19 〜死を受け入れる気持ちとは勇気か、諦めか〜
久々に巡り会えた獲物に、男は興奮を禁じ得ない。精神の高揚を外に出さないようにすることは、もはや難しくなってきている。
目の前の少女はかくも可憐で、儚く、そして何より複雑な精神の持ち主だった。こんな高貴な生け贄に巡り会えるなど、きっと運命が自分の背中を押しているのだ、とさえ思ってしまう。
彼女は、何かの原因で心を閉ざし自分を殺すことで、肉体的な死を望んでいる。いや、男に言わせればそう思い込んでいるだけだ。肉体的な死は簡単だが、それでは良い生け贄にはならない。精神的に追いつめて殺さなければ、せっかくの貴重品も意味がないに等しい。
「随分と我慢強い性格のようだから、君は勘違いをしてしまったんだろう」
言葉の意味を分からなくても仕方ないが、彼女はおそらく分かってしまう。肉体的なダメージを抑えながら、痛みを強く与えるように打撃を与えたのは、彼女の精神を追いつめるためだ。その甲斐あってか、賢い少女は男を完全な異常者と認めたようだった。ただでは死なせないと理解したということだ。
細い指を強く握ると、骨がきしんで少女が痛みに目を見開く。男の動作は機械的で、無駄な動きが一切ない。
「生物の根幹は、死への恐怖だ。簡単に言えば、人だろうが馬だろうが虫だろうが、死ぬことを恐れ、最も避けるように、本能は命令する。いかに人間と言えど逃れられることではないのだ」
先ほどまでは無様に転がりながらも男を見上げ、それがどうしたという年に似合わぬ視線を向けてきたが、今はもうそんな余裕もないはずだ。それが証拠に、彼女の瞳は激しく揺れ、動揺を表し始めている。
右腕を踏みつけながら、男は無機質に続ける。
「理性で押さえつけることはできても、そのたがが外れてしまえば、野生だった頃の真実を思い出し、素直になるものだ。痛いものは痛い、怖いものは怖い……そして、本能通り死を恐れる」
右腕がぎしっと音を立て、少女はたまらず悲鳴を上げる。そのまま力を入れれば折れるだろうが、そのギリギリの苦痛が彼女をより奈落へと落とし、恐怖を倍増させる。
「そう、それでいい。素直になりなさい。君は死にたいようだが、本当はそうではないのだ」
違う。そう言いたいのか、少女の目が思い詰めたように細かく震える。
鳩尾に固いつま先がめりこんだ。
男はかがみ込み、ノエルの瞳を覗き込んで、我慢できずに優しく笑う。
「ようやく本当の君が戻ってきたね。そう、もっと怖がって。そうすれば君は永遠の命にもっともっと近づくことができる。確かに、死ぬこと自体は苦痛だ。そして苦痛のない死は死ではない」
こんなに楽しいことはない。今正に、この少女は本物の恐怖を覚醒させようとしている。
男の言葉が熱を帯びるほど、ノエルは着いて行けなくなる。いいように弄ばれて、体はもうほとんど言うことを聞かない。そして自由を奪われた体に、男の声はより強く響く。
「そして、恐怖。さっきも言ったが、本能的な恐怖だ。さらには知識的な恐怖、とでも言おうか」
勿体ぶるような男の声を聞きながら、ノエルの心に黒いシミのようなものが広がって行く。
「動物は本能で死を感じるが、人にはそれが分かる。死を知識として捉え、その未知なるものに恐怖することができる」
知識的な、恐怖。男はノエルから少し離れ、止めを刺すように囁く。
「何度も言うが君は強い精神力の持ち主だ。だから、内なる感情を全て自らの中に押し込むこともできたし、それで克服したと思っていた。生きることを」
男の声は鷹ぶりを抑えたような静かな声に変わっていた。ノエルは壁に体を預けて座り込み、抵抗することもできなくなっている。男の言葉を聞きたくないという自分の悲鳴と、言葉通りだと感じる自分が、同時に存在している。
「だが、それは間違いだ。感情を持たない人間などいないのだから。それを閉じ込めることはできても、消すことはできない。できてしまったら、それこそが死だ。分かるか」
