秘密の会談(1)
深く深く息を吸う、そして一気に吐く。
もう一度思い切り息を吸う、そして吐く。
冷たい空気を体に取り込めば、少しは頭も冷えるかと思ったが、寒さが増すだけで頭はちっとも落ち着かない。
自分でも何してんだと思うが、他に方法もない。
思い出すだにあの夜は、理性の限界を超える夜だった。
「おはようザグル君、さっきから何してんの?」
いつの間にか隣に立っていたユイが、怪訝な顔をして俺の顔を覗き込んできた。
「見りゃ分かんだろ、深呼吸だ」
「そうね、確かにそれは見れば分かるわ。問題は何で深呼吸してんのかって事なんだけど」
「俺にもよく分からん」
「さいですか」
待ち合わせの駅前に、ユイは約束した通り11時に現れた。
昨日デンワで聞いた時から、彼女の声はユキエの言う通り女の声に聞こえている。
声が変わっても同じ奴だと分かるのは妙だが、その辺りのことは後で話すと言われてとりあえず納得した。
要するに説明が面倒なんだろう。
昨日の夕方、仕事を終えて帰宅する直前にユイからのデンワがかかってきた。
内容は俺への礼と苦情と、何が目的かという質問だった。
「ザグル君がこんな気の利いた手を使うなんてね、ゆっきーには知らせたくないって事なんでしょ?」
「ああ、察しがよくて助かるぜ。にしてもよっぽど気に入ったんだな?」
気の利いた手、というのは他でもない、ユイに渡したユズ茶の瓶のことだ。
あの日買ったユズ茶は、その時期だけの催しとして、ラベルが瓶の蓋に括り付けてあった。
買う時に外して裏側に何かを書き込めるというやつで、表からは読めないが、中身が無くなってくると読めるようになる。
渡す相手に向けて一言書くという趣向だが、俺はそこにスマホの番号を書き付けた。こっそり連絡を取りたいと言う意思表示だ。
だが中身が半分以下になるまでは気付かない物だ。
当分は待つ事になると思ったのだが、一月足らずでこうして連絡が来たのは、つまりそういう事なんだろう。
「こんな事だと知ってたら1年ぐらいかけて飲んだわよ」
「へいへい。女の声でも言うことはさっぱり変わんねぇな」
だがユイはこちらの意図に気付いて無視することなく、ユキエが近くに居ない時間を見計らって連絡を寄越したのだ。
訊きたいことがあると言うと、ユイの方でも話すことがあると言う。
少し会って話す時間が欲しい、という事で今日の約束を取り付けた。
「さて、まずはどこか入る?寒いの苦手なんだよね?」
「おう、ついでに飯食える店にしてくれ」
昼飯を食うには少し早いが、かと言ってぶらつくには少し遅すぎる時間だ。
ユイも承知していたのかすんなり頷くと、駅の近くの騒がしくて狭苦しい店に入った。
むっとするような熱気に包まれたその店は、ユキエと出掛けた時に1度入った店と似ていた。入るとまず食い物を頼むことになるが、困ったことにゴハンが出ない。
肉は一応あるが全部スカスカのパンに挟まれている。
若い人向きの店だよ、と言われて入ったはいいが、なかなか腹が膨れなくて食いすぎて、その後腹を壊してそれきり誘われなくなった。
正直飯には困るうえ、とにかく客が喋りまくっていてやかましい店だ。
だが俺たちの姿を気にする人間も、聞き耳を立てる人間もいないのは助かる。
「肉が入ってればいいんだっけ?適当に注文するわよ」
「ああ、んじゃ頼む」
頷くとユイは背を向けてカウンターに向かった。
慣れた様子でてきぱきと注文していくその後ろ姿を眺め、ふと周囲を見回したところで、微妙に視線を感じた。
2つあるレジの隣の客、近くの席についている客、カウンターの奥の店員。
視線の元を探してみると、その全部がこっちを向いている。
慌てて口元とフードを確認してみたが、マスクはついているし耳も隠れていた。
なんだこりゃ、と首を捻ったところで気が付いた。よくよく見ればその視線は、いつも見る怯えを含んだそれとは違い、どちらかと言えば好奇の目に近い。
そしてその視線が追っている先は、どうも俺ではなくユイの方らしかった。
だが声を掛けてくる様子でもなく、こちらから視線を合わせるとさっと逸らされる。
訳が分からないまま、やがて食い物の乗ったトレイを渡され、開いている席に向かった。
「どう、あたしも捨てたもんじゃないでしょ?」
窓際の明るい場所に席を見つけて、椅子に座るなりそう言って胸をそらしたユイに、俺は首を傾げた。
