婚約者が「君を愛することは無い」と宣言した事情
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シエナ・エリントンはアーノルド・クレスウェルにとって五人目となる婚約者だった。つまり彼は四回も破談になっているのだ。だから貴族社会の事情や噂に疎いシエナでも、まぁ何かしらこの男……もしくは男の周囲には問題があるに違いないと予想してはいたのだが。
「私が君を愛することは無い!」
クレスウェル公爵邸に到着し、通されたサロンで出されたお茶をひと口──いただく前に。二ヶ月後には夫婦となる予定の相手からこんな宣言をされるとは思ってもみなかった。それもあまりに大きな声だから、シエナはもしかすると自分の後方遥か彼方に誰かがいて、その人に語りかけているのかもしれないと一応振り返ってみる。が、そこには当然のように部屋の壁があるだけであった。
「……ええと」
「自由に過ごしてくれて構わないが、なるべく私に関わらないでくれ。私は君に一切の関心がないんだ。跡継ぎが必要だから仕方なく……」
それだけを一方的に言うと、何故だか少しバツが悪そうにしながらもアーノルドは部屋を出ていった。取り残されたシエナは先行きを不安に感じながらも飲み損ねたお茶を飲む。彼女の家で出されるものよりずっと香り高く美味しかったので、まぁいいかと気を持ち直した。
アーノルド・クレスウェル。銀色の髪に紫の瞳の大層美しい男だったとシエナは思う。あれだけの美貌で更には歴史ある公爵家の次期当主ともなれば引く手数多だった筈だ。しかし度重なる婚約解消で次第に選ぶ余裕はなくなり、シエナのような田舎の貧乏子爵家の行き遅れにまで声がかかったのだと父から聞かされている。恐らく今の訳の分からない宣言をするような気難しさも、要因の一つではないかと推察する。
周囲を見れば、使用人達は誰もが難しい顔をしており、明らかに歓迎されていないのが見て取れた。
初対面であるアーノルドのことを好きでもなんでもないシエナとしては、最低限の衣食住──特に食──さえ保証して貰えるのであれば愛されようが愛されまいが構わないのだが、この様子ではその最低限すらも怪しい。
「……部屋に案内して貰えるかしら?」
ハッキリとした返事こそなかったものの、気まずげに目を逸らしながらも一人のメイドが一歩前に出た。
あの口ぶりからして、宛がわれる部屋は別邸だとか屋根裏部屋だろうかと想像を膨らませていたシエナであったが、至って普通にアーノルドの部屋の隣であった。自分用のベッドもあるが、こちらから鍵をかけられるドアの向こうに夫婦用の寝室もあるらしい。成程その為に……跡継ぎを産み次第部屋を移されるビジョンがシエナの頭を過ぎった。
さてアーノルドは自由に過ごしていいとは言っていたが、シエナが邸をうろつくことは迷惑がられるだろう。案内してくれたメイドはすぐに部屋を去っていった。部屋の前に一人兵士が配置されていたが、愛のない婚約とはいえ他に人がいない状況で異性に話しかけるのもはばかられる。つまるところ、初日にしてシエナはとても暇だった。なんとなく本を読む気分にもなれず、折角セットしてきた髪が崩れるのもお構いなしにベッドでゴロゴロと寛いでいると。
「……ふーん、次の婚約者はこの女なのね」
突如目の前に仁王立ちをした女性が現れた。ノックもなければ声もかけられなかったので、いつの間に入ってきたのかと身体をガバリと起こす。
「どちら様ですか……?」
「えっ……貴女……」
紫色の瞳に波打つ銀髪は腰のあたりまであるだろうか。その色彩とまだ二十にはなっていないだろう顔立ちを見るとアーノルドの妹君かと思うが、そもそもここに来る最中シエナの侍女から聞かされた家族構成では、彼に姉は何人かいても妹はいなかった筈だ。しかし誰かと尋ねたシエナを信じられないような目で見てくるので、もしかすると社交界では有名人なのかもしれない。
「……あ! もしかしてアーノルド様の愛人の方ですか?」
あの訳のわからない宣言は、そういうことなのだろう。そう確信したシエナだったがすぐさま否定される。
「ハァ!? 違うわよ! 私はアーノルドの最初の婚約者!」
「あら……最初の婚約者様が何故こんなところにいらっしゃるのでしょうか……?」
「何故って、アーノルドに未練があるからに決まっているじゃない」
「え? でしたらもう一度婚約なさったらどうでしょうか」
アーノルドに未練がある最初の婚約者が、アーノルドの邸にいる。つまり彼は彼女の滞在を許しているということで。それはつまり満更でもないということなのではないだろうか。しかしまるで可哀そうな人でも見るような目で銀の髪の女性はシエナを見下ろした。
「……貴女何にも知らないのね。どこのド田舎で育ったらそうなるのよ」
「エリントンです」
「本当にド田舎じゃない」
彼女の言う通りエリントンはド田舎だ。領地の殆どが本土から離れた島である。だからこそ情報が入ってくるのは遅いし、そもそもいろんなことが島内で完結している為よその事に興味がないのだ。また、かつては高値で取引される貴重な薬草が育つことでそこそこ栄えていた島も、今はそれに代わる薬が開発されてしまい、何の取り柄もない島と化した。その為エリントン子爵家は大層貧乏で、ドレスを仕立てる余裕もなければそもそも王都まで移動にかかる費用も滞在する為の費用も払えないシエナは当然社交界に参加したことは無い。
