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「真実の愛を見つけた」そう言われたので邪魔者の私は世界から消えることにしました。〜なぜか夫に追われているのですが、あなたの記憶は消したはずですよ?〜

作者: 月ノ水
掲載日:2026/04/20





いつか、こんな日が来るんじゃないかってことは、もうずっと前からわかっていた。






春の日差しが穏やかな昼下がりのことである。 


「突然お伺いしてしまい申し訳ございません。ですが……どうしても、今日お伝えしなければならないことがありましたの」


何の前触れもなく尋ねていらしたそのひとは、お出しした紅茶に一切手をつけることなく、ただ静かに微笑んでいた。


艶のある桃色の髪に、甘く垂れ下がった大粒の瞳。淡い色のドレスの裾は光に透けていて、薄紅に色付いた頬には加護欲をくすぐられる。

誰がどこからどう見ても、文句なしの美少女。

ノーティア侯爵家のご令嬢、マリリア・ノーティア様である。


社交界では“春の精霊”とまで謳われる彼女は、その美しい双眼で私をまっすぐ見据えて言った。


「単刀直入に申し上げますわ。──ランフォード様を、解放していただけませんか?」


さらり、とマリリア様のなめらかな髪が流れる。

綺麗な人だな、と思った。綺麗な人だなと思って、途端に私は自分が恥ずかしくなった。


お世辞にも美人とは言い難い平凡な顔立ちに、くるくると湿気でうねるウェーブがかったブロンドの髪。

瞳なんかは血の色を彷彿とさせる猩々緋だ。

それにちょうど趣味のお菓子作りをしていた最中だったから、きっと私の身体からは小麦粉と焼きたてのクッキーの匂いがするだろう。

いい匂いであることに変わりはないけれど、淑女には相応しくない。 

あまりの違いに恥ずかしくて俯いてしまう。


そんな私に何を思ったのか、マリリア様は少し苛立ったご様子で「聞いていますか?」と私に問いかけた。


「人は生涯にただ一人だけ、本当に愛する方と巡り会えるのだと思うのです。真実の愛、というものですね。そしてわたくしにとってのそれは、ランフォード様でした」


うっとりとまるで夢でも語るかのようにマリリア様は続ける。

それから小さな眉を寄せてきゅ、と思いつめたような表情をなさった。


「けれど、ランフォード様は優しすぎるのです。貴女が望んでいるから、あのお方は貴女から離れることを選べない。……たとえそれが、ご自身の思いを押し殺すことであったとしても」


そう言ってから、もう一度念押しをするように「お願いします」とマリリア様は深く頭をお下げになった。

凛とした、淑女の声色である。

なにも、なにひとつ敵わない。


「わたくしとて、本当はこんなこと申し上げるつもりではなかったのです。ですが貴女がいる限り、ランフォード様は“本当の”意味で幸せになれない。……ルクシア様、お願いです。どうか、あの方を自由にして差し上げてくださいませんか……」


マリリア様の大きな瞳から涙の粒が落ちる。溢れた水滴は桃肌を伝って流れ、きらきらと光を反射した。

その姿があまりにも痛ましくて、私は勝手に責められたような気持ちになってしまう。


(こんな感情を抱く資格なんて、私にはないのに)


ティーカップから立ち昇る湯気の向こうに、桃色の髪が揺れている。

その嫋やかな髪に、ランフォードは……ランスはもう触れたのだろうか。

湿気でうねってまとまらない私の髪とは違って、手櫛で簡単に解きほぐすことができそうだ。

ランスはいつも苦戦しながら私の髪にブラシを入れていたけれど、これからはそんな苦労もしなくて済むだろう。

そう思うとめでたいやら寂しいやらで、なんだか涙が出そうになってくる。


(ダメだ、泣くな)


唇にぎゅっと力を込めて、溢れてくるものをなんとか堰き止める。

なけなしのプライドを振り絞って、どうか声が震えていませんように、と口を開いた。


「顔を、あげてください」

「ルクシア様……」

「貴女のおっしゃることが真実であるならば、私は喜んで身を引きましょう。私とて愛し合う者の仲を引き裂くことなど望んではおりません。……ご安心ください。邪魔者はすぐ、消えますから」


そうだ。

邪魔者は早く消えなくてはならない。

マリリア様のおっしゃる通り、私がランスを縛り付けているのだとしたら。

私はここに居てはいけない。綺麗さっぱり、消えてなくなるべき人間なのだ。


(大丈夫、私にはそれが出来るじゃない……)


