切っ掛けはD判定
切っ掛けはそう、D判定が出た事だったであろう、と思う。
「なあ正岡君、結衣は本当に一生一人でいるつもりなんだろうか?」
「えっ……は、あの、春馬先生? 急にどうなさったんですか?」
「ああ、すまない。こんな事を訊かれても困ってしまうね」
慌てて顔の前で手を振り、「何でもないよ、気にしないでくれ」と言ったが、私が声を掛けた青年、正岡孝規は私の方に体を向けると、気遣うような何かを迷うような目をしてこちらを見た。
もちろん大学の臨時講師であり、じきに五十五歳となる私、春馬仁史にとってのD判定は、決して大学入試の模試の結果などではない。
健康診断のとある項目で出たものだ。
毎年受けているその健診の結果は郵送されてきて、各項目に分かりやすいようAからEまでのアルファベットが割り振られている。Aなら良好、B、Cと状態が悪い事を示すものである。その項目の一つがD判定だったのだ。
当然ながら再検査となったが、実際には重い病気ではなかった。ここで詳細を述べるのは恥ずかしいのだが、要するに座りっぱなしだった私の管理不足のせいである。
ほっと胸を撫で下ろしたものの、この歳までD判定など出たことが無かった私には、非常に大きな衝撃だった。もしや死につながる病気ではないのかと、再検査が終わるまで気が気ではなかった。
そして問題はないと分かったものの、最近は疲れが溜まりやすいため、移動を伴う仕事は他人に任せることが増えていたことに思い至った。
「最近ちょっと歳を感じてしまったものだから、ついね。それにこのところどうにも、とみに結衣の様子が不安定な気がしているんだ」
「ああ、なるほど……。確かに結衣さん、最近ちょくちょく私の家を訪ねてくるようになりましたよ。雪江さんとあまり会えなくて寂しいようで」
「君のところにもか、実は私の方もそうなんだ。以前は用事が無ければ来ない子だったんだが、最近は手土産を持って来る事が増えていてね」
子供が保護者の家に来る、というのは何の不思議もない事だ。むしろ頻繁に顔を見せてくれるのは喜ばしい事である。
だが今までずっと一人での生活を楽しんでいた結衣が、急にそうして身近な人間の家を訪ねるようになったのは、やはり欠けてしまったものを必死で埋めようとしているようだ。
その欠けたものとは正岡の言う通り、長らく彼女の友人であった狭間雪江という女性であろうと思われる。
彼女はつい最近まで一人暮らしで、何も起きなければ一生独身を貫くのではないかと思われていて、結衣は足繁く彼女の家に通っていた。
そんな狭間がある稀人と出会い、一年と経たず結婚し、翌年には子供まで生まれて忙しくなった。そのため会うのが難しくなり、他に親しい友人もいないためか、私の元を訪れるようになったのだ。
しかし今でこそ、私が保護者として彼女を見守ることが出来るが、いずれは自分が先立つのは目に見えている。そうなった時、一体誰が彼女の心の拠り所となってくれるだろうか。
そんな不安が頭を掠めずにはいられなくなったのは、やはりあのD判定が原因なのだろう。そうなるまで私は、自分がいずれは死ぬ、という事をほとんど意識した事が無かった。夢中で働いていたためか、体の衰えに気付く機会は幾らもあったはずだが、そこで立ち止まって先々の事を考えようとはして来なかった。
だからこうしてそれを意識した途端、急にどうしていいか分からなくなってしまった。
有り体に言えば、私はすっかり弱気になっていた。よりによってそれを、馴染みの職員に漏らすほどには途方に暮れていたのだ。
もともと三十六歳の時に妻を亡くした私には子供がいなかった。子供は欲しかったがどうしてもできないまま、妻は急病で先に逝ってしまった。
寂しくはあったが、二十五で結婚した彼女とは十年来の仲であったし、周囲にはまだ若いのだからと何度も再婚を勧められたが、とてもそんな気にはなれなかった。