であるから当然目の前の──公爵家と婚約を結んでいたくらいだから良家のお嬢さんだろう──彼女のことも一切分からない。
「失礼ですがお名前を伺っても宜しいでしょうか?」
「デイジーよ。……貴女は?」
「シエナと申します。お察しの通り、実は私……殆ど何もアーノルド様について存じ上げないのです。宜しければ聞かせていただけませんか?」
シエナの両親は、まぁなんとかなるだなんて適当なことを言って、嫁ぎ先についての情報をシエナに与えなかった。今知っているのは名前と年齢と家族構成、そして自分が五人目の婚約者であることくらいである。
「……まぁ、暇だからいいけど?」
アーノルドに未練があるというデイジーからすれば、婚約者であるシエナは恋敵だろう。にもかかわらずデイジーは満更でもなさそうに返事をした。こんな状況だが、彼女とは結構仲良くなれそうだと思いながら話を続ける。
「デイジーさんは何故婚約を解消されたんですか?」
「婚約解消するつもりなんかなかったわ。幼い頃からずっと彼の婚約者で、政略的な婚約だったけど私は彼が大好きで……公爵夫人として彼を支えるためにずっと努力していたんだもの。……でも四年前、アルコバレーノの王女がアーノルドに一目惚れしたとかで、無理やり解消させられたの」
アルコバレーノとはエリントンとは真逆に位置する王国だ。軍事力の強い国で、圧倒的にシエナの国よりアルコバレーノの方が格上の為、その要望をはねのけるのが難しかったことは想像に難くない。シエナのようにお飾りではなく、正真正銘公爵夫人としてやっていこうと思っていたデイジーの努力がどれほど大変なものだったかも。
「酷いですね……」
「そうでしょう!? そうよね! ほんっとありえないわ! それにね、その王女はそうやって無理矢理婚約したくせに、性格が思ってたのと違うだのなんだの言って他の男と浮気しやがったのよ」
デイジーはその時の事を思い出したことによって怒りが抑えらえないとでも言いたげに地面を蹴った。しかしその令嬢らしからぬふるまいに何かを思う余裕もないほど、彼女の発言がシエナにとっては衝撃的で。
「ええ!?」
「結局その王女が好きになったのは彼の見た目だけだったのよ」
確かに一目惚れしてもおかしくない美貌ではあった。しかし、無理矢理婚約を解消させておいて、それはないだろうとシエナは思う。
「……まぁ、それで王女との婚約も色々あって解消されたわ。そして選ばれた次の女は婚約期間中から贅沢三昧。勿論多少の贅沢で揺らぐクレスウェル公爵家ではないわ。でも流石に目に余るレベルになって、解消」
「あら……」
「その次の女……貴女の前ね。その女は既に他の男の子を身籠っていることが判明して解消」
「まぁ……」
つまり、一人目との婚約は無理矢理解消させられ、二人目と四人目からは浮気され、三人目は極度の浪費家だったと。
「……アーノルド様が悪いのではなく、女性の運が悪かったのですね……」
「そうよ。あいつ等皆、アーノルドには相応しくない女だったから……」
あの訳の分からない宣言も、もしかすると自己防衛のようなものかもしれない。しかしその婚約解消の理由が事実ならば、態々シエナのような世間知らずの貧乏令嬢を相手に選ばずとも、アーノルドの妻になりたいと望む者はまだいたのではなかろうかとも思う。アーノルドを慕うデイジーが意図的に彼の非を隠している可能性はあるが。
「やっぱりデイジーさんがまた婚約を結びなおしたらいいと思うのですけれど。そういう訳にもいかないのですか?」
「……今更無理だわ」
そう言い切ったデイジーの顔は酷く寂しそうで、シエナが何とか出来るような問題ではないのだろうと察した。
「色々事情があるのですね……。ですがアーノルド様は私に、君を愛するつもりはない! 興味もない! 関わるな! と仰いましたし……それはデイジーさんのことを今でも想っているからではないでしょうか」
「ああ、あれね。聞こえていたわよ、あんな大声出すんだもの」
思い出したのか、デイジーはくすくすと笑う。今思えば、あのアーノルドの大声はシエナではなく彼女に聞かせるつもりで言ったのだろう。シエナへの牽制ではなく、自分の心はデイジーにあるから安心して欲しいとの宣言なのだ。
「ですから私が名目上の妻になって、デイジーさんが事実上の妻になるというのはどうでしょう」
それはシエナにとってとてもいい案に思えた。さっきはデイジーに婚約を結びなおせばいいと言ったものの、結婚し跡継ぎを産めばクレスウェル家はエリントンへ様々な支援をしてくれる契約になっている。エリントン家は本当に貧乏であるから、出来ればアーノルドと結婚はしたいのだ。
しかしデイジーの返事を聞く前にドアをノックする音が部屋に響く。
「失礼いたします。お夕食はどちらで召し上がられますでしょうか」
やって来たのは先程のメイドだった。もしかするとシエナの担当なのかもしれない。それはそうとしてアーノルドはシエナと関わる気がないようだし、夕食を共にする必要も無いのだろう。
「そこのテーブルで頂くわ。運んで下さる?」
「畏まりました」