こんな私の、たった一つの得意なこと。

『消えたい』『いなくなりたい』『ここにいちゃいけない』。

心の底からそう願ったとき、私は誰の記憶からも零れ落ちることができるのだった。



◆◆◆



ルクシア・ウィルレントとランフォード・シルヴィアの婚約は、騎士家系であるシルヴィア公爵家と魔導士家系であるウィルレント侯爵家の家同士が勝手に決めた、いわゆる“政略結婚”を前提に結ばれたものだった。



『ルクシア・ウィルレントと申します。不束者ではございますが、何卒よろしくお願いいたします......』

『ランフォード・シルヴィアだ』


さらさらと吹き荒れる春風に合わせて揺れる、癖一つない絹のような銀髪。

日の光を照り返すほど白い肌に、深い海の底に眠る宝石色の瞳。

ツンと尖った高い鼻、紅桜に色づいた薄い唇。

婚約して初めての顔合わせで、つっけんどんに、ぶっきらぼうに名前だけの自己紹介をなさったランフォード様は、その態度とは裏腹に、とても美しい容姿を持ったお方だった。


その美貌に思わず見惚れてしまった私に、ランフォード様は少し逡巡してから口を開く。

低くて少し掠れた男の人の声。

お顔の綺麗な方は声までかっこいいんだなぁ、なんて場違いなことを考えたのを覚えている。


『ランスでいい』

『ランス、様......?』

『様はいらん。それに敬語もだ。気軽にランスと呼べ。.....俺たちはふ、夫婦になるんだろ』


そう言ってそっぽを向いたランスの耳は少し赤くなっているように見えた。

シャラ、と彼の耳元で揺れたルビーの飾りと同じ色だった。


『えと、じゃあ、ランス?』

『......あぁ』


恐る恐る呼んだ名前に答えて、ランスは不器用に笑ってくれた。

唇の端を少し歪めただけのその笑い方を、私は生涯忘れないだろう。


冷たいように見せて、人を寄せ付けないように見せて、本当は誰よりも優しくて温かい人。


ほとんど追い出されるみたいに成立した婚約の先で、ランスに出会い、私は人生で初めての恋をした。


(たとえこの関係が、家同士の利益だけで成り立っている上辺だけのものだとしても……)


私は、ルクシア・ウィルレントは、ランフォード・シルヴィアを、愛していた。

心の底から愛して、敬愛して、彼の全てを受け入れて、隣で笑っていたかった。


彼とならそんな未来もあるかもしれないと、夢を見てしまっていたのだ。


「真実の愛、かぁ……」


マリリア様が去っていった扉を見つめ、ゆっくりと瞬きをする。

彼女が座っていたソファには、まだ微かに花のような香りが残っていた。


(本当に、春の妖精のような方だった……)


彼女とランスの間に生まれたものが真実の愛ならば、私がランスに抱いたこの気持ちは、きっと間違っていたのだろう。


いつもそうだ。

大切な人たちは、いつも私のせいで離れていってしまう。

父は私がノロマなせいで愛想を尽かしてしまった。

母もきっと私がグズだったせいで心労が絶えず、亡くなってしまったのだろう。

今度は独りよがりな愛情の押し付けのせいでランスまでをも失ってしまった。

私は本当に学ばない。

自分の愚かさがほとほと嫌になる。


それにランスには、私なんかよりもっと綺麗で、かわいくて、優しい人がふさわしい。

けれどランスのことが好きで卑しい私は、彼の優しさを利用して、漬け込んで、今日まで夢のような生活をさせてもらった。

だから彼に本当に愛する人が出来たら、その時は背中を押して、今までありがとうって笑って言おうと決めていたのだ。

だってそんな日が来たら、私は彼の人生において邪魔者以外の何者でもないのだから。


(いつかこんな日が来ることくらい、わかっていたじゃない……)


わかりきっていたし、それなりに覚悟もしていたはずだった。

だけど、やっぱり、


(苦しいなぁ……)


「…ま……様……奥様!」

「リザ……?」


すっかりと物思いに耽ってしまっていた私に、少し高い位置から声がかかる。

視線を上げた先にには、クラシカルなメイド服を身にまとい、心配そうに眉尻を下げたリザベットの姿があった。

リザベット──リザは私がシルヴィア家に来てからずっとお世話をしてくれている侍女で、実家からお付きのもの一人連れて来られなかった私を笑うことなく、優しく支えてくれた姉のような人だった。