分かっている。そんなこと、言われなくたって分かっている。生きている限りつらいことは振りかかってくると誰もが言うし、もう十分知っている。けれど私にはもう家族もいなければ、人間として扱われる資格すら無くなってしまった。
有り体に言えば、傷つきたくないから何も感じない世界に自らを閉じ込めた。けれど、そんな軽いものじゃないと自分では思っていた。こんな不幸は他の人には無いと思っていた。
「だが、どんなに辛くとも、他人にとっては所詮人事だ。同じようにしか見えんのだよ。それに気が付いたろう?」
純粋で強い悪意が、年端も行かない少女に突き刺さる。
「感情を殺し、自分を守る。つまりそれは『生きたい』ということに他ならないのではないか?」
その通りだった。死にたければ自分を守る必要なんてない。自分を守るということは、それは死への恐怖そのものだ。
私は、最初から何も棄ててはいなかった。だったら、ディンたちの優しさを避け続けた私は、一体なんなのだろう。今更気付くなんて、殺される前に殺人鬼に気付かされるなんて、なんて滑稽なんだろう。
悔しくて、どうしようもなく怖くて、思いもよらず涙がこぼれた。それを見た男の声に明らかな歓喜の響きが加わる。
「考えてみろ。君は一体、この世に産まれて何を残した?一体どれだけの人間が、君を覚えていると?」
畳み掛けるようにしゃべりながら、男が再びノエルに近づく。
「思い出してみろ。君を記憶として留める人間の数を。一体どれほどの人間が、本当に悲しむと?」
手が、首にかかる。涙が止まらない。もはやノエルの仮面は剥がれ落ちていた。
「そして、考えてみろ。死に際でどうしたいのかを。いや、当ててみせようか」
掌に力を込めながら、男が初めて嘲笑った。
「君は、『生きたい』」
「――ッ!」
瞬間、ノエルの感情が爆発した。開かないように蓋をしてしっかり押さえつけていた想いが、今壁を破り、頭の中をめちゃくちゃに駆け巡って行く。
だが、男の手の力はどんどん強くなる。先ほどまでの相手をなぶるような手加減は、もう必要ないのだ。なぜならノエルは、男の言う生け贄としての条件を満たしたから。
「君はそれを知りながら、死んで逝け」
何も残っていない。誰も覚えていない。
ノエルという存在が、ほとんど記憶にない母の面影が、辛い奉公先で優しくしてくれた友達が、奴隷商の蔑む目が、船が壊れる音が、太陽の光が、神父の穏やかな瞳が、メイが廊下を走る音が、そして――
「い……やだ……死にたく……ない……」
今まで無抵抗だったノエルが、初めて男の腕をつかんで震えた。ようやく意思が宿った彼女の瞳を、男は狂気に支配された目で真正面から受ける。もはやその残酷な笑みを隠すこともやめたようだ。
「ああ、そうだとも。死にたい人間なんかいるものか。だからこそ、殺し甲斐がある」
嫌だ。死にたくない。
「君は今、殺すに値する」
嫌だ。まだ、生きていたい。
「や……だ……」
「いい表情だ。やはり首から上を持ち帰るとしよう」
声が出ない。
誰か助けて。こんなに叫んでいるのに、いつだって、私の声は誰にも届かない。深い闇の中で光を求めて声をあげても、みんなが見て見ぬ振りで、通り過ぎて行く。
違う。手を差し伸べてくれた人は、いた。
苦しい時に傍に居てくれようとした人は、今までだって、きっといた。けれどいつだって私が、自分でそれを無視していただけだった。
この町に来てからのたったこれだけの時間でだって、多くの人がノエルを気遣ってくれていた。
ただ、私はそれに気付くのが怖かった。近づいた人が離れて行くのが怖かった。
どうして私は、普通に生きられるチャンスを与えてもらいながら、蹴飛ばして棄ててしまったのだろう。
涙が更に溢れ、視界が暗くなってくる。
「君は実に興味深く、素晴らしい贄だった。しかし、名残惜しいがお別れだ」
止めの一押し。男の手に血管が浮かぶ。
少女は、最期に思い出していた。こんなにもどうしようもない自分を、全部ひっくるめて抱きしめてくれたあの優男のことを。
もう一度、会いたいな……。
風が吹く。