☆修理費は一日デート券☆
ヴァフラムを無事に撃退したものの、ゴッズ・グラム上に新たに現れた「魔王」の対策はまだできていない。
だが、一夜明けた今になっても、「魔王」は不気味なほどに静かだった。
時刻は朝、ラピス・セレスティアのとある一室にて――。
カーテンの隙間から差し込む朝日よりも眩しいのが、俺の目の前で飛び跳ねる自称プロデューサー天使だった。
「ルカ、ルカ、見てくださいよこれ! 一晩明けたのにルカへの称賛コメントが鳴りやみません! 『セイント・ジャッジメント』の切り抜き動画、再生数がミリオン行きましたよ!」
いつも通り、いやいつにも増してはしゃぐフィエル。
だが、その熱狂に冷水を浴びせるような、静かで、しかし絶対零度の声が響いた。
「ええ、素晴らしい反響ですわね。……ところで、こちらの修理費についてはどう思われまして?」
俺とフィエルの対面で、ソファに浅く腰かけるクロエがテーブルの上に一枚の紙を滑らせる。
そこには、昨晩俺が蹴り飛ばした魔族――ヴァフラムによって開けられた大穴、およびその周辺の修理費の見積もりが記されていた。
桁の数が、俺の知る貨幣価値の常識を超えている。
「ぐっ……これは……」
「当ホテル自慢のスイートを派手に破壊なさいましたからね。もちろん、ルカ様が悪しき魔族を退けるための不可抗力だとは存じております。ですが、ホテル経営者としては、これを不問にするわけにはまいりませんの」
にっこりと微笑むクロエ。その笑顔は美しいが、目は笑っていない。
フィエルが「うぅ」と呻いて後ずさる。
「そこで、ご提案があります」
クロエは悪戯っぽく小首をかしげた。
「修理費の代わりに、今日一日、わたくしにお付き合いいただけませんか?」
「は……?」
「ルカ様一日独占権。これをもって、修理費をチャラにさせていただきます」
その提案に、黙っていなかったのはフィエルだ。
「待ってください、クロエさん! プロデューサーとして、見過ごせませんねぇ。タレントの安売りは困ります! そういう話は私を通してもらわないと!」
フィエルが俺の前に立ちはだかり、バッテンを作る。
また争いが始まるのかと、俺は天井を仰いだ。
だが、今日のクロエは一味違った。
「あら。そもそも、あなた方天使が頼りないから、あのような魔族がルカ様の元に現れ、あまつさえ我がホテルに被害が出たのではありませんこと?」
「うっ……そ、それは……」
「監督不行き届き、という言葉をご存じ?」
「で、ですが……」
正論で殴られ、フィエルは泣きそうになりながら、縋るように俺を見る。
だが、事実は事実だ。
「ま、ホテル壊したのは俺だしな」
あの時、被害を最小限にする配慮が足りなかったのは確かだ。俺は短く息を吐いて頷いた。
「分かった。今日一日、クロエに付き合う」
「うぅ……分かりましたよぉ。ルカがそう言うなら……」
渋々といった様子で引き下がるフィエルを見て、クロエは「交渉成立ですわね」と華やかに微笑んだ。
「では、わたくしは準備をしてまいりますわ。ルカ様も、とびきり素敵にしてお待ちになっていてくださいませ」
クロエが足取り軽く部屋を出て行く。
嵐が去ったような静寂の中、俺はポツリと漏らした。
「女は大変だな」
その言葉に反応したフィエルの目が、怪しく光った。
「何を他人事のように言ってるんですか。ルカもおめかしするんですよ」
「なんで俺が?」
「当たり前じゃないですか! オフとは言っても聖女ルカ様のオフなんですから! それにクロエさんのことだから、上流階級御用達のお店に行くに違いありません。舐められないよう、完璧に仕上げないと!」
「ドレスコードみたいなもんだろ。着衣神装の『トゥデイズ・コーデ』機能で良いんじゃないのか」
俺が面倒くさがってそう言うと、フィエルは「チッチッチッ」と人差し指を振った。
「分かってないですねぇ、ルカは。女の子にとって、デート前の準備こそが一番楽しいイベントなんです! それに……」