マリリア様との話し合いの時も、ずっと後ろに控えていてくれてたのだ。

私がなんとか泣かずに済んだのは、彼女が側にいてくれたからだった。


「リザ。あのね、お願いがあるの」

「はい、奥様。何なりとお申し付けくださいませ。このリザベットが必やあの女狐の首を取ってお見せします」

「ふふふ」


ソファに座る私の前で膝をつき、その暖かい手のひらで私の手を包みながら、リザは力強く頷く。

その新緑色の瞳があまりにも真っ直ぐに私を見つめるものだから、少し困ってしまった。


(あぁ、なんて優しい人なんだろう)


こんなお飾りの妻を“奥様”と呼んでくれた。

ランスの帰りが遅い日は、不安で眠れない私のために暖かいミルクを入れてくれた。

私のくだらない趣味に付き合って、私の作ったお菓子を「おいしい」と言って食べてくれた。

庭に綺麗な花が咲いたときは、いの一番に摘んで私の部屋に飾ってくれた。

シルヴィアの家の人たちは、たくさんのものを私にくれた。

ここにきてから、ランスにも、みんなにも、本当にもらってばっかりだ。


(私は彼らに、ランスになにを返してあげられるだろう……)


かたく握られたリザの手を、ゆっくりと解く。


「あのね。お菓子作りが途中だったから、続きをやりたいの。でも材料が足りなくなってしまったから、買い物をお願いしてもいいかしら」

「わかりました。それであればすぐに使いのものをやって──」

「ううん、あなたにお願いしたいの。なくなったのは隠し味に使うフルーツだから、知っているのはリザと、私しかいないわ。──ね、お願い。リザにしか、頼めないのよ」

「奥様……」


リザ、優しいリザベット。

どうか私なんかのためにそんな顔をしないで欲しいと願い、温かい葉桜の色を見つめる。


その瞳の奥にはほんのひと匙の欺瞞の色が混じっていて、でも優しい彼女は少し躊躇ったあと、静かに頷いてくれた。


「……わかりました。すぐに戻って参りますから、クッキーの味見係はリザにやらせてくださいましね」

「えぇ、もちろん。完成したら、そのあとは一緒に紅茶を飲みましょう」


そう言うと、リザはようやく安心したように肩の力を抜いた。

それからもう一度「すぐに戻りますからね!」と念を押すように言われる。

私もそれに笑って頷き、気をつけてね、と彼女を送り出した。


「……ごめんね、リザ。今までありがとう。──大好き」


たとえ貴女が、私を忘れてしまっても。



誰もいなくなった部屋にポツリと溢れた私の声は、きっとひどく掠れていて、聞けたものじゃなかったので、誰もいなくてよかったなぁ、と。そう思ったのだった。



◆◆◆



リザを乗せた馬車が街へ向かっていくのを窓から見送り、私は部屋へ戻ると実家から持ってきたボストンバッグに荷物を詰め始めた。


と言っても私の荷物なんてそう多くはなくて、実家から持ってきた数着の服と、母の形見の髪飾り。

たったそれだけなのだから、シルヴィア家に来た時もひどく驚かれてしまったことを思い出す。

だからいま私が纏っているドレスも、それを彩るジュエリーも全部、ランスが贈ってくれたものだった。

誰かから贈り物をされるのなんて初めてだったから、嬉しくて、くすぐったくて、思わず泣いてしまいランスをひどく困らせたんだっけ。


(それから、これも……)


婚約が決まって間もない頃、ランスは銀細工の美しい羽ペンと一組のレターセットを私に贈ってくれた。


『俺は話すのが苦手だが、紙の上でならきっと素直になれると思う』


そう言ってぶっきらぼうに差し出されたそれらが、どんなに嬉しかったのかランスは知らないだろう。


(大丈夫。貴方にもらった思い出があれば、私はきっと生きていける)


