20 〜そして始まりは突然に〜
唐突に誰かの、いやノエルの悲鳴が聞こえた。
「ノエルッ!」
「ちょ、ディンさん、どうしたんですか!」
急に方向を変えて裏路地に飛び込むディンを見て、メイが慌てて叫ぶ。
「ノエルの声が聞こえた!」
「ええ?私は、何も……」
「こっちだ!」
すぐ近くにノエルがいる。自分でも説明できないその予感は確信だった。
ガス灯の光もろくに届かず、ほのかな月明かりですら建物の影に遮られてしまう暗闇。そんな狭い路地裏に、人間が二人。
よく見えないが、一人は男だ。壁に沿うように倒れている。
もう一人はその反対側の壁にもたれたまま座り、うつむいている小さな影。
「ノエル!」
今までで一番もどかしい数メートルを駆け抜ける。
だが、たどり着いたそこには、未だ笑顔を見ぬ少女の変わり果てた姿があった。
「こんな、ひどい……」
カンテラで照らすと、ノエルの小さな体には無数の傷がついていた。さらに首に残った手形の痣を見て、ディンの息が止まりそうになる。
「そんな、こんな残酷なことって……」
ノエルが一体何をしたというのか、ディンには全く見当もつかない。
「ノエル……」
背後で革靴が砂を噛む音がして、男が唸る。振り返ると、亡霊のような男が立ち上がってディンを、いや、ノエルを見ている。
「き、貴様……一体、何をした……!」
ディンは理解した。こいつがノエルをやった。
「お前が、ノエルを……!」
ディンは怒りに任せて懐に手を伸ばしていた。が、その鉄の塊を取り出す前に、相手が動く。狭い路地を信じられないスピードで迫る男の手には、いつの間にか大きなナイフが握られていた。ゆっくりと時間が流れるようだ。
銃声が夜の町に響く。
男はディンの目の前で凶悪な笑みを浮かべている。銃を持った右手はあらぬ方向に弾かれ、当然のごとく弾は外れた。
「な……」
「死ね」
左手でディンの右手を封じたまま、右手のナイフがきらめく。その瞬間、
「はあああああああッ!」
空気を振るわせるような気合いと、訳も分からず目の前で交錯する青と黒の影。あっと言う間もなく、黒の影が吹っ飛んで視界から消える。
その代わりに目の前に降り立ったのは、シスター・メイだった。見たこともないような厳しい顔つきを崩さず、息をつく間もなく吹っ飛んだ黒い影、すなわち男の方へと走る。
頭を振りながらそれでもナイフを手放さずに立ち上がった男は、すでに相手との距離が無くなっていることに気が付いてぽかんと口を開けた。
「あ……?」
高く上がったメイの踵が、地面と水平に繰り出される。その狙いは正確無比に男のこめかみであり、もはやそれは回し蹴りというよりは水平踵落としとでも呼んだ方が良さそうだった。
ばきゃっという耳慣れない音がして、男の体が地面にツーバウンドする。そして今度こそ動かなくなった。
右足が風を切る音と、地面に戻る音。体の回転を追って、優雅にブロンドが舞った。
修道服の裾を直して、メイが振り返る。意味が分からずに思わず言葉をなくしていたディンに、メイは軽くはにかんで肩をすくめてみせた。
「私より、ノエルちゃんを」
はっとしてノエルに向き直るが、彼女の目は伏せられたままだ。
「どうして、こんなことに……」
彼女はただ運命に翻弄され続けていただけ。そこにノエルの意思がどれほどあったというのか。
「君が何をしたって言うんだ……」
どうにも抑えが聞かなくなって、ディンはノエルの肩をつかんだまま嗚咽を漏らす。と、メイが後ろからディンに笑いかけた。
「まだ、泣いちゃダメですよ。ほら」
「……ディン」
静かな声が目の前から聞こえて、ディンは弾かれたように顔を上げる。赤い瞳から放たれた弱々しい視線が、ディンを捉えていた。
「まだ、私、生きてるよ……生きてるから」
途切れ途切れに、しかししっかりと言葉を紡ぎ、少女が微笑む。それは、ディンが初めて見るノエルの笑顔だった。不覚にも涙が次々と溢れて止められない。
「ノエル……良かった……生きててくれて……」
ノエルは不思議そうにディンを見る。
「大人の人でも、泣くんだ」
「バカ、当たり前だろ……ノエルのせいだ」
「悲しいの」
ノエルの髪を撫でるディンの手つきは、まるで本当の娘に触れるように優しい。
「ノエル、人は嬉しくても泣けるんだよ。多分僕は今、人生で一番嬉しい瞬間にいるから、泣いちゃったんだよ」
「そっか……」
穏やかな表情でうなずいてから、ノエルは顔を上げた。
「ディン、私、生きたい。生きていたい」
「ああ、そうだね。それでいい」
「ごめんね、ディン……。それにシスターも」
ディンとメイはほぼ同時に首を振った。
「ノエルちゃん、謝ることなんか何もないんだよ?またノエルちゃんと私たちは会えた、それでいいじゃない?ね?」
「謝るのは僕らの方だ」
目を丸くするノエル。
「どうして……」
「辛いのは君なのに、僕らは話を聞くだけだった。君の痛みを分かち合ってやれなかった」
「そんなことない……私は、ホントは嬉しかった……嬉しかったんだよ」
堰を切ったように涙をこぼすノエル。
「ノエル、改めて言うけど、うちにおいで。僕は絶対に君を投げ出したりしない」
驚いたような表情の後に、また涙をこぼす。ちゃんとこんな表情ができることに、安心する。頭を撫で、抱きしめようとすると、ノエルは左腕を突っ張って目を伏せる。
「ダメだよ……私は、いい子じゃないから…多分、ディンは私のこと嫌いになるよ」
ディンは思わず吹き出すが、ノエルは涙が滲む目をしばたたかせる。
「なにそれ?ノエルはこんなにいい子じゃないか」
背後でメイが笑う。ちょっと涙声だ。
「でも、こうやって迷惑をかけるかもしれない……」
ノエルは視線をそらすが、ディンはいつもの優しい笑顔を浮かべる。
「この世に迷惑をかけない人なんていないんだよ。そんなの当たり前さ。ノエルはノエルのままでいいんだ」
ノエルは呆けたようにディンを見て、泣き笑いのメイを見る。
「私はノエルちゃんが教会に来てくれたら嬉しかったけど、ディンさんにはかなわないですねぇ」
唇を噛み締めながら涙をこらえ、それでも弱々しく腕を突っ張るノエル。
「ノエル?」
「血で、汚れるから……」
「バカだな、もう」
ディンが思いっきり抱きしめてやると、ノエルは大きな声をあげて泣き出した。今まで溜め込んでいた自分の思いをぶちまけるように。
「こんな小さな体で、一人で頑張ってきたんだもんね。大丈夫、これからは僕も隣で一緒に頑張るからね」
走ってくる複数の足音。さっきの銃声を聞いて駆けつけてきた警察官だ。
ご精読ありがとうございました。