11 〜週に何度通えば「行きつけ」だろう〜
日が暮れる前の中途半端な時間だからか、喫茶オーシャンの店内は空いていた。
「あらディンさん、こんにちは」
ドアを開けるなり、若い娘が優しい笑顔で出迎えてくれる。
実質レストランの『喫茶』オーシャンを切り盛りするウェイトレス、シャローヌ・アンデルセン。本人曰く、
「二十も後半なのに看板娘だなんて、恥ずかしいです」
しかし、気だてのいい上品な性格と、全てを包み込むような慈愛に満ちた彼女は、来店する男性客には女神にしか見えず、自然、彼女目当てに足しげく通う客は多い。
ディンとてそういう気持ちが無い訳ではないが、三日に一回は訪れるその訳は、純粋に『シャロも含めた店の雰囲気』と『頑固者のこだわり料理』が好きだから。
そんな看板娘と、その父親フェイロー・アンデルセンが作る創作料理が受けて、喫茶オーシャンはサンテの人気店の一つになっている。
「やぁ、今日も元気そうだね、シャロ」
「おかげさまで。いかがですか、絵の方は?」
彼女が聞くのは、ディンが注文を受けて取りかかっている絵のことだろう。依頼主はこの店の主人フェイロー。つまりディンは今、オーシャンに掛ける予定の絵を描いている。
「自分で言うのも何だけど、結構調子がいいんだ。やっぱりお世話になってる人に頼まれると、気合いが入るみたい」
事実、絵の制作はかなりうまく言っている。お気に入りの景色をイメージしながらだと、筆も早い。いろいろ頼まれ事はあるが、やはり描きたいものを描いている時が一番楽しく、時間が過ぎるのも忘れてしまう。
とは言いながらも、何か一つ、一歩だけ足りない。今回は常にそんな想いがつきまとっていた。
絵の出来に関してはおそらく問題ないが、ディンの気持ちの中で整理のついていない事柄があるために、そのわずかな影響が絵に表れてしまっている。ネガティブな感情が良いアクセントになる場合もあるが、今回は逆効果だ。楽しく描いて、楽しい気持ちで見てもらいたい絵に滲んだ感情はいらない。
そんな時はここに来る。コーヒーを飲み、窓から見える海を眺め、自分を見つめ直す。とは言え、今回の「滲み」の原因はディン自身にもよく分かっていた。
ディンの額面状の返事を聞くと、それでもシャロは上品な笑顔を咲かせ、ややスローな独特の調子でしゃべる。
「あらあら、本当ですか?それは楽しみです。……あ、ごめんなさい、私ったらお客様と立ち話だなんて」
生まれ持った雰囲気もあるのだろうが、細かい動作にも気品が溢れている。着飾れば貴族の出と言っても誰も疑わないだろう。
席についてからメニュー表を手に取るが、注文は大体決まっている。それを知っているから、シャロもすぐ脇で待ってくれている。
「シャロ、一つ僕にアドバイスしてくれない?」
いつもと違う展開にも、シャロは柔らかい表情を崩さない。
「あらあら、私がお答えできることですか?」
「軽い気持ちで答えてくれていいよ。絵とは関係ないし」
本当は関係大アリなのだが。
「すごく辛いことがあって心を閉ざしてしまった友人に、僕がしてあげられることってなんだと思う?」
簡潔にまとめるとこういうことだろう。
瞬間、いつもにこやかな彼女の表情が目に見えて曇った。何かまずいことを聞いてしまったのだろうかと、慌てて自分の言葉を振り返るディン。
「あ……ごめん、何か失礼なこと言ったかな?謝るよ」
原因が分からないから、ちょっとばつが悪い。今度は彼女がはっとした顔。
「あらあら、私ったら、すみません。ディンさんが悪い訳じゃないんです」
と、シャロは苦笑いで手をひらひらさせた。感情を押し込めたその笑顔。シャロも過去に何かあったのかな、と想像を巡らせてみるが、到底結論が出る話でもない。
「質問にお答えしますね。それはきっと、その人のそばにいてあげることだと思いますよ」
