第十五章『ホタルはいないけれど』
第十五章『ホタルはいないけれど』
東京の目白にある山県有朋の私邸、椿山荘…
現代では季節になると、庭園に飼育されたホタルを放ち、部屋の中で
ローストビーフをほおばりワインなぞ飲みながら観賞するという
いかにも箱庭的な有料の催し物が行われる場所である。
余談だが、東京の奥多摩でマスの放流釣りというものをやったことがある。
上流でバケツから放たれたマスを釣る…釣れないので手で岸にすくいあげ
ホイル焼きにしてビールを飲みながら食べたが、あまり楽しくなかった。
十メートル先の見える場所でバケツから流される『餌』をいただいてる感じだもの。
せめて見えないところで流せよ…と思ったものである。
流しソーメンなんかはその辺りの配慮があってまだましだが。
「あの部隊のほかに二個歩兵師団があるというのだね」
「一個砲兵旅団もです。百一連隊の到着を待って遼東半島の大連付近に出しましょう。
総兵力は六万五千ほどになります」
「その兵をもって旅順攻撃にあてる…そいうことだな」
「現在第三軍に属していたり、内地から送られる予定の増援の後備旅団から一部を
拝借させてもらいます。これは攻撃ではなく警備や輸送に使います」
後備の部隊はおもに年齢の高い応召兵からなっていて体力や練度の面で
現役兵と比べるとかなり落ちる。
この時点で日本の現役兵部隊は旭川の第七、弘前の第八の二個師団しか
残っておらず、満州野戦軍や旅順攻撃部隊が受けた損害の補充は後備兵を
あてなければならない状況だった。開戦半年あまりで陸軍は早くも限界を
迎えようとしているのだ。
「この国難にあたっての天の助け、誠に有り難いのですが…」
首相の桂太郎だ。誰にでもニコッと笑ってポンと肩を
叩くところから『ニコポン宰相』というたいそう軽い響きの異名をもつことに
なる桂だが、陸軍上がりであり戦時のプレッシャーにもめげることなく
無難にその役を務めている。
山県、伊藤、桂、長岡に陸軍大臣の寺内正毅まで
この席にいた。皆長州の出身…まさに『陸の長州閥』そろい踏みといった
ところである。
『あなたの軍に表面に立たれますと、対外、対内を問わず説明が難しい』
…というような意味のことを桂は遠回しに言った。まあ当然のことだ。
いずれ、おかしい…と思われるようになるかもしれないが、できるだけ秘匿しておく方が
よいだろう。椿には一応の考えがあった。
「第七、第八の二師団が内地に控置されてますね。そのどちらか、いや両方でも
動員して満州へ送りましょう。その師団長を臨時の軍司令官にして、わたしどもは
その隷下の後備という形をとればいかがです」
「なるほど…ですが…その二つを出すと内地にはもう…」
「ロシア軍はますます兵力を増強しています。出し惜しみをして満州野戦軍が
つぶれてしまえば戦争はもうおしまいです。その時点で二個師団を抱えていて
どうするのか…ですよ。物資の補給等についてはこちらで協力もできます」
いいながら自嘲の念を禁じ得ない。残っている六億弱のポイントを出し惜しみ
してるのは自分だ。貧乏はやはりつらい。
ここにいる内の、桂と寺内が素性の知れない『御使い』とまともに話しているのも
前もって、あの一億円分の純金を見せられているからだ。
「第三軍司令官の乃木の立場はいかがなりましょう?更迭ととられると将兵の士気にも
かかわりますし、陛下の思し召しも…」
乃木軍司令官や伊地知参謀長の更迭論は出始めていたが、以上のような理由で
止められていた。明治帝は武人としての乃木を愛していたらしい。
「こうしてはどうでしょう」
椿の頭にはある言葉が浮かんでいた。遥か後、太平洋戦争で多用されることになる
便利な単語が………
「…わかりました。その線で調整してみましょう。満州軍司令部の大山さんや児玉さんにも
話を通さねばなりませんし、いずれは海軍との調整も必要になるでしょうが」
「それから…椿さん、例の百万発の砲弾の件ですが」
長岡が心配そうに話す。ようやく遼陽を占領した野戦軍からも、旅順を攻撃してる
第三軍からも砲弾の補給を矢のように催促してきている。
大会戦をするには少なくとも二、三十万発が必要とわかってきた。
だが、日本の工厰ではどう頑張っても一ヶ月に五万発の砲弾を製造するのが精一杯。
輸入も急には無理…日本軍は砲弾欠乏のため半年近くは身動きできない状況に陥っていた。
「条件があると言っておられたが…」
「そうです。天…と言ってよいのかはともかく、日本の将来を案じている存在は
助力するだけではないのです。もし日本が道を外れ自ら滅びに向かうようであれば
助けるどころか罰することもあると思ってください。」
「………!?」
「もちろん大筋で…ということです。何も細々したことすべてに口を出すつもりは
ありません。ただ、いくつかの放っておけば日本…特に陸軍を死に追いやりかねない点に
ついて、その中枢におられる皆さんに理解して頂きたいのです」
ここで一服…会合の冒頭以来だ。火をつけたライターが使い捨てで、椿の世界では
一、二銭で買えるものと聞いたときは、既に見ていた長岡をのぞく一同が驚愕したものだ。
「それは『兵站』についてです。」
椿山荘の夜はまだ長い…
つづく
セリフが入ると小説っぽく感じられるでしょうか?はじめのうち、誰のセリフかわかってもらえるか自信が無く、かっこの前に名前を入れようかとも考えましたが教科書みたくなるのでやめました。努力はしますが、わかりづらかったら作者の未熟…ごめんなさいです。