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お口(・×・)

 夜風が吹き抜けるラピス・セレスティアのバルコニー。

 俺は手すりに寄りかかり、眼下に広がる静かな夜景を眺めながら、今は亡き育ての親のことを思い返していた。


「……なぁ、トーマス。あんたは今の俺を見ても、やはり立派だと言ってくれるだろうか」


 トーマス・ニコル。

 教会で俺を育て、人を殺す術を叩き込んだ神父。

 彼に対して恨みはない。俺に生きる場所と役割を与えてくれたことには感謝している。

 だが、こうして平和な馬鹿騒ぎに身を置いていると、ふと思うのだ。


「普通の人生って、いったいどんなものだろうな」


 当たり前の学校生活、殺しとは無縁の就職、結婚……そして、家族。

 ついぞ俺が一度も触れることのなかった、ありふれた光景。

 この世界に来て、フィエルやクロエたちと過ごすうちに、俺の中でその輪郭が少しだけ色濃くなっているような気がした。


 つかつかと、背後から軽い足音が近づいてくる。

 気配を隠そうともしないその足音の主は、振り返らなくとも分かった。


「ねぇ、ルカち。ルカちが望むなら、ここでルカちの望み通りの転生を叶えてあげても良いわよ」


 振り返ると、そこには女神ユーティの姿があった。

 いつものポップな衣装に、手にはスマホ。

 だが、その表情からはいつものチャラついた軽さが消え、代わりにどこか神聖な気配が漂う。

 近いもので言えば、教会の礼拝堂のような。


「……急にどうした。お前のような性悪女神がまさか善意でそんなことを言い出さないだろう」


 俺は警戒を隠さずに言い返す。

 こいつのことだ、どうせまた何か裏があるに違いない。


「ううん、ルカちはもう十分に仕事をしてくれたもの。これ以上は望まないわ」


 ユーティは手すりに背を預け、俺の隣に並んだ。

 夜風が彼女の金色の髪をさらさらと揺らす。


「まだ魔王は倒してないはずだが」


 SNS上で「魔王」を名乗るガリウスや、その裏にいた魔族ヴァフラムは退けた。

 だが、それはあくまで端末の向こう側の話だ。この世界の脅威としての本物の魔王は、まだ封印されたままだと聞いている。


「良いのよ。ルカちを本物の魔王と戦わせる気なんてさらさらないもの」


 ユーティは夜空を見上げながら、ぽつりと呟いた。


「ルカちの役目は魔王を復活させないこと。ゴッズ・グラムでバズって、みんなの信仰を集めて、封印を維持してくれればそれで十分よ」


「まだ役目を果たしたとは言い難いが」


 俺がそう言うと、ユーティは少し寂しげに笑った。


「ホント言うとね、ルカちをこの世界に呼ぶかどうかも、ホントーーーーーーーーに迷ってたのよ。だってルカちの望みがあんまりにも……」


「おい、言うな」


 それは前世での死の間際、高層ビルから落下する最中、走馬灯を見るうちに、不覚にも口をついて出た願い。


「誰も聞いてないわよ」


「俺に聞こえてる。特にお前にそれを言われると、死にたくなりそうだ」


「ふーん。ルカちがそう言うなら、お口ミッフィーしとくけど」


 ユーティは両手で口元にバッテンを作るような仕草をして見せる。

 俺はため息をつき、再び夜景に視線を戻した。


「……元暗殺者が抱くには滑稽すぎる望みだ」


 自嘲気味にこぼした俺の言葉に、ユーティは何も言わなかった。ただ、静かに俺の横顔を見つめていた。


「なぁ、ユーティ」


「ん?」


「前の英雄は、どうなったんだ」


 俺の前にこの世界に召喚され、魔王と戦ったらしい英雄。

 フィエルは以前、「尊い犠牲」と言っていた。


 その言葉を聞いた途端、ユーティの雰囲気が変わる。

 軽薄な仮面が完全に剥がれ落ち、悠久の時を生きる神のように、厳かな表情に変わる。


「……あの子はね、強かったわ。優しくて、真面目で、誰よりもこの世界を愛してた。あの子は最後の戦いで、魔王と刺し違えたの。自分の魂を犠牲にして、魔王を封印するための楔になった」