そう頼むと、暫くしてワゴンに料理を乗せたメイドが戻って来た。窓際のテーブルに配膳されていくのをシエナはベッドに腰掛けたままワクワクしながら見ていたが、品数は多いものの明らかに一人分であった。
「……私の分がありません。やっぱり私との婚約も解消したいという意思表示なのでは……」
食事を用意しないことで、自主的に出ていく気を起こさせる作戦かもしれないとシエナは思った。食べることが大好き彼女にとってそれはかなり効果的である。既に婚約解消の文字が頭に浮かんでいた。が。
「ふふっ、あー可笑しい。私はここで食べるだなんて一言も言ってないでしょう?」
「そういえばそうでした」
真っ当な指摘に安心してホッと息を吐いた。確かにデイジーは普段からアーノルドと共に食事をとっているのかもしれない。だからメイドも態々彼女にどうするか尋ねなかったのだろう。これまでずっと家族と一緒だった為に一人で食べるのは少し寂しいが、今は料理の前の椅子に腰を下ろしたシエナの向かいにデイジーが座ってくれたので有難い。
流石は公爵家というか、匂いや見た目からしてエリントン家とは別格で、食べる前から美味しいと分かる。歓迎はされていないが、かといって料理の手を抜かれることは無いようで、このままの扱いだとしてもシエナはやって行けそうだと思った。
そう顔を輝かせる彼女をじっと見つめデイジーは笑った。
「貴女が今までの女みたいにアーノルドに害をなすなら、すぐに追い出してやるんだから。彼に相応しい女か見極めてあげるわ」
「ええ……? そもそもデイジーさんはここに住んでいらっしゃるのですか?」
「まぁ、そんなところね」
「ではやはりデイジーさんが事実上の、」
「それは無理だって言ってるのよ。……どうやってもね」
またしても拒否されてシエナは肩を落とす。
「そうですか……。でも、これからもこうやってお話しして頂けるなら嬉しいです。この邸の人達には歓迎されていないようなので……」
「……まぁ、話し相手くらいにはなってあげるわ。私も暇だしね」
例え政略結婚で愛のないものだとして、誰にも歓迎されなくても、シエナは美味しいご飯があれば耐えられる。とはいえ話し相手はいるにこしたことはない。それが婚約者の前の前の前の前の婚約者……という複雑な立場でも、シエナは既にデイジーに懐いていた。
それからは時々結婚式の準備で忙しかったり、一日中予定がなくて暇だったり……という波のある日々を過ごした。シエナ達の結婚までは二ヶ月だが、通常は一年以上の婚約期間が設けられる。しかし度重なる婚約解消でそんな余裕はなくなり、しかし既に身ごもっていた前例を加味しての二ヶ月、という半端な期間になったのだろう。
そして今日は王宮で王妃の懐妊祝いが行われるのだが、クレスウェル公爵が現在体調を崩しており、妊婦に風邪をうつすような事があってはならないからとアーノルドとシエナの二人で参加することになった。あの宣言以来会うのは初めてである。
「……何事もないだろうか」
「え?」
道中の馬車でそう声をかけられて、シエナは思わず窓の外にやっていた視線を外しアーノルドを凝視してしまう。一切の関心がないのでは無かっただろうか。
「何か……その、困った事など、ないかと」
あんな宣言をしておいて、その表情はとても申し訳なさそうだった。……とはいえ今やシエナもあの宣言の大体の理由を察している。気が強いがなんだかんだ優しいデイジーのことをすっかり好きになったシエナには、もうアーノルドを責める気はなくて、二人の関係をなんとかしてあげたいなと思うばかりであった。
「大丈夫ですよ。お気遣い頂きありがとうございます」
「そうか。夜は眠れているか?」
「ええ、それはもうぐっすり」
「なら、いいんだが……」
具合が悪そうに見えただろうかと頬に手を添える。
「関わるなとは言ったが……本当に困った事があれば、言ってくれ」
「畏まりました」
今のところ困ったことは思い浮かばなかった。自由に過ごしていいとの宣言通り、デイジーと話をしたり庭を散歩したり、美味しいご飯やお菓子を頂いたりと、貴族令嬢……いや、次期公爵夫人並びに公爵邸の女主人としてこれでいいのだろうかといっそ不安になるくらいにはシエナはのんびり過ごしていた。
まぁ、ド田舎貧乏子爵令嬢を選ぶくらいだから、その辺りの期待はされてないのだろうが。
会場はバラの美しい庭園だった。舞踏会のように入り口にて大声で名前を読み上げられることはなかったものの、すぐに好奇の目に晒される。まぁ次期公爵の五人目の婚約者とあっては、注目が集まるのも無理はないだろう。国王と王妃に挨拶している間も、数多の視線をシエナはずっと感じていた。
「喉が乾いてはいないか?」
「あ、では頂きます」
このようなパーティーは殆ど初めてのシエナが緊張で喉がカラカラになっていたのを察してくれたのか、アーノルドが差し出してくれたグラスを受け取ってひと口飲む。ノンアルコールのシャンパンは流石は王宮で用意されたものだけあって、ふわりと口の中に爽やかな香りが広がり、優しい甘さがシエナの心に染みた。これなら軽食もかなり期待できそうである。……が、いくら自由に過ごしていいとは言われていてもあくまでそれは邸内での話であり、今この場で許されるのは精々一つ二つだろうことが悲しい。
食べたい気持ちを堪えようとバラへ視線をやっていると。
