配信やめます
「もう……配信、やめます」
日が沈む頃。
フィエルの口から零れ落ちたのは、あまりに弱々しい降伏の言葉だった。
「諦めるのはまだ早いですわ。何か方法があるはずです」
クロエが即座に励ましの言葉をかけるが、その声は虚しく空を切るだけだった。
「だって、こんなのどうしようもないじゃないですか」
……SNSにおいて、数の力は絶対だ。そもそもフォロワー数という数字がインフルエンサーの価値に直結しているのだから。
つまり、無限にも思えるほど増殖するこの「魔王」を真っ向から倒す方法は、恐らく存在しない。
あったらとっくにあの性悪女神がやっているはずなのだ。
だがそれは、SNS上だけの話。
魔王からの干渉から逃れる方法はある。
俺は、ソファに深く沈み込んだまま項垂れるフィエルの小さな背中を見つめていた。
……SNSなんてやめてしまえば良い。
簡単なことだろう。
ただ、スマホの画面から目を離し、二度と見なければ良いだけの話だ。
「フィエル様、諦めてはいけませんわ。わたくしが当ホテルの技術班を総動員して、発信源の特定を急がせますから……」
「無駄ですよ、クロエさん」
フィエルが力なく首を振る。その動作一つ一つが、見ていられないほどに重い。
「全部、捨て垢なんです。一つブロックしても、また新しいIDで三つ湧いてくる。まるで……ハエの大群です。殺虫剤をいくら撒いても、どこからか湧いてきて、まとわりついて……」
そのたとえは残酷なまでに的確だった。
先ほどクロエが展開した完璧な論理も、この相手には無意味だ。奴らは対話を求めていない。
こちらの心を摩耗させ、へし折るためだけに、罵倒という汚物を垂れ流す自動機械と化しているのだから。
「……ルカ」
潤んだ瞳が、弱々しく俺を捉える。
「ごめんなさい。私が浅はかでした。ルカをゴッズ・グラムのトップアイドルにするなんて、最初から無理だったんです。ルカに嫌な思いをさせて、ファンのみんなも傷つけて……もう、終わりにしましょう」
その言葉は、俺がずっと望んでいたはずの言葉だった。
目立つのは嫌いだ。聖女なんて柄じゃない。
平穏な日陰の生活に戻れるなら、それに越したことはないはずだ。
――なのに。
どうして俺は、こんなにも苛立っているんだ。
俺は無言で立ち上がると、フィエルの手から強引にスマホを奪い取った。
「あ、ルカ……?」
画面には、今も滝のように流れる罵詈雑言の嵐。
『偽物』『詐欺師』『消えろ』。
視界を埋め尽くす文字の暴力。
俺にはSNSの作法など分からない。
だが――このそこはかとなく漂う「悪意」の質感には、覚えがあった。
元暗殺者としての勘が、警鐘を鳴らす。
画面の向こう側に、明確な「敵」がいる。
機械的な連投ツールを使っているようだが、それを操作している生身の人間の呼吸が、粘着質な悪意が、回線を通じて指先に伝わってくるようだった。
『物理で消せばいいじゃんって』
ふと、性悪女神の言葉が頭をよぎる。
あの時はただの戯言だと切り捨てた。
だが、今の状況を打破し、この理不尽な暴力を止める手段がそれしかないとしたら?
俺はちらりとフィエルを見た。
彼女は配信をやめたいわけではない。
「やめざるを得ない」と思い込まされ、追い詰められているだけだ。
その証拠に、彼女の瞳は、まだ未練がましく俺の手にあるスマホを追っている。
「……少し、風に当たってくる」
俺はスマホをフィエルの膝の上にそっと投げ、ドアの方へと歩き出した。
「ルカ様、こんな時間にどちらへ?」
クロエが心配そうに立ち上がるが、俺は手を振ってそれを制する。
「頭を冷やしたいだけだ。すぐ戻る」
部屋を出て、白く光沢のある石材の階段を降り、宿の外へ。
夜風が、熱を持った頬を冷やすように撫でていく。
背後で精緻な金細工の施された扉が閉まるのを確認してから――俺は自分のスマホを取り出した。