「……死んだのか」


「ええ。肉体も、魂も、跡形もなく消え去ってしまったわ。転生の輪に戻ることすらできないほど、完全にね」


 ユーティの声が微かに震えていた。

 彼女が握りしめているスマホの画面が暗く落ちた。


「だから決めたの。次こそは死なせないって。直接魔王と対峙するんじゃなくて、別の方法で戦おうって、決めたのよ」


「それが、ゴッズ・グラムを使った信仰集めの真実か」


 ふざけたシステムだと思っていたが、その裏には、かつての英雄を失った女神の後悔があったというわけだ。


「意外とまじめで失望した?」


「いや、むしろ見直した。まじめなんて言葉がユーティの辞書にあったんだな」


「なによそれ、褒めてるつもり? 素直じゃないわね」


 ユーティが顔を上げ、真剣な瞳で俺を見据える。


「ルカちの望みは普通の人生なんでしょ? 戦いなんてない、温かいご飯と、帰りを待っててくれる家族がいるような、そんな生活。それとも、生まれた時から大きくなるまで見守ってくれる両親の居る、そんな普通の人生」


「……ああ」


「だったら、もう十分よ。アタシのアンチも消えたし、きっとしばらくは平和だし。今すぐにでもこの世界のどこかに転生させてあげる。それとも前の世界の方が良い?」


 それは、俺が望んだはずの提案だった。

 血生臭い過去も、暗殺者としての罪も、そしてこのふざけたドレス姿もすべてなかったことにして、普通の人生を送る。


 脳裏に浮かぶのは、理想の家庭像だ。

 優しい両親、口うるさい兄弟、それから、前世ではついに叶うことのなかった、結婚、そして毎日帰りを待っていてくれる家族。

 そんな普通の人生が、俺の望みのはずだった。


 だが、次に浮かんでしまったのは、別の光景だった。


『ルカ! これを見てください! ほら、ルカを応援するコメントがこんなに!』とはしゃぐ天使の姿。


『今日のルカ様は、誰が何と言おうとわたくしのものですわ』と甘い言葉を囁くホテル支配人。


『ルカ、貴様は私に道を示してくれたのだな』と真面目な顔してバニースーツを着る騎士団長。


 騒がしくて、面倒で、どうしようもなく疲れる連中の顔。


「……悪いな。その提案、今は却下だ」


「えっ……なんで? ルカちの望みなんでしょ?」


「ああ、だが気づいたんだ。人生ってのは、与えられるもんじゃなくて、自分で作るもんなのかもしれないってな」


 血の繋がった家族はいなくても、帰れば「おかえり」と言ってくれる連中がいる。

 一緒に食卓を囲む仲間がいる。

 それは、俺が求めていた形とは少し違うかもしれないが、決して悪いものではない気がしていた。


「そっかぁ」


 ユーティはどこか嬉しそうに、安堵したように微笑んだ。

 そして、いつもの軽い調子でウインクを飛ばす。


「ま、気が変わったらいつでも言ってよ! 女神様の特別サービスで、次はイケメン御曹司にでも転生させてあげるからさっ☆」


「ああ、悪かったな、気を遣わせて。気持ちは受け取っておく。……じゃあな、性悪女神」


 俺は踵を返し、部屋へと戻るために歩き出した。


「あ、ルカち!」


 背後から呼び止められる。


「ありがとね」


 振り返ると、そこにはもう誰もいなかった。

 ただ、光の粒子がキラキラと夜空に溶けていくのが見えただけだった。


 俺は小さく息を吐き、部屋のドアノブに手をかける。

 中からは、フィエルとクロエの賑やかな声が聞こえてくる。


「ルカ様、遅いですわ! 料理が冷めてしまいます」


「ルカ! 早く次の企画会議をしましょう!」


 やれやれ。

 俺の「普通の人生」への道のりは、まだまだ遠そうだ。

 俺は苦笑を浮かべながら、その騒がしくも温かい場所へと足を踏み入れた。

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