「あの方が次の婚約者ですのね」
「果たして今回は何日持つのかしら……」
「アーノルド様がお可哀想……」
「ですがわたくしもやはりアレは……」
盗み聞きするつもりはなかったが、そんな話し声が聞こえてしまった。シエナは不美人ではないが、特別美人でもない。まぁまぁ可愛いあたりが妥当な評価だろう。そんなシエナが美形揃いの会場内でもずば抜けて美しいアーノルドの隣に並べば劣って見えるのは仕方の無いことだった。
「すみません、やはり私では不釣り合いですよね……デイジーさんなら誰も文句の付けようがないくらいお似合いだったと思うのですが……」
「……君はデイジーを知っていたのか?」
思わず謝罪の言葉を口にすると、驚いたようにアーノルドがシエナを見下ろした。初日にいきなり突撃してきたデイジーは、シエナにとって今やいて当然の存在になっていたが、アーノルドからすれば実質愛人──デイジー自身は愛人ではないと否定していたが──のような立ち位置の彼女と自分の婚約者が、いつの間に交流を持ったのかと疑問に思ってもおかしくない。
「あ、驚かせてしまいましたか? デイジーさんとはお友達なんです」
「友達だったのか……だから君は大丈夫なんだな」
大丈夫とはどういうことだろう……もしかするとシエナがデイジーを虐げたり、追い出せと文句を言う可能性を考えていたのだろうか。
「ええ、だから心配しないで下さい」
ちゃんとデイジーと上手くやっていけると安心して欲しくて、そう返すと。
「……良かった」
アーノルドがそうホッとしたように笑うのを見て、シエナの心臓がドキリと高鳴った。難しい顔しか知らなかったので彼の笑顔は初めて見たのだ。美しい人の笑顔は心臓に悪いことをシエナは学んだ。アルコバレーノの王女が一目惚れしたというのも納得である。
しかしその笑顔は、デイジーを大切に思うが故のものだと理解しているシエナが恋に落ちることはない。それに日頃デイジーからいかにアーノルドがカッコよくて優しくて素敵な人かというのを語り聞かせられているから、その影響で少しドキッとしただけだとシエナは結論づけた。
「……ならばこれからは一緒に食事をとるか? 私達はその……婚約者同士なのだから、仲を深める必要もあるだろう」
突如そう言われ、シエナは困惑する。
「え? ですがお二人の邪魔をするのは忍びないので……」
「お二人?」
「普段はデイジーさんと一緒に食事をとっていらっしゃるのではないのですか?」
デイジーは一度もシエナと食事を共にしたことはない。誘っても断られるので、てっきりアーノルドを優先しているのだと思っていたが。
「何を言っているんだ……?」
全く訳が分からないと言いたげにアーノルドは表情を強ばらせた。
「違ったのですか?」
「……君はデイジーの昔の友人だったのではなかったのか?」
「いえ、クレスウェル邸に来てからですよ」
そう答えると更にアーノルドの顔がサッと青ざめる。何か問題があっただろうかと首を傾げたシエナは慌てた様子の彼に手を取られ、人気のないところまで連れていかれた。
「……言いづらいのだが、デイジーは──」
◇
アーノルドにとっての不幸の始まりは、やはりアルコバレーノの第一王女に一目惚れされたことだった。
そもそもその時アーノルドには、デイジー・カーライルという侯爵令嬢の婚約者がいた。六歳も歳下の為、デイジーは妹のような存在ではあったが、正義感が強く努力家な彼女となら良い夫婦になれると思っていたのに。
クレスウェル公爵家はオレオール王国の中でも王家に匹敵する程の権力を持った家だが、それでも強大な国であるアルコバレーノの申し出を断る事は難しかった。デイジーがアーノルドの事を深く愛していた為、最後までカーライル家は抗議していたのだが……。
──ある日デイジーは心臓の病で急死した。
至って健康だった彼女に心臓の持病なんかなかった。そうなれば王女が疑わしく思えて調べさせたが、証拠は何も見つからず。結局心に巣食う疑念を晴らせないまま、アーノルドと王女の婚約が無理矢理結ばれた。
しかし早く結婚したいと急かす王女の要求を当分はデイジーの冥福を祈りたいからと拒否し、裏で調査は続けた。アーノルドがデイジーに捧げていたのが恋情ではなくとも、間違いなく大切な女の子だったから。
そうして王女がクレスウェル家に住み始めて三ヶ月がたった頃。王女が突然発狂し、アルコバレーノに帰りたいと泣き始めた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっわたくしが悪かったわ……っだからもう許してええぇっ!!」
なんでも夜になるとひとりでに椅子や花瓶が倒れたり、窓を叩く音が鳴り止まなかったり、挙句の果てには誰もいないのに足を掴まれたりのしかかられるという。そして──デイジーの声がするのだそうだ。お前なんかにアーノルドは渡さないという、怨念の篭った声が。本当に幽霊の仕業か罪の意識が見せた幻覚か、真偽の程は定かではないが帰ってくれると言うならばその方が良いと婚約解消を受け入れた。
それから二年後。王太子夫妻が結婚したので、子どもの歳を近く産むためアーノルドも再び相手を探すように言われ始めた。二度の婚約解消をした身だが事情が事情であったので、縁談は山のようにあった。