そうこうしているうちに四十二歳になった私が、帰宅途中の駅前で出会ったのが結衣、当初はユウイという名前だった稀人の少女だった。
美しい緑の長い髪に、淡く透き通った水のような瞳で、一体どうやって作られているのかも分からないような複雑な形をした衣装を着ていた。しかも彼女が現れた瞬間、夕暮れの薄暗い駅前が真昼のように明るくなった。
私は思わず目を奪われ、呆然とその真正面に立って少女を見つめてしまった。それくらい美しく、幻想的な佇まいをしていたのだ。
同時にその姿はこの世の者ではない、と強く知らしめてもいて、私はその迫力に圧倒されていたように思う。ああ、彼女が「稀人」と呼ばれる存在なのだ、ともすぐに感じた。
稀人という存在はその時まで、都市伝説のように「どこかにいる」と語られる程度のもので、実在するのかどうかと訊かれれば、幽霊のように居るとも居ないとも言えないような存在だった。
だが人の多い街中のそれも駅前、帰宅時間に神々しい光を伴って現れた彼女に、人々は驚き注目した。
まだスマートフォンがさほど普及していない時期ではあったが、それでも大勢の人間が、携帯電話で彼女の写真を撮り始めた。
呆然としていた私は、そこではっと気が付いた。
季節は冬のさなかだというのに、彼女は肩を出し長い素足を晒した格好で、今にも凍えてしまいそうだったのだ。しかもどうやらその姿だけで、彼女がどんな稀人なのか分かる者も多い様子で、周囲からはユウイという名を含んだ囁き声が聞こえてきて、私は慌てた。
彼女がどんな少女なのかはまるで分からないが、ともかくもこの寒さと、突然こうして見知らぬ世界へ来て、衆目に晒される状況は辛いだろう。そう思って、咄嗟に着ていたコートを脱いで彼女に着せた。
今思えば、その瞬間から私は彼女の保護者となり、またその出会いが、稀人の保護機関を作るに至る人生の契機であったのだ。
「私にはあまりそれらしい話はしてくれませんので、何とも言えないのですが、結衣さんは本気でこれから一生独身でいるとは、どうも思えないですよ」
「やはり君もそう思うか。いや、今までは本当に狭間さんの世話を焼くのに必死で、それどころじゃないという様子だったからね」
「ええ、私と会う時もいつもその話ばかりしてましたからね。それで一人でも平気だっただけだった、という気がするんです。だからこのまま放っておくのは心配で」
「そうか……どうしたものかな」
いずれは保護機関の誰かに、保護者役は継いでもらわなければならないと分かっているが、結衣は他の機関員とあまり積極的に関わらないので、その目星すらついていない。
辛うじて目の前の正岡とはよく話をする仲のようだが、彼には彼の人生がある。
保護者とは常に側で見守る役目となるため、大抵は同居する誰かとなるのだ。その上で年齢を考えると、結衣と正岡では、狭間と同じように結婚するか、しなくとも年の近い者同士での同居となる。それは周囲から見れば、交際相手か結婚していると思われてしまうだろう。
私が考え込んでいると、正岡は腕を組んで同じように考え込むような顔をしていたが、不意に意を決したように私の顔を見た。
「実は私もずっと、結衣さんには付き合ってみないかと言おうと思っていたんです。最近は特に、頻繁にうちを訪ねてくるくらいですから、そうした方がいいのかと。ですが……」
一息にそこまで言った後、正岡は唇をぐっと結んだ。
正直なところ、二人の関わり方にはどこか距離があるようで、私には意外な一言だったが、正岡は更にその先を悩んでいるようだった。
そこで私は、一つの事を思い出した。
「ああ、あの短刀お守りの事かな」
「ええ、そうです。会う度に確認してはいるのですが、結衣さんはずっとあのお守りを持ち続けています」
正にそれは、私も気になっていたところだった。




