかった。大平原を埋め尽くす大軍勢の大激突…
やたらと『大』がつく文字通りの『大会戦』を自分の目で見たい。
戦闘が終わった荒野に立ち…もちろん勝ったとして…累々たる死傷者を眺めながら
『この世で敗北の次に悲惨なものは勝利だ』などと言ってみたい!
嗚呼、それを夢見て幾十年…
出て来いグリッペンベルグ。これは俺が楽しむ為の戦争なのだから。
『ペテルスブルグの血の日曜日』の情報が飛び込んで来た。
「椿さん、これが例の引き金に?」
「なるでしょう」
「敵はどこに来ると思いますか」
「おそらく秋山さんのところ…黒溝台」
つづく