「何よその顔?今日のあたし見てて何とも思わないの?」
「んなこと言われてもな、妙に人目につくってのは分かるが」
「あっそう……。オークの美的感覚ってそんな鈍いの?」
正直に答えると急に不貞腐れた顔になった彼女は、何故か睨むような目で意味不明なことを言い出した。
「よく分かんねぇけど、人間にはそんなに美人に見えてんのか?」
「うん、ザグル君じゃなきゃ今の質問はぶん殴ってるとこだけど、それで正解。正確に言えば女らしく見えるように意識してる、ってだけなんだけど」
「ああ、あんた妖精みてぇなもんだっけ?性別ないのか」
「そういうこと。やっぱり話が早いわね」
いわゆる魔力というやつはこの世界には存在しないらしく、例えば魔法で火を起こしたりはできないが、種族的な性質は変わらないのか、体の根本的なところはそのままだ。
オークである俺は人間に比べてかなり怪我や病気の治りが早いし、ユイの性質は俺の居た世界の妖精とほぼ同じだったようで、そもそも性別がない。
異種族からは大抵男か女かどちらかに見えるものだが、それも相手によって変わる。
言われてみれば確かに、前に2度会った時とは服装が違う。
どちらかと言えば男の服装に近かったそれが、今日はエリスのような長い丈のスカートを履いている。
極端に濃い気がした化粧も薄くなっていて、肌の白さが目立っていた。
目の色は隠したままだが、ほぼ真っ黒に見えた以前とは違い、やや薄い緑色になっている。
だがそれで美人に見えるかと言われたらさっぱりだ。
見た目より中身の印象が強すぎる。
説明した訳ではないが、ユイには俺の頭の中はだいたい読めるらしい。
ハァッと軽く息を吐いてテーブルに両肘をつくと、人差し指を突き付けてきた。
「この前電話した時にさ、いきなり『今日は女の声なんだな』って言ってたじゃない?あれってあたしが何かしたわけじゃないのよ」
「何もしてねぇ?じゃあなんだ、俺の耳が狂っちまったのか?」
「違うとも言えるけどまぁそうね、ザグル君はたぶんあたしを男だとは思わなくなったのよ」
もっと詳しく言えば、男だと思う必要がなくなったんだ、と言われて余計に頭が混乱する。
顔を顰めた俺の鼻先に、ユイは自分の掌を突き出してきた。
「ゆっきーから聞いたけど、ザグル君にはあたしって変なニオイするのよね?今もする?」
そう言われてやっと気が付いた。
確かに今日は駅で会ったときから、あの嫌なニオイがしなくなっている。
俺はその話をした時に、自分でユキエに話したことを思い出した。
自分にとってやべぇ奴かそうじゃないか、それを嗅ぎ分けているんだろう、と。
ユイと初めて会った時は、ユキエは彼女を単純に「女友達」と呼んだ。
だが敵意を誘う明らかに違う生き物のニオイに、ユキエに正体を隠して何かする気かと警戒心が起こった。
「なるほどな、俺が疑ったから声も男の声に聞こえてたのか」
「多分そうね。正体を隠してるなら性別だって隠してるかもしれない、って本能的に警戒したんじゃないかな」
だが買い物に同行したときの顔色の悪さに、つい心配して茶を買ってやって、それがユイの気持ちを変えたのだとユキエから聞かされた。
その時俺は、ユイはユイで気を張っていたのか、と同情する気持ちの方が強くなった。
彼女に対する警戒心が切れたのは多分その時だ。
「それで女に見えるように、ってか。こんな面倒は初めてだったんだな」
今までは男にも女にも見える姿のまま、あえて放置することで人を寄せ付けなかったんだろう。
他人に声を掛ける時には、相手が男か女かで色々と対応が違う。
それがどちらか曖昧な奴には、知り合う切っ掛けでもなければ声を掛けにくい。
人間を遠ざけたかったユイにとって、それは身を守る一つの手段だったわけだ。
だが俺とユキエのように、身近なやつの認識が食い違えばかえって問題が起きる。
「ま、そういうこと。まさかこれが原因で警戒されるなんて思ってなかったしね」
そう言ってユイはテーブルから体を起こすと、ジュースを手に取ってすすった。
その肩越しに向こうの席に視線をやると、若い男がさっと顔を伏せるのが目に入った。
女だと印象付けるだけでこうも人目を引くなら、それはそれで難儀な気もする。
だが本人がそう決めたのなら俺が口を出す話でもない。
何となくユイに倣って手元の茶をすすると、強烈な甘ったるい匂いにむせかけた。