私は見た目もこんなだし、性格だって根暗で、とてもじゃないけど良いとはいえないから、誰かを愛して、愛されることなんて一生ないと思っていた。

それでもランスだけは違った。

ほぼ追い出されるような形で急遽決まった婚約だったけれど、ランスは初めて会ったときからずっと優しかった。

目に見えてわかるような、全員に理解されるような優しさではなかったけれど、私には彼の心根にある暖かさが、涙が出るほど嬉しかったのだ。


銀細工の万年筆を手に取り、机に向かう。



「ランス」


名前を呼ぶ。

たったそれだけなのに、胸が壊れそうになった。

私の、大好きな人の名前だ。


「……ごめんね」


本当は謝りたくなんてなかった。


「ありがとう」


本当は、もっとずっと一緒にいたかった。


「──私を、忘れてね」


本当は。


(愛してるって、言いたかったなぁ……っ)


ぽたり、と頬を涙が伝う。

視界がぼやけてうまく文字が書けているのかがわからない。

だってランスがこの手紙を読むことはないのだ。

この手紙に込めた思いが、彼に届くことはきっとないのである。


(それでも)


それでも私が離れることでランスが幸せになれるのなら、それ以上の幸せはないと、言葉にしたかったのである。

あなたの幸せが、私の幸せだと。


(そこに私がいないのは、少しだけ寂しいけれど……)


でも。それでも。

ランスは私にたくさんの幸せをくれたから。

嬉しいことも、楽しいことも、全部ランスが教えてくれた。

人を愛する温もりと喜びを私にくれた。

本当に、たくさんのものを貰ったんだ。


だから、今度は私がランスにお返しをする番。








ランス、今まで気づいてあげられなくてごめんなさい。

貴方は優しいから、すごく優しいから、きっと言い出せなくて辛かったよね。

大丈夫、邪魔者は消えるから。


これからは貴方の幸せを、貴方が本当に愛した人と一緒に見つけてね──








そして最後に『愛していました』と書きかけて、やめた。

きっと私からそんな言葉を貰ったところで、ランスは迷惑でしかないだろうから。

封蝋にはシルヴィア家の印を使わずに、実家から持ってきたウィルレント家の物を使った。

私はもうすぐシルヴィアではなくなるのだから、私にはこの家印を使う資格がない。


「世界で一番、愛していました」


だからどうか、幸せに。




◆◆◆



その日、ルクシア・ウィルレントは世界から消えた。

屋敷の記録からも、使用人たちの記憶からも、まるでそこには最初からなにも存在していなかったように。

彼女の名を知るものはもう誰もいない。彼女の生きた証を示すものは、この世にひとつも残ることなく消滅したのだから。


「おかえりなさいませ、旦那様。本日は随分とお早いお戻りにございますね」

「あぁ、リザベットか。今戻った。なぜか今日の分の仕事を昨日のうちに終わらせていたようでな。──ん?珍しい、シェフは焼き菓子でも作ったのか?」

「? いいえ、シェフは本日暇をとっております」

「そうか……一瞬焼き菓子のような甘い香りがしたと思ったのだが……」


そして彼の記憶からも、彼女は綺麗さっぱり消えてしまった。












そう、消えてしまうはずだったのである。





「──は?」


静まり返った執務室に、低い声が落ちた。

彼の視線の先にある机の上には、一通の手紙が置かれている。

否、正しくは“手紙”と推測される宛名のない封筒が一枚、佇んでいるだけであるが。


「なんだ、これは……」


(俺はこれを置いたのが──いや、書いたのが誰か知っている、のか……?)


そんなはずはない、とランフォードは少々乱暴に手紙の封を切った。

しかし封筒の中身は綺麗に折り畳まれた一枚の便箋が入っているだけである。

はやる鼓動を抑え、ランフォードはそっと手紙を開いた。

そして──


「白紙……」


そこには、何も記されていなかった。

インクの滲みも、筆圧の痕跡すらない、完全な無。

つまり宛名のない封筒に、真っ白な紙が仕舞われていただけだったのである。


「ふざけたことを」


まったく、趣味の悪い悪戯だった。

自分はなぜこんなものに手を伸ばしてしまったのか、と封筒ごと手紙を煖炉の火に焚べようとしたその時である。


「……っ、は……?」


心臓が不自然に跳ねた。

バク、だとかドク、だとかの脈動の音がうるさいくらいに耳元で聞こえる。

嫌な汗が滲んで、瞼が微弱に痙攣した。


(ただの紙だろう……?)


