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第二十三章『麦と兵隊』

第二十三章『麦と兵隊』


『……ぐぁら…ぐぁら…ぁら…ら…』


『ぐぉお…ぐぉ……ぉ………』


『ずぐぁ……………ん…ん…』


以下繰り返し…

その朝始まった日本軍の砲撃はその規模においてロシア軍の予想をはるかに

上回っていた。旅順要塞前線のほぼ全域、とくに松樹山、二竜山、盤竜山、

東鶏冠山など中央正面の主要堡塁群には絶え間なく砲弾が降り注いだ。

これまでになかった『急行列車が鉄橋を通過するときのような』と

形容される轟音とともに落下する巨大な砲弾も多数混ざっている。

堡塁前面の地雷原は細かく区切ったます目を一つずつ塗りつぶすように

掘り返されていく。


ロシア守備隊は若干戸惑いながらも、まだ事態を楽観していた。

…ヤポンスキー(日本軍)も少しは工夫してきたようだが結局は同じことだ。

一日か二日の準備砲撃が終われば正面から突っ込んでくる。堡塁群は少々の

砲撃で崩れるようなやわなものじゃない。またマカーキ(猿)の屠殺場にして

やるだけだ………


少し慎重な者は遠望する日本兵の姿に違和感をうったえた。頭に見慣れない妙な物を

かぶってるし、身体も一回り以上でかいように見える。やつら、ほんとうに

日本軍なのか?


『グァラ…グァラ…グァラ……』以下略


砲撃は次の日も、そのまた次の日も続くことになるので視点を移そう。


東京…


「森君が文句を言っとるそうじゃ」


「森…林太郎軍医ですか山県さん?」


「将兵からも不評でしてね、困ってるんですよ椿さん」


「長岡さん、脚気の予防のためという説明はして頂いたんですよね」


「ハア…ですが、細菌学的に立証されてない…と主張されましてね。

勝手に麦飯なぞ食わされては士気にもかかわるということです」


「…あと二、三ヶ月続けてみればはっきりします。現在罹病している者が快復

したら、とりあえず文句は消えるでしょう。研究は後でじっくりやって

もらえばよいのです」


「………」


「でないと、三万近い数の兵を脚気で失うことになりかねませんよ」


「わ、わかった。ともかくしばらく続けるよう指示しておきます」


現代日本ではほとんど見なくなった『脚気』はビタミンB1の不足によって

起こる病気である。昭和三十年頃までは結構多く、膝の下をハンマーでたたいて

反応を見る検査法は少々ユーモラスでもあり、よくまんがのネタになっていた。

江戸時代、諸事に見栄っ張りな江戸っ子は白米を好んだ。商店でも、たとえ

おかずは漬け物だけの粗末さであっても白米を従業員に食わせた。

結果、多発する脚気は『江戸やまい』と呼ばれたりした。


欧米にはないアジアの風土病とされていたが、食習慣の違いに注目したのが海軍で、

麦食を取り入れたことにより海軍将兵から患者は一掃された。

だが、陸軍ではドイツなどに留学して細菌学を学んだ一派が、原因は『まだ特定が

されていない細菌によるもの』であり、海軍のは俗論にすぎないと攻撃した。

その急先鋒が、鴎外森林太郎である。結果、史実では日露戦争中、将兵に

多数の患者が発生した。


脚のむくみ、倦怠感、歩行困難と進む脚気は作戦行動に大きな支障をきたし

最終的に三万近い…二個師団分の死者まで出したとされている。


「兵士達の気持ちはわかりますよ。この国の民の多くは米を腹一杯食うのが

夢だったんです。徳川の時代、国民の九割をしめる農民は自分たちが作る

米を満足に食えなかった。明治の御代になって、山県さん達の努力でましに

なったとは思います。でも、こんな話もあるんです」


山がちの寒村、米はほとんどとれない。一生、米を口にすることなく

老いていく者も多い。わずか一握りの米を大事に竹筒に入れてとっておき、

老人が死にかけたとき…


「食わせるのかね?」


「耳元で竹筒を振って音を聞かせるんですよ。山県さん」


『ああ…米の音だ』といって老人は死んでいく。


「………っ。貧はつらいのう、椿君」


「日本が一等国になったと言えるのは、臨終間際の老人に音ではなく、米そのものを

食わせられるようになったときです。さらに、真の一等国になれば多様な食品から

栄養素を摂ることができ、麦を食べなくても脚気になることはなくなるでしょう」


「来るかね、そのときが?」


「必ず!…ただ急ぎすぎてはダメです。上を向いて走ればどぶにおちるか、

つまづくか…です。無理をすると国が乱れます。半端に進歩して、貧乏で

乱れた国は社会主義の温床になりますからね」


「社会主義…?」


つづく


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