どうもここの食い物は口に合わない。
「そう言えばさ、ザグル君の方でもいい事あったんでしょ?」
「あん?どういう意味だそりゃ」
急に嬉々とした顔になったユイは、テーブルの上にずいっと身を乗り出し来た。
女の話が急に飛ぶのは世の常だ。だが身に覚えがない。
困惑している俺の耳元に顔を寄せると、ユイは片手で口元を覆って囁いた。
「バレンタインの夜のこと聞いたわよ、布団で抱っこして告白してくれたって」
「うぼっ!ごふ、ごふっ!がはっがはっ!」
予想外の一言に、口に入れかけた茶を喉に引っかけてしまった。
あの夜の事をユイに話していたとは、女同士のお喋りは恐ろしいというおやじの言葉が蘇る。
屁をこいたはずみで漏らした事すら隣の家に筒抜けになる、と聞いた時は大笑いして流したが、あれはホラでも冗談でもなかったのだ。
大変だったなおやじ、と心の中で手を合わせる。
「その反応だと膝に座らせて怪談したのも本当なのね。ゆっきーも驚いたって言ってたわよ」
「ありゃあ半分ユキの勘違いだ!さみぃのに何も着ねぇで座ってっからよ、布団に入れって広げてやったらいきなり膝に座ってきたんだ」
まるで子猫のようにひょこひょこ膝に上がってきて、尻を乗せてきたユキエに仰天したのはこっちの方だ。
「やっぱりそんなとこだったのかぁ」
「勘弁してくれよ、あのまま黙っときゃ平気で寝そうだったんだぜ」
この様子だと色々筒抜けなんだろうな、と思うと頭が痛い。
いい事には確かに違いないが、俺にはかなりの忍耐力を強いられた一夜でもある。
ユイと3人で買い物をしたあの日、さり気なく「俺は丸太じゃない」と主張しておいたつもりだったが、その辺はどうもユキエにはさっぱり伝わっていないらしい。
額を押さえていると、ユイはふと真顔になった。
「ああ、それで怪談なんてしたの?」
「仕方ねぇだろ、ビビって目ぇ覚ましてくれりゃ助かると思ったんだよ!」
ここまで全部バレていると、もはや取り繕う隙すらなかった。
布団に入るのを躊躇う様子はあったから、せいぜい隣に座って足を入れるくらいかと思ったら、まさかのあの行動だ。
誘っておいてなんだが、こっちは年頃の女を膝に乗せて動じるなと言われても無理だ。
あげく前のめりに倒れるので、慌てて抱き起こしたら、ユキエは腕の中にすっぽり収まってしまった。
子供の頃に妹を膝に乗せたことならあるが、その時とは全く違う感覚だった。
体が小さいのは分かり切っているつもりだったが、10も年上の女とは思えないほど細い体は柔らかく、力を入れれば潰れてしまいそうな頼りなさだ。
そのくせ膝の上と腕に感じる膨らみは弾力があって、首の後ろに覗く肌はドキッとするほど白い。
起きてくれというつもりで頭を軽く叩くと、余計に脱力して身を委ねられ、理性が吹き飛びそうになった。
今でもあの感覚を思い出しては息が上がってくる。
だめだ思い出すな、深呼吸だ、落ち着け俺。
「押し倒しちゃっても良かったんじゃないの?」
「んなわけいくかよ、他人事だと思いやがって」
あんなマネをされれば合意の合図だと思うのが普通なんだろう。
だが自分を信用しきって体を預けて来たものを、ここぞとばかり押し倒す気にはなれなかった。
それに興奮を抑えるのは大変だったが、同時にホッと息がつける感覚もあった。
何も望まないユキエにしてやれることはないし、何もできないならいつ追い出されてもおかしくはない。
だからもし、ユキエに出て行けと言われたらどこへ行こうか、と考えてはいたが、答えはずっと出なかった。
だがあの夜、ユキエは俺がただそこに居ることだけを、全身で望んでくれた。
武器もなく、力は大した役にも立たず、恩を返す方法も分からない俺に、それでもできることが見つかったのだ。
「まぁ、悪ぃ夜じゃなかったよ」
「そっか、なら良かったじゃない」
まるで自分のことのように嬉しそうに微笑むユイの顔を見ると、以前会った時よりは、いくらか綺麗になったような気がした。
ユイの方でも、初めて会った時のように俺を警戒するのは止めたようで、その笑顔はとても素直なそれに見える。
美人かどうかは置いといて、その顔は確かに愛らしさがあった。
だがすぐ頭の中で首を横に振る。少々変わってもユイはユイだ。
飲み切ろうと口を付けた茶は、やっぱり匂いがきつくてむせそうだった。