そんな中選んだのは同じ王太子派である伯爵家の令嬢だったが……彼女もまた、二ヶ月がたった頃からデイジーの幻聴等の心霊現象にあい、逃げるように出て行った。
王女を恨んでいたのは分かるが、その令嬢とデイジーに特別な関わりはなかった筈なのに一体何故。アーノルドは冷や汗をかいた。守れなかった自分を憎んでいるのか、他人に渡すまいと嫉妬しているのか。……前者ならば、アーノルドの所に来てもおかしくはないから、後者だろうか。答えは分からなかった。
前回は引く手あまただったものの、婚約すると呪われるだの邸に幽霊が出て殺されるだのという噂が広まり、次の婚約者を見つけるのは難航した。それでも立候補してくれたのはシュトルツという国の令嬢だった。通常一年は婚約期間をとるが、事情が事情なのでなるべく早い方が良いという令嬢側の希望もあり一ヶ月に短縮された。そして、念の為アーノルドは必要以上に彼女と関わらないようにした。とはいえ婚約者なのだから、食事を共にとったり、パートナーを必要とするパーティー等に出席する程度のことはしたが。
……結局二週間で心霊現象が起こった。その令嬢は何か方法がないかと数日耐えていたが、部屋を変えても駄目、別邸に移っても駄目、宿屋に移っても駄目で。首に手の跡がくっきり残るようになった頃、婚約解消を申し出て来た。
こうなったらもう結婚など諦めた方が良いように思えるが、クレスウェル家は血筋的に女児が生まれやすいのか、後継者に相応しい年頃の親戚もおらず、養子をとるのも難しかった。アーノルドとて、六人目の子にしてようやく産まれた長男だったのだ。よくぞここまで家系が続いたものだと思う。
考えた結果──次は、デイジーに対して愛のない結婚であることをアピールし、嫉妬の必要はないと思ってくれるように徹底的に避けることにした。アーノルド自身だけでなく、両親や使用人達にも婚約者との接触は最低限に留めるように言っておく。両親はともかく、幽霊屋敷と呼ばれるようになっても辞めずに働いてくれている使用人達に冷たい人間を演じさせるのは気が引けたが、仕方がない。そしてそんな酷い扱いをしてしまう次の婚約者にはもっと申し訳ない。跡継ぎの男児さえ産まれればすぐにでも解放して、良縁でも金銭的な援助でも、望むことは何でも叶えるつもりであるが……男児が一人目で産まれる確率は、家系図を眺める限り絶望的であった。
とはいえそもそもアーノルドと婚約してくれる相手が見つかるかという話である。事情を知っていれば恐ろしくて逃げられるが、外国の何も知らぬ令嬢を選べば下手をすると国際問題にまで発展しかねない。かといって国内にはもう──と思われた時に白羽の矢が立ったのがエリントン子爵家だった。
首都から遠く離れたエリントンはその領地の殆どが本土から離れた島で構成されている。しかもその島と本土を渡す船は、良く晴れた波のない日にしか運行しておらず、それでも困らない程には島内で全てが完結している。故にアーノルドの事情も知らない可能性が高かった。エリントン家の長女は既に結婚していたが、次女は未婚でアーノルドの二歳下と、正直言って貴族令嬢としては行き遅れと言われておかしくない年齢だが構わない。そんな経緯で滅多に船が出ない故にアーノルドは書面でのやり取りにかかる時間よりは、いっそ自分が出向いた方が早いとエリントン子爵家へと出向いた。
本人にはとてもじゃないが「死んだ元婚約者が心霊現象を起こすが、それでも嫁いで来て欲しい」等とは言えない。そんなことを言われて嫁いでくる令嬢がいる筈がないからだ。……ただ、せめてもの誠意としてご両親であるエリントン子爵夫妻には事情を話す事にした。建前などではなく、断ってもいいことも伝えた。大事な娘をそんな危ない相手に嫁がせるなど、余程娘を大事にしていないか、それ以上にこちらからの援助に旨味を感じるかの二択であろうから、出来れば旨味を感じて貰える程の援助の提案をと思っていたが──。
「クレスウェル家も大変ですねぇ。ですがシエナなら大丈夫ですよ。その事情も知らないでしょうし……」
「ええ。あの子なら美味しいご飯さえ与えて下されば」
「ここの料理は飽きたと。島から出て本に書かれているような色んなものを食べてみたいと言っていたしなぁ」
「クレスウェル公爵家なら最上級の料理人がいるでしょうしねぇ」
表情からして大らかそうな夫妻が、なんとも気の抜ける調子であっさり婚約に了承したのだ。拍子抜けという言葉がこれほど当てはまる状況もそうないだろうとアーノルドは思った。
「ああでも婚約期間は二ヶ月は欲しいですね」
「この島では花嫁のウエディングベールを母親が作る習慣があるんですよ。本当は一年かけて作るのですが…急げば。公爵家での結婚式なら頑張らないとねぇ」
婚約期間を短くしたところで、結局前回も心霊現象は起こったのだ。だから寧ろ短くて申し訳ないと思いながらもアーノルドはそれを了承した。
そして嫁ぐためにクレスウェル家にやって来たシエナは、なんとも垢抜けない素朴な女性だった。案内したサロンでは綺麗に巻いたこげ茶の髪に違和感があるのか、時折気にするように指でくるくると弄り、一応令嬢らしく礼儀正しくあろうという気概は伺えるものの、目の前の紅茶と菓子への興味を隠せていなかった。あまり周囲にはいないタイプの彼女の姿に好印象を抱いたが、好みだのとどうこう言える立場ではない。アーノルドは今まさに酷いことを言い、これから冷遇するつもりなのだから。
