第十三章『世界第二位の男』
第十三章『世界第二位の男』
日本陸軍参謀本部次長、長岡外史は立ちすくみ目を見張った。
突然目前の宙に黒雲が湧き、中に雷光のようなものが走ったかと思うと
一瞬にして雲が晴れ、一人の男がそこに立っていた。
別に黒雲も雷光も必要は無いのだが、そこは演出というものだ。
「き、貴様は何者か?」
日本人なのか?…馬鹿でかい体をした男は一見すると作業着のような、それでいて
妙にけばけばしい色彩の服を着ている。あちこちに横文字が書かれているし…
貧弱なひげを生やしておるな。まあ、世界第二位を誇るわしより立派なひげの
持ち主がざらに居る訳は無いが。
長岡の自慢は顔からはみ出る長大な八の字ひげだった。
『御使い』です、と言いながら男は上を指差した。
「遥か遠く高いところから見ていますと、日本帝国とその周囲に凶兆が満ちており
それはやがて一つ所に凝集していくようでした………旅順に!」
「このままでは日の本の国は旅順のために滅びるかもしれない
そうではありませんか長岡さん」
「す、するとあなたは神の…?」
「日の本が滅びるのを座視するのは忍びないと考えられた存在から遣わされた
使者と思ってください。そのための力も…むろん限られたものですが預かっています。
しかし、なんといっても日本を救う主体はあなたたち自身ですからね。」
二十世紀に生きる長岡が男の言うことを鵜呑みにした訳ではない。
しかし、男が現れたときのあの現象は確かに不可思議なものだった。
それに、旅順が国を滅ぼしかねないというのは毎日のように自分自身で
口にしている事実だ。すがれるものならたとえ藁にでも…
タイムスリップをして歴史改変をもくろむ場合、ふさわしい取り次ぎ役が必要だ。
太平洋戦争なら連合艦隊司令長官の山本五十六が定番。
それより少し前の陸軍なら、永田鉄山や石原莞爾(いしはら
かんじ)といったところだろうか。
時代を動かすキーになる可能性があり、ついでにお話がおもしろくなりそうな
人物と接触して取り込まねばならない。男…少年がこの長岡外史を選んだのは…
「日本を救うべく、旅順を陥とすべくわしらも努力しております」
「いまも重砲の不足に悩む第三軍に二十八サンチ砲を送ろうと
走り回っている最中です」
ほう、言葉遣いが改まったか。
「有坂さんの進言ですか?」
「どうしてそれを…いや、あなたがまこと神様の御使いなら知ってて当然か」
「有坂の言うにはベトンの要塞を崩すには野砲や山砲をいくら撃ち込んでも
埒があかんということです。私も同意見です」
有坂成章は火砲製造技術の専門家。日本陸軍は
彼の開発した三十一年式速射砲と三十年式小銃を主武器として戦っている。
三十一年式は駐退機を持たない、既に旧式化している砲で射程距離、発射速度、
命中精度のいずれでも、ロシア軍の砲に遅れを取っていた。
三十年式小銃の方は世界的に高い評価を受けており、その後開発された
日本製小銃は皆『アリサカライフル』の名で呼ばれるようになる。
「よいところに気がつかれましたな。旅順が攻略できず、連合艦隊が沈み、
満州野戦軍が敗北すれば日本はおしまいです。その時点で港湾を守る海岸砲が
いくらあっても無意味ですからね」
まずは長岡をいい気分にさせて、取り込まねばならない。
「運搬や設置の困難を理由に反対する者もおりましょう。また、第三軍の方で不要と
言うかもしれませんが、かまわずに進められるべきです。名案ですよ長岡さん」
「やあ、これは心強いお墨付きをいただけましたな」
実際のところ二十八サンチ砲はいかに巨砲とはいえ旧式砲であり、
ベトン…コンクリートと土砂で堅固に防御された要塞自体を破壊するのに
絶大な威力を持つ訳ではない。
後に日露戦争の象徴のように喧伝されるこの砲の使い途は別にある。
ともあれ、自分の考えに全面的に賛同を示されて悪い気持ちになる者はいない。
長岡は陸軍大学を第一期に卒業した少将で山県有朋を
頂とする長州閥に属している。
地道な実務家ではなく、かといって野戦攻城を指揮する猛将のタイプでもない。
もちろん無能という訳ではないが、国の存亡を賭けた戦争中の参謀次長という席に
ふさわしいかというと…
実のところ留守番、代理であった。前任者…児玉源太郎が
満州野戦軍を指揮するためスタッフを引き連れ出て行ってしまったためである。
それでも長岡の役目は結構重要であった。そろそろ妖怪の域に入ろうかという
頑迷かつ出たがりの参謀総長、山県有朋が暴走して満州野戦軍の足を引っ張らないよう
調整役が必要で、その点適役とされた。
また、この人物は軍人にありがちな自分の職分に固執して飛躍を嫌う習性をあまり
持たなかった。というより、飛躍しすぎて周りのひんしゅくを買うことの方が多かった。
偵察用の気球に注目したり、敵の伝書鳩を捕らえるため鷹狩り用の鷹を使おうと考えたり…
突飛とも思えるひらめきを得るとそれをまた、即実行に移そうとする行動力を持っていた。
神だろうが何だろうが、使えるものは使う!
そうしたある意味柔軟な思考様式を持つ長岡は少年にとって取り次ぎ役として
ふさわしかったのだ。そして、その期待は応えられる。
「アー、その、『御使い』…では何かとお呼びしづらいのですが、
よければ名前をお聞かせ願えますか」
まあ、そうだろう。予想されたことだ…用意はしてあった。
「椿 五十郎…もうすぐ六十郎になる」
当然のことながらうけなかった…
つづく