「そばにいる、ね……」
なるべく一緒の時間を作ってきたつもりではあるのだが。
ディンの合点のいかない表情を見て、シャローヌはくすりと笑った。
「でも、それは口で言うほど簡単ではないんですよ、ディンさん」
明るい口調に変わりはないが、濃い群青の瞳にふと遠い影がよぎった……ような気がした。青い海に雲の影が落ちるような、そんなイメージがディンの脳裏に浮かぶ。
「そばに『居る』ということは、ただ隣にいる、ということとは違うんです」
「ん……深いね」
彼女の声は心地よく耳に馴染む。
「私はそのお友達のことを知りませんが、きっとその人は分かち合って欲しいんだと思います」
「分かち合う?自分の痛みを?」
半分正解です、と言いながらウインクするシャロ。今度はまるで学校の先生のような雰囲気だ。
「心の痛みはもちろん、苦しみも喜びも。今感じている全てのことを、分かち合ってくれる人。傷ついた人は、その感情を自分だけでは抱えきれないから、心を閉ざして自分を潰さないように守っている、と私は思うんです」
シャロの声はいつの間にか真剣味を帯びていく。
「抱えきれない荷物は、隣にいる人が持ってあげればいいんですよ。頑張れ!貴方なら持てます!……って、隣で励ますことも大事ですけど、最初から持てない荷物を頑張らせて持たせるのは、逆効果だと思いませんか?」
ディンは相づちを打つのも忘れて聞き入っている。面白い本に出会って、早く先が読みたいと思う、あの若い感情の芽生えを感じていた。
「だから、持ちきれない感情を一緒に抱えてあげる。その人こそ、潰れそうな方を救う一番の救世主なんです」
にっこりと笑うシャロ。眉根をよせるディン。どちらが年上だか分からない。
「ディンさんは、その人の喜んでる顔がみたい。そうでしょう?」
それが一番だ。頷いて見せる。
「それは、作れるものじゃないですよ。ご友人の中から、自然と湧いてきます。だって、ディンさんはこんなにも、その人のことを想ってあげてるじゃないですか?」
ぱっと出された手鏡の中に、いつになく難しい顔をした自分が映っている。
「あ……」
一瞬の後、それは呆けたものに変わった。シャロが楽しそうに笑顔を作る。
「すみません、お客様にお説教みたいな真似をして」
照れ隠しに笑いながら、後ろ頭をかくディン。
「いや、すごく参考になったよ、ありがとう」
「いいえ、少しでもお手伝いになったなら幸いです」
「うん、いい絵が描けそうな気がする」
本当にそんな気がする自分の単純さを、ディンは嫌いではない。
大事なことに気が付いたつもりでも、人間はすぐ忘れていく。
シャロの言いたいことの本質は、ディンだって経験してきているはずなのだ。それをずっと新鮮に抱えているシャロがうらやましいと、素直に思った。
「でも、羨ましい」
彼女の言葉に、考えていたことを見透かされたのかと思って驚くが、どうやら違うらしい。目を細めてディンを見るシャロの目は、羨望の眼差しを地で行っていた。
「ん?何が?」
「そのお友達です。真剣に自分の事を考えてくれてる人が、身近にいるんですもの」
シャロが思っているほど相手には伝わってないだろうな、と思う。苦笑いが浮かぶ。
「ああ、僕は割と真剣なんだけどね。なかなか伝わらなくて」
「そうなんです。本人は差し伸べられた手ですら、見る余裕がないんですよね。失ってから気が付く、ってよく言いますけど、本当にそうですよね……」
遠くの物を見る……と言うよりかは、もう二度と戻らない過去を思い描いているという表現が当てはまりそうな、憂いを帯びた目。
時たま、彼女の目はこういう色を見せるが、今日はかなりはっきり表れているように感じる。
「シャロ?」
「あ、そうでした。ご注文は何になさいますか?」
にこやかに笑うシャロは、看板娘の顔でペンを取る。
ご精読ありがとうございました。