「私が君を愛することは無い!」
邸のどこにいるか分からないデイジーにも聞こえるように、出来るだけ大きな声を出した。シエナは突然の大声に驚いたようにビクリと肩を震わせ、後ろを振り向いた。……まさか、幽霊がいると察してしまっただろうかと心配したのもつかの間、彼女は不思議そうに首をかしげてまたアーノルドの方を向いた。それはそうだ。アーノルドだってこんな事にならなければ、幽霊などという存在を信じることはなかっただろうから、そんな発想は浮かばないだろう。
「自由に過ごしてくれて構わないが、なるべく私に関わらないでくれ。私は君に一切の関心がないんだ。跡継ぎが必要だから仕方なく……」
跡継ぎに関して以外、それは全くの嘘であった。心霊現象により度重なる婚約破棄をしたというアーノルドの特殊な事情にも勝ると夫妻から評される食欲とは一体どれほどのものなのかとか。好きな食べ物は何かとか。島ではどのように過ごしていたのかとか。出来れば色々と話してみたいが、それでデイジーの反感を買ったら今までと同じことを繰り返すだけの可能性が高い。シエナが自分に対して非難の視線を向けるのを見たくなくて、アーノルドは早々にその場を去った。
それからはすれ違うことすらない程、シエナと関わらない日々をアーノルドは過ごした。それが功を奏したのか、それともまだその時ではないのか、デイジーがシエナを襲うことはないようだ。料理長にはアーノルドよりも彼女が好きなメニューにするよう頼んでいたのが良かったのか、一人ぼっちにしてしまっているにも関わらずシエナは穏やかに笑顔で過ごしているとの報告を受けていた。護衛曰く独り言が多いらしいが、それも楽しそうな声とのことなので心配する必要はなさそうだ。──そう、思っていた。
「普段はデイジーさんと一緒に食事をとっていらっしゃるのではないのですか?」
そう、問われるまでは。
◇
「デイジーさんっ!!」
階段を駆け上がり廊下を全力疾走して、少々乱暴にドアを開けてそう大声を出す。令嬢としては決して褒められることではない……寧ろ相当怒られる行儀の悪さだろうが、シエナにはそんな事を気にしている余裕はなかった。
「あら、思ったより早かったわね。王妃が早々に退場したのかしら?」
銀の髪に紫の瞳の美しい女性がそこに存在している。確かに存在しているようにシエナの目には見える。……しかしシエナはアーノルドから聞いてしまった。
デイジーは──。
「なんで幽霊だって教えてくれなかったんですか!?」
「なんでって、聞かれなかったもの」
「あなたは生きてる人間ですか? なんて聞くわけないじゃないですか!」
デイジーはもう三年以上前に死んでいるらしい。アーノルドは帰りの馬車の中でシエナに全ての経緯を話してくれた。今までの婚約解消の経緯や、デイジーによるものと思われる心霊現象。シエナが同じ目に遭わないために、あのような宣言をしたということ。アーノルドとデイジーとで語った婚約解消の理由が違ったことが引っかかったが……。
「それもそうね。でも勘違いさせているのが面白かったし……何より暇だったから。幽霊だって言ったら、話し相手を失うかもしれないでしょう?」
「別に幽霊でも、私は気にしませんけど……」
確かに驚きはした。しかしシエナにとってもまたデイジーが良き話し相手になってくれたことは間違いない。だから恐れとか、そういう感情がシエナの胸に湧くことはなかった。
「じゃあ言わなくてもいいじゃない」
「確かに……」
あっけからんとそう返されシエナはあっさり納得した。生きていても死んでいても気にしないのだから、言われてみれば知らなくても問題はなかったと思ったのだ。
「貴女のそういう単純なところ嫌いじゃないけど、公爵夫人としてやっていけるのかは心配だわ」
その時、シエナが馬車を降りた瞬間から走ってきた為に置き去りにされたアーノルドが遅れてやってきた。
「……デイジー? いるのか……?」
「アーノルド……」
デイジーが驚いたように目を見開く。アーノルドにはやはり彼女の姿が見えていないようで、部屋の中をキョロキョロと見回している。
「すみません……私、てっきりデイジーさんはご存命だと思っていたので、話が食い違ってしまって……」
「まぁいつかはこんな日が来ると思っていたわ」
シエナが話しかけたことにより、デイジーのいる大体の位置が分かったのだろう。アーノルドはシエナの傍まで歩み寄り、デイジーとは少しズレた方向に恐る恐る声をかけた。
「デイジー、すまない。私が守れなかったばかりに……」
当時の事をさっき話で聞いたばかりのシエナには、二人の正確な気持ちは分からない。しかし彼を好きだったと言っていたデイジーだが、そうやって謝るアーノルドを見る表情は、愛しい人に対するものというよりは大事な家族へのものに近いように思えた。
「……ねぇ、貴女。通訳になって下さる?」
「本当にアーノルド様にはデイジーさんが見えていないんですね……任せてください!」
そのくらいお易い御用だとシエナは胸元をドンと叩く。
「私ね、アーノルドに未練があったの。だからずっと、死んだ後もここにいた。でもそれは別に、貴方を他の女に渡したくないからじゃないわ。……ただ、大好きだった貴方が幸せになる姿を見たかっただけ」
