第二十八章『冬営』
第二十八章『冬営』
「大山達は沙河の線でとどまって動こうとせんようだな」
「賢明だと思いますよ、山県閣下」
「しかし椿さん、あのままの勢いで奉天を衝けば…」
「奪れたでしょう。でもね長岡さん、そのときはロシア軍は逃げるだけです。
大山さんと児玉さんが欲しているのは満州の地面じゃないんです。
日本の勝利に必要なのはロシア軍将兵の命…ということです」
「なるほど、土地はもともと清国のものですからな。明け渡しても惜しくないと
いう訳ですか。兵站のことを考えるとこちらは無制限に北上できませんからな」
さすがに軍人宰相、桂太郎は飲み込みが早い。
ただ、それは相手がクロパトキンなら…なのだが、ここでは言わないでおこう。
「まあ、そこは現地軍に任せるしかなかろう。それより今日は椿君に
『社会主義』のことを聞こうと思ってな。警視庁の伊集院警視と検察の
平沼君にも来てもらった」
平沼騏一郎…後の首相。1939年ソ連を押さえるための防共協定を結んでいたドイツが
当のソ連と不可侵条約を結んだことで辞職する。そのおり『欧州の天地は複雑怪奇』との
珍声明を出し、外交能力の無さを露呈して歴史に名を残す。検察官僚として『犯罪者の
指紋採取』を発案、推進したことでも知られる。
伊集院影韶…ヨーロッパ留学から戦争前に帰朝した警察官僚。薩摩出身だが山県有朋に
近づき成功する。同時期に留学していた漱石夏目金之助と面識を持つ。
「欧州各国、中でもロシア帝国における革命党…無政府主義者、社会主義者の活動は
大なるものがあります」
平沼が口火を切る。
「無政府主義とは人間が相互扶助により生活をするならば政府はいらないというものです」
「笑止じゃのう。歴史が積み上げてきた文明の進歩に逆行するものではないか。
で、社会主義とは?」
「労働者階級、すなわち職工貧民階層による絶対政府を作り、そのもとで強制的に
相互扶助を行うというものです。その課程で富裕層に対する闘争、暴力革命を
引き起こします。王権、帝権は否定されます」
最後の言葉に山県の顔が少し引きつる。
「明石元二郎大佐がロシアはもとより各国の革命党に働きかけて敵の後方撹乱に
成果を上げとります」
長岡外史参謀本部次長は得意そうだ。なにしろ参謀本部は明石に百万円という巨額の
工作資金を持たせてある。実際、明石は期待を遥かに上回る成功をして見せるのだ。
だが、山県は以前会った明石の狂的ともいえる、物事への集中ぶりを思い出しながらも…
「革命党とは獅子身中の虫…だのう」
一同を凍り付かせる冷えた物言い…椿をのぞいて。
「ドイツ帝国では…ビスマルクはどう対処していたのかね?」
この老軍人政治家は自分を六年前亡くなったドイツの鉄血宰相になぞらえている
ところがあったようだ。
伊集院が答える。
「ドイツでは押さえつける方向でした…が」
「ならば帝国の方針は決まりだ。帝権を脅かすごとき輩は弾圧すべし!