フィエルはクローゼットの中から手際よく三脚を取り出し、スマホをセットし始めた。
「この『準備の時間』こそが、極上のコンテンツになるんですよ!」
「……は?」
「はい、座ってください! 配信始めますよー!」
俺はフィエルに強引にドレッサーの前に座らされた。
目の前には鏡。そして、その鏡越しに俺を狙うスマホのレンズ。
「配信開始! 『【朝の支度】聖女ルカ様のメイク編♡』スタートです!」
「おい、勝手に始めるな」
「みなさーん、おはルカです! 今日はなんと、当チャンネルの大物スポンサーとの会合の日! というわけで、特別にルカ様のメイクアップ動画をお届けしちゃいまーす!」
フィエルは俺の抗議など聞こえないふりで、手際よく化粧ポーチを開けていく。
中から出てきたのは、キラキラしたパッケージのコスメたちだ。
フィエル曰く、天界の神々御用達の逸品らしい。
「まずは保湿からですね! ルカ、顔を上げてください」
「自分でやる。というか、このドレスには体調管理機能があるんだから、肌の状態くらい勝手に整えてくれるだろ」
「ダメです! コスメオタク層の支持を得るには、この『工程』を見せることが大事なんです! ほら、じっとして!」
フィエルが冷たい化粧水を染み込ませたパフを、俺の頬に押し当ててくる。
距離が、近い。
フィエルの顔が目の前にあり、甘い香りが鼻孔をくすぐる。
元暗殺者として、他人に急所である首元や顔を無防備に晒すのは、本能的な拒否反応が出る。
「……近い」
「我慢してください。ここ、もっと叩き込まないと」
フィエルは楽しそうにパフを動かす。
鏡の中の俺は、されるがままのフランス人形のようだ。
コメント欄がものすごい勢いで流れているのが視界の端に見える。
『すっぴんでこのクオリティ!?』
『肌白すぎワロタ』
『フィエルちゃんそこ代わって』
『てぇてぇ……朝からてぇてぇ……』
「はい、次はアイライン引きますからねー。絶対に動かないでくださいよ? 目に入っちゃいますから」
フィエルが細い筆を持って迫ってくる。
俺は思わずのけぞりそうになるのを、必死で堪えた。
鋭利な先端が眼球に迫る恐怖。
それは刃物を突きつけられるよりも、ある意味で恐ろしかった。
「……おい、手が震えてないか」
「失礼な! 武者震いです! ルカの美しい瞳をさらに際立たせるための、神聖な儀式なんですから!」
フィエルの指先が俺の瞼に触れる。
ほんのり冷たい指先。真剣な眼差し。
至近距離で見つめ合う形になり、俺は居心地の悪さに視線を彷徨わせた。
「ルカ、目を開けて。……あ、もう少し閉じて。半目くらいで」
「注文が多いな……」
「あーもう! 睫毛が長すぎて邪魔です! これマスカラ要らないんじゃないですか?」
フィエルはブツブツ言いながらも、ノリノリで俺の顔に色を乗せていく。
チーク、リップ、ハイライト。
工程が進むにつれて、鏡の中の「少女」は、より洗練された姿へと変貌を遂げていく。
「はい、完成です! どうですか、視聴者のみなさん!」
フィエルがドヤ顔でカメラを俺に向ける。
画面上のコメント欄が、爆発したかのように加速した。
『天使かと思ったら聖女だった』
『いや女神だろ』
『この顔で臨む会合とか、相手はどこの大物だ?』
『フィエルちゃんあとでどこのコスメか教えて!』
「ふふん、さすが私の腕前ですね! 素材の良さを200%引き出しました!」
「素材って言うな」
俺は鏡の中の自分を見て、小さくため息をついた。
そこに映っているのは、かつての裏社会の住人とは似ても似つかない、完璧に作り上げられたアイドルのような姿だった。
「さあルカ、着替えは着衣神装にお任せして、完璧な状態でクロエさんを迎え撃ちましょう! 私も陰ながら実況しますので!」
「しなくていい!」
フィエルにツッコミを入れつつ、俺は重い腰を上げる。
魔族との戦いよりも気疲れしそうな一日が、今まさに始まろうとしていた。