デイジーの話す言葉を、一語一句違えぬようアーノルドに伝える。それを聞いたアーノルドは自分を責めるように眉を寄せていた。自らの勘違いを恥じたのだろう。
「アーノルドは知らないでしょうけれど、王女は酷かったわ。私を殺したのは王女ではなかったけれど、王女の為にと独断で殺した護衛にご褒美だとか言って浮気してたのよ? ありえないでしょ! だから怖がらせて、追い出してやった」
シエナの記憶が正しければ、王女はアーノルドの性格が思っていたのと違ったから浮気したとデイジーから聞いた気がする。……アーノルドに配慮して、そこは伏せているのだろうか。それにしたって無理矢理解消、の方法がまさか命を奪ったという意味だったとは……。
「そして次の女……伯爵令嬢のジャネットだったかしら? あの女は実家が貧しかった反動か馬鹿みたいに散財して……貴方に贅沢を程ほどにするよう言われて、予算を決められたでしょう? でも我慢できなかったのでしょうねぇ。その後ジャネットはクレスウェル公爵夫人のアクセサリーを盗んで売ろうとしていたの。勿論追い出したわ。まぁ今思えば他の二人よりはまだましだったかしら」
「なんだって……」
王女はともかく、アーノルドからすれば他の元婚約者はデイジーとの関わりもない上、特に素行に問題もなさそうなのに被害にあったその真相に驚きを隠せないようだ。
「更に次の女……シュトルツの令嬢はアーノルドと婚約した時、既にシュトルツの王子の子を孕んでいたの。鳥を使って手紙のやり取りをしていたのを盗み見たから確かよ。シュトルツ王家の血を継ぐ子をオレオール王国有数の公爵家の長子として産み育てることで、オレオールでの発言権を得て思い通りに動かすつもりだったのでしょうね。だから私は彼女のことも何が何でも追い詰めて、追い出そうとしたの」
シエナが聞いていた話よりも詳しい内容に、シエナは伝えながらも驚く。デイジーは当初「他の男の子を身ごもっていたから婚約解消した」としかいわなかった。まさかそんな壮大なスケールの話だとは。
「つまり……私は別にアーノルドに誰とも結婚して欲しくなくてこんなことをしていた訳じゃないのよ。貴方に相応しい……いえ、最低限まともな女なら、貴方が幸せならそれでいいと思っていた。──でも現実は話した通り。信じて貰えるかは、分からないけどね」
「……信じるよ。調査をすれば分かるし、それに君は嘘をつくような子じゃなかったからね」
「……ありがとう」
初対面の時にシエナが抱いたイメージとは異なり、アーノルドは本来穏やかな人柄のようだった。そんな彼があんな横暴なことを言ったくらいだから、余程追い詰められていたのだろうと思う。
「怨みや怒りが原動力じゃないと、この世界に干渉できないのか、アイツらに喋りかけたり首を絞めたり物を落としたりっていうのは出来ても、アーノルドには全然聞こえないみたいだし紙に書いて伝えることも出来なくて……そのせいで婚約自体が難しくなってしまったのは申し訳なかったと思うけど」
「……本当にすまない、誤解していて」
「本当よ。私がそこまで狭量な女だと思ってたの?」
怒ったような口調だが、アーノルドを見つめるデイジーの表情には怒りの感情など全くない。拗ねているのだなぁ、可愛いなぁと彼女を見ていたシエナに、デイジーが視線を合わせた。
「でも、ようやく最低限まともな女がやってきたわ」
「えっ、私のことですか?」
「貴女以外に誰がいるのよ」
アーノルドに伝える前に、シエナは思わずデイジーに聞き返してしまう。デイジーはそれを咎めることなく、ただ少し困ったように笑った。
「真面目で少し堅物なところがあるアーノルドと、能天気女の貴女はなんだかんだお似合いだと思うわ。……まぁ、公爵夫人としては心配が多いけれど」
容姿も家柄もその他様々な点で圧倒的にアーノルドより劣るシエナは、理由がどうあれ彼とお似合いだと言うデイジーの言葉をそのまま伝えるのが恥ずかしいものの、デイジーの視線の圧に負けた。
アーノルドは能天気女……?と復唱したが、重要なのはそこではないとシエナは思った。
「最後に彼に言葉を伝えられて良かった。ありがとう……シエナ」
「デイジーさん名前……!」
デイジーは普段、シエナの事を貴女としか言わない。だから遂に名前を呼んで貰えたことに嬉しくなって、前半の発言の意味に気がつくのが遅れてしまった。
「……って最後ってどういうことですか!?」
「死人がいつまでも居座る訳にはいかないでしょう。貴女を認めたから未練ももうないし……」
「ま、待ってください! まだ私とアーノルド様が上手くいくと決まった訳ではないじゃないですか」
「「えっ」」
別にシエナはアーノルドが嫌いではない。寧ろデイジーがべた褒めするのを散々聞いていたのもあって、事情を知った今では割と好意的に思っている。……が、やはりシエナはド田舎島育ちの食い意地がはってるだけの名ばかりの令嬢なのだ。……これまでの三人に比べればマシなのかもしれないが。
「ですからもう少しだけでも……それにほら、デイジーさんも言ってたじゃないですか。公爵夫人としては心配が多いって……」