たとえ現在国内の勢力が小さいとしても毒草は芽のうちに摘み取らねばならぬ。
社会主義者…『社会』という言葉…も根絶させたい」
『昆虫の社会』という本が取り調べを受けたという笑い話が生まれるのはこのためだ。
「まことにその通りかと。…いかがですかな椿さん」
桂が話を振ってきた。さて…と。
「弾圧だけでは根絶は難しいと考えます。社会主義の発生はある意味歴史の必然と
いえます。風通しの悪いじめついた部屋を閉め切っていて、カビの発生を
防げますか?梅雨時ならなおさらですが」
「同感できる所もあります。ドイツを始め欧米各国でも社会改良をもって国力を
増進させ、併せて主義者の活動を封じる試みもなされているようです」
「さすがに見るべき所を見ていますね伊集院さん」
「歴史の必然と言いますと?」
「それはですね桂さん、知識を持たない国民だけがいる国には革命は起こらないと
いうことです。逆に言えば近代国家たるには…国を進歩させるには多数の知識層が
必要となり、社会主義なり革命なりはその知識層が中心となって発生する。
つまり、一等国たらんとすれば必ず向き合わなくてはならない問題なんです」
「弾圧以外の方法は?」
「将来的には国民のほとんどが知識層になり、食うに困らなくなれば問題は解決します
それでも反抗しようとするものはごく少数になり、浮き上がってしまいますから
そこを刈り取ればよろしい」
1970年代の学生運動とそこから浮き上がった過激派の運命がそれだ。
「将来的には…ですね」
「ひるがえって、今の世界…いや日本の現状はどうでしょう。不作が続けば
子供を売ったり、間引かなければならない小作農や残飯さえ買うのに汲々としてる
都市の貧民階層など主義者にとっては絶好の狩り場でしょうね。
『倉廩満ちて礼節を知る、衣食足りて栄辱を知る』…管仲の言は真理ですよ。
…二十一世紀の日本人に当てはまるかはさておき…
それでも、日本では国民の大多数が社会主義に傾倒することはないと思います。
国家が国民を統治する最低条件は『今日の飯はなくとも、明日には食べられるかも
知れない』という夢を持たせることです。日本はぎりぎりそれが出来ていると
思いますからね。出来ていないのがロシア帝国です」
「我が国ではロシアのごとき混乱は生じないというのかね?」
「ぎりぎりと言いました。が、それをより安全にしていく方策はあります」
「聞こう」
山県も不機嫌そうだが、沙河戦の大勝利の後だけに『御使い』の言葉を
聞く耳は持ってるようだ。
「まず、戦争が終わったら民力を休養させる…食える者を増やすということ。
次に、職工階層に穏健な組合を作らせて、彼らの言い分を少し聞いてやり
引き換えにこちら側に取り込んでしまうことです」
「ドイツなどでもそうした動きは出てきているようです」
伊集院はそつがない。ドイツの名を出せば山県を操縦しやすいということだ。
昭和の陸軍にもそんな所があったようだが…
「第三に、子供達に社会主義の致命的欠陥を教えてやることです」
「そんなことをして、やぶ蛇になりませんかな?」
「平沼さん、子供達は親が隠したり『してはいけません』というものほど、
覗きたがりやりたがります。危険だといわれる遊びをしたがりますよね。
手品のタネを明かしてやればいいのです。すぐに興味を失うでしょう」
「社会主義は手品ですか…で、そのタネとは?」
「一例ですが、社会主義には王権とともに宗教の否定、神の否定が加わります。
ところがいったん社会主義の政府が出来ると、その国民に絶対服従を要求する
ことになります。批判を許さず服従を求めるの者といえば『神』そのもの
ではありませんか。一見先進的に見える思想が実はもっとも古い
古代エジプトの神官政治と変わらないものなのです」
「なるほど大いなる矛盾ですな」
「しかし、ちと気の長い話にも思えるが…」
「社会主義との抗争は今後、少なくとも百年は続く可能性があります。
気長に対処していく必要があるのですよ」
「…………!?」
「日本は、山県閣下達の維新以来の努力によって、なんとか『食える夢』を
見られる国になっています。ですが、世界には日本が天国に見える国や地域が
山ほどあります。列強の植民地を始め、そうした悲惨な状況にあるものの方が
そうでないものより遥かに多いとすら言えます。手品にだまされる、あるいは
たとえだまされても夢を見たいと思う者達は後を絶たないでしょう」
「ことは日本だけで済まないということか」
すぐにどうこうなるという話ではない。放っておいても良かったかとも思う。
ただ、明治のラストを暗澹たるものにした天皇暗殺未遂事件…いわゆる
『大逆事件』や、その後の歴史の暗い部分に少しでも変化が出るかな、
といった程度の興味でたいして詳しくもない社会主義について語ったのだ。
戦争について、よりすごく疲れた。
夜…長岡と牛鍋をつつく。それぞれレイとミサに酒をついでもらいながら
話は本論の戦局に向かう。
「満州は相当寒くなっているようですな長岡さん」
「塹壕に潜り込んで『冬営』ということになるんでしょうか?」
「判断に迷っています。下手をすると逆転を食らうかもしれないのでね」
「お、脅かしっこなしですよ椿さん。何が起こるというんです?」
…ひとつ手を打つ必要があるかもしれないな…
「レイさんお酒!今夜は少し過ごすかも」
「はい、お疲れのようですね。マッサージはどうなさいます?」
「もちろんやってもらえるとうれしいなあ」
「マッサ…なんですそれ?」
つづく
サブタイトルに偽りあり…になってしまいましたが、ピンとくるものが浮かばなかったもので…メインタイトルからして今のところ大偽りですし、悪意と被害の少ない詐欺にあったと思って許してやってください。