それも何も書かれていない、意味のない紙切れのはずだ。

なのに、なぜ。


「…なんだ、これは……」


捨てるべきだ、と頭では理解している。

こんなものに何の価値もないだろうと、理性は正しく告げている。

だが震える指先がそれを許してくれなかった。


「……嫌だ」


ぽつり、と唇から勝手に言葉が漏れる。

自分でも何を言ったのかわからなかった。


喉の奥が焼けるように熱い。

わからない。何も思い出せない。

この手紙を書いた人間も、この手紙に込められていたはずの想いも。

なにも、なにも。


「知らない、はずだろう……!?」


ぐしゃり、と紙が歪む。

心臓がバクバクと騒いで、キィンと耳鳴りが脳を揺らす。

白くなった指先で、ランフォードはもう一度その手紙を開いた。


「俺は、何を忘れている……?」


ぎり、と噛み締めた奥歯から嫌な音が鳴った。


顔も名前も、姿形も何も思い出せない。

しかしランフォードには“あった”はずだった。

どうしようもなく大切で、どうしようもなく手放してはいけないものが。


「思い出せ……思い出せッ!!」


苛立ちのままに机を叩く。

インクの瓶が割れ、黒い染みが広がった。

しかしそれを見てランフォードはなぜか“違う”と。そう思った。


こんな色ではない。

こんな冷たいものではない。


もっと、やわらかくて。

もっと、あたたかくて。

もっと──


『──ランス!』


「……ッ!!」


知らない“誰か”の声が脳裏に響く。

凛と涼やかな夜風に華やぐような、静かな湖面に染み入るような、優しい声色。

顔も名前も知らない少女の声だ。

それでもランフォードは、ランスはその声に聞き覚えがあった。


机に叩きつけた拳が震える。

重たい喪失感が全身を蝕み、やがてそれはぽっかりと穴の空いたような感覚に変わった。何をしようと決して満たされることのない、空虚な穴。


この穴を埋めるのは、埋めていたのは、誰なのだろう。


「このまま失ってなるものか。──必ず、取り戻してやる」


たとえ世界のすべてに否定されようとも。

失ったものを失ったままでいられるほど、ランフォード・シルヴィアは利口な男ではないのだから。











◆◆◆










「……また、ひどく絡んだものだな」


頭の上から低い声が落ちてくる。

いつの間にか後ろに立っていたその人は、私の髪をひと束掬い上げ、手のひらで転がしながらそう言った。


「ご、ごめんなさい……っ、すぐに解きますから……」


慌てて振り返ろうとすると、肩に手を置かれて動きを制される。

そのまま私の隣に腰を下ろしたランスは、無造作にブラシを手に取った。


「動くな。余計にひどくなる」


ざっくりと手櫛で梳いた髪を追うように頭のてっぺんから背中にかけてブラシが動く。


ぎ、と小さく引っかかる音。

思わず肩が揺れた。


「……痛いか」

「い、いえ……大丈夫です」


嘘だ。本当はちょっと痛い。

けれどこんなことで手を止めてほしくなくて、少しでも長くこの時間が続いてほしくて、私は小さく笑った。


ランスは何も言わないまま、ゆっくりと髪を梳いていく。

不器用で、ぎこちなくて、何度も引っかかるけれど。

それでも彼は途中でやめたりはしなかった。


「……どうして、いつも私の髪を梳いてくださるのですか?」


ぽつりと溢した言葉に、ブラシの動きが一瞬だけ止まる。


「別に。放っておくと、ひどいことになるだろう」


それだけ言って、ランスはまた無言で手を動かした。


(やっぱり優しい人だなぁ……)


そう思って目を細める。

こんな私にも、当たり前みたいに触れてくれる。

面倒だと思ってもおかしくないのに、最初から最後までずっと彼の手つきは優しいものだった。


「……ルクシア」


不意に名前を呼ばれて、びくりと肩が跳ねる。


「はい」

「……いや、何でもない」


それだけ言って、大きな手で私の髪を撫でた彼は、どんな顔をしていたのだろう。








(一回くらい、振り返っておけばよかった)


なんて。

今さらだよね。











一旦ここまで。

お付き合いくださいありがとうございました。

需要があれば続き書きます。






以下読まなくてもいい蛇足

自覚のない自己犠牲が大好きでこの話をかきました。

当初の題名は『地獄果てても貴方には』にしようと思っていたのですが、ちょっとなろうっぽくないな〜ということでこちらのタイトルになっています。

ルクシア、幸せになって欲しいですね〜〜…


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