第十九章『道程』
第十九章『道程』
第三軍司令部では九月半ばに再度の総攻撃を行うべく準備を始めていた。
そこへ大本営から、増援および大量の砲弾を送るので、それまでは前進拠点の確保と
拡充に努め、総攻撃は見合わせるようにとの指示が来た。
本来、指示(実質命令)は命令系統違反だ。第三軍への命令権は満州軍司令部にある。
だが、満州野戦軍は目前のクロパトキンひきいるロシア野戦軍との戦い…終わったばかりの
遼陽の会戦に忙殺されていて第三軍を看る余裕がなく、なかば放任状態だった。
陸戦を仕切った満州軍参謀長の児玉源太郎も、戦前に対露戦の作戦計画を担当した
前任者達も旅順攻撃は頭になかった。旅順は遼東半島先端にあるのだから半島の狭隘部を
遮断しておき、満州の平野で主力を撃破してしまえば孤立した要塞は立ち枯れるしかない訳だ。
だが、海軍の事情がそれを許さなかった。開戦劈頭にロシア艦隊の撃滅に失敗した連合艦隊は
黄海の制海権確保…満州との航路の安全のために、旅順港に引っ込んでしまった敵艦隊の
封鎖という苦行にも似た作戦行動を続けざるを得なかった。『陸上から攻めるしかない』
こうして乃木の第三軍が編成された。
六月に遼東半島に上陸した第三軍は順調に攻囲線を進め、八月十九日から本要塞に総攻撃を
かけたが大損害を出し弾薬も底をつき、二十四日には攻撃を中止せざるを得なかった。
ほぼ同時期に行われた遼陽の会戦は、日露の兵力が十五万対二十二万だった。
日本軍は悪戦苦闘の末、なんとか遼陽を占領するが敵主力は取り逃がしてしまう。
兵力も砲弾薬も限界だったのだ。乃木の持つ現役兵三個師団の五万がここにいれば…と
児玉は思っただろう。しかし旅順の状況はそれどころではなくなっていたのだ。
日本陸軍には近代的要塞の攻略法についての知識、感覚が欠けていた。
いや、実のところ世界のどの国にも…なのだ。
古来、堅固な要塞(城塞)を攻めるには補給を断っての兵糧攻めがもっとも有効と
されてきた。地形的に完全な包囲ができなかったり、時間的制約などのために
急がざるを得ない場合、膨大な出血を覚悟の攻撃が行われた。
火砲の発達が要塞攻略の概念を変え始めたのが、十五、六世紀のオスマントルコによる
一連の征服活動だ。コンスタンチノープルの城壁、ロードス島騎士団の城塞はこの
新時代の攻撃…大砲、地雷(踏むと爆発するそれではなく、トンネルを掘り城壁の下に
仕掛けた火薬を爆発させる、後の坑道爆破戦術)…にさらされた。
その後、攻撃法と築城技術は相互に進歩していくが、砲撃、坑道、兵糧攻め、突撃
という基本はあまり変わらない。攻める側が苦労することも…
日露戦争の四十年前に行われた『デンマーク戦争』において、精強なプロイセン軍が
バルト海岸に造られたデンマーク軍のジッペル陣地(本格要塞ではない)にさんざん
てこずっている。
最新の築城技術と膨大なベトン、鉄をつぎ込んだ二十世紀の近代要塞に対する攻略戦は
まだ世界のどこでも行われていなかった。
欧米列強を模倣することで進化してきた日本だから、近年に範とする先例があれば
研究し取り込んだかもしれない。だが、その先例は日本が身を以て創ることになったのだ。
第三軍に児玉源太郎から呼び出しがかかった。今後の作戦計画の打ち合わせを大連で
やろうという。乃木と伊地知参謀長が指定された日時に到着すると、すでに児玉は
参謀の少将、井口省吾を連れて待っていた。第七師団長の大迫尚敏中将、第八師団長の
立見尚文中将もいた。立見は少数の幕僚だけ連れて先着しているのだ。
そして乃木達には見慣れない巨体の少将も…
つづく
少しは架空戦記らしくなってきたでしょうか。あ、妄想戦記でしたね。いろいろアヤシクもなってきそうですが、あまり厳密に突っ込まない程度で感想などありましたらお寄せ下さい。