後継者を産むだけなら、なんとかなるかもしれない。けれど公爵夫人としてやっていくのは無理がある。貴族どころかこの間国王夫妻を初めて見たばかりで、王子や王女達の顔と名前すらまだ完璧には一致していないというのに。
だから出来ればもう少しそばに居て、本当にシエナでいいのか見極めて欲しいものだ。きっとシエナが完璧になる日は来ないので、そうすればずっと一緒に──そう考えたところでふと気づく。
「あ……でも好きな人と他の女が一緒にいるところを見るのは苦痛ですかね……」
「いいえ、別にそれはいいのよ。最初はそりゃ、嫉妬とかあったけど……三人目の女の時点でアーノルドの不運さに同情しちゃって、今じゃ気分はアーノルドの母親だわ」
「そうですか……ですがそれでも……。そうだ! 私に憑依しますか?」
「貴女ねぇ……そもそもそんな事が出来たのなら最初から王女に乗り移ってたわよ」
「確かに……」
見事なまでの論破に一瞬でシエナは撃沈した。食事の時さえ返してくれれば、デイジーがシエナの体に入ってアーノルドの妻として振る舞うのもいいと思ったのに。
露骨に肩を落としたシエナに、デイジーはため息をついて口を開いた。
「……でもまぁ、仕方がないから貴女が公爵夫人としてやっていけるまで、見守ってあげるわ。私の未練は、アーノルドが幸せになるところを見たい、だからね」
「デイジーさん……!! 私頑張ります!」
感激のあまり思わず抱きつきたくなるが、伸ばした手はデイジーの身体をすり抜けてしまう。空を切った手のひらを呆然と見つめ、本当に幽霊なんだ……とシエナは今更ながらに実感した。
「デイジーが暫くサポートしてくれることになったのか?」
「はい!」
「それは良かったな。……ありがとう、デイジー」
「ふふ、いいのよ。暇だからね」
仲の良さそうな二人の様子にシエナが喜んでいると、アーノルドがシエナの方に向き直る。そして何をするのかと思えば──勢いよく頭を下げた。
「会ったばかりで酷いことを言って……使用人達にあまり君と関わらないようにさせていたのも私だ。許されることではないとは思うが謝らせて欲しい。本当に……すまなかった」
「あ、頭を上げてください……! 事情は分かりましたし……お食事が美味しかったので、大丈夫です」
婚約者とはいえ子爵令嬢と公爵家の次期当主とでは天と地ほどの地位の差がある。そんな相手に、しかもシエナも仕方がないと思っていることで頭を下げられるなど心臓が持たない。
「そんなに美味しいか」
「それはもう……この為に生まれてきたのだと思う程です!」
ここで出てくる料理は全て、まず食べるのが勿体ないほど芸術的に盛り付けられた美しい見た目、空腹でなくても嗅ぐだけで食欲が湧き上がる香り、食感すらも極上で、味は毎日これが人生最後の食事となっても構わないと思うほどに美味しい。
思い出して頬が緩むシエナを見て、アーノルドは「料理長が泣いて喜ぶだろうな」と苦笑しながらも話を続けた。
「あんなことを言ったが……本当はもっと話をして知りたいし、一緒に過ごす時間をとりたい。……私に挽回の機会を与えてくれるだろうか?」
屈託のない笑顔を浮かべるシエナは正しく彼の言葉を理解した。
「はい! デイジーさんの通訳係は任せてください!」
──シエナ自身は、これで理解したつもりだった。
「……頑張りなさいよ、アーノルド」
「……今デイジーが何を言ったかわかる気がするよ」
勿論、額に手をあてたアーノルドと、公爵夫人として認めるのは相当先になりそうねと呟いたデイジーの本意は全く分からなかった。
◇
幽霊屋敷の呪われ貴公子が遂に結婚するという噂は、瞬く間に社交界を駆け巡った。元は婚約期間二ヶ月で、更には中止の可能性も高いという前提で招待状が送られた結婚式だったが、態々それを一年後に延期してまできちんと準備をした式を執り行うというから誰もが驚いた。
これが意味するのはデイジー・カーライルの呪いが解けたという事だろう──ならばあのような田舎者の子爵令嬢である必要は無いと、アーノルドの元へ山のような縁談が舞い込んだ。しかし、アーノルドはそれら全てを断った。諦めの悪い者達もいたが、彼女達はそろってデイジー・カーライルの悪夢を見たので次第にそれも収まった。
そしてアーノルドの五人目の婚約者にして、ついに妻となったシエナ・エリントン改めシエナ・クレスウェルは、アーノルドと比べるとよく言えば素朴、はっきり言えば地味な女性であったが、意外にも貴族社会について詳しく、初対面の筈の貴族の名前や領地の特色等もよく覚えていた。ただ、時折誰もいない方向へ笑いかける姿に、やはり未だデイジー・カーライルの呪いは解けていない説、実はデイジー・カーライルが憑依している説等が流れていたのを、シエナ本人は知らない。
その後クレスウェル家には珍しく、一人目、二人目と続けて男児が生まれた。アーノルドは当初、後継者さえ生まれれば離縁して何でも願いをきいてあげようと思っていたが、その必要も最早感じられなかった。それは心霊現象問題が収まったから……ではなく、彼はシエナを愛していたし、シエナも無自覚のようだが彼を愛してくれていたし──彼の妹にして二人目の母のような存在が、大変満足そうだったからである。
「君を愛することはない」って宣言した理由を聞いて、それなら仕方ないね…って思える事情を考えた結果生まれた話でした。活動報告に詳しい(?)後書きを書いています。