chapter 2
朝8時。カフェの開店時間の2時間前に金子は出勤した。開店作業を早めに済ませて、店長に頼まれそうな仕事も言われる前にやっておこうと思ったのだ。
鍵を開けようとしたら既に開いていた。事務室を覗くと店長がデスクに座ってパソコンと書類を広げて何やら作業をしていた。
「おはようキャネコォ」
抑揚のない声で挨拶をされて、金子も「おはようございますアマンダさん」と返した。
「昨日閉店後にね、他店舗で無銭飲食が1件発生したって連絡が回ってきたの。証拠映像も社内で共有されてるから見せるね。私達も注意しようね。」
「分かりました。」
「それと…」
更衣室へ行こうとして背を向けた金子を店長、アマンダが呼び止めた。
「バイトの学生3人が辞めるの。」
「え、何かあったのですか?」
「あなたが休みの日に学生らを集めて、スマホの勤務中の使用原則禁止の規則守れる人は仕事続けても良いって話したら、3人からメールが来たの。」
アマンダが長い溜め息を吐いた。
「従業員の指導は私の責任ではあるけど、誰かが行動を起こすまで対処をしようとしない姿勢どうかと思うよ。」
まさかアマンダが、学生達がこっそりスマホを見ているのを自分が意図的に見逃していたことに気づいているとは想像していなかった。金子は反論の言葉が思いつかず、下を見ることしかできなかった。
「店長業務の研修を受けている社員がいつまでもそんな調子じゃ、試験に合格したってまともな店長になれないよ?」
「すみません、今後気を付けます。」
「キャネコォ、私はあなたのアイムソーリーはもう聞き飽きたわ。」
パソコンから手を離してアマンダは真剣な顔でさらに続ける。
「あなたはここの社員である以上、上司の判断に委ねてばかりいるのではなく、自分で考えて行動を起こさなきゃ。せっかく研修も受けて順調に合格してるのに、キャネコォ自身が変わらないと謝罪したところで意味が無いわ。」
「…はい。」
反論の余地も無く、金子は弱々しい返事をするので精一杯だった。
「あなたは頑張っている方だけど、なんていうか…。芯が見えないの。しっかりしてもらわないと仕事を任せて良いのか分からない時があるのよ。」
今朝アマンダに言われた言葉のすべてが脳内で延々リピートを続けていた。本気で今の仕事をやりたくて入社した訳ではなかったので、周りからは真剣に取り組んでいるように見えてないかもしれない、というのは自覚していた。いざ人から言われると、いつまでも現状に甘えてもいられないと嫌でも思わされる。
このままじゃ本当に駄目だ。
頭ではそう思っても、気持ちがどうしても前に進めなかった。器量も度量も無い自分には、ここでひたすら毎日同じ事をやって生活費を稼ぐので十分だし、上を目指すとか、希望を持つとか、そういう部類の事柄は自分には似合わない。
それに、私はきっと何しても評価してくれる人も、見てくれる人もいない。都合の良いようにされるだけ。
ついボーッとしていると学校に通っていた頃の記憶が蘇る。
どうして周りは傷付く事を言ってくるのだろう?
どうしてそこにいるだけで睨まれたり、笑われるのだろう?
どうして私は皆に怯えなきゃいけないの?
どうして誰も助けてくれないの?
向けられる嘲笑、嫌悪、哀れみの視線が一度に集中してくるような錯覚がして、作業をする手元が止まった。
私は皆に見えない存在だったら良いのに。それなら、周りの声も聞かず、視線も受けずに済むのになぁ…。
その瞬間、突然視界が霞んだ。物が落ちる音がしたかと思えば、すぐ目の前に床があった。急ぐ足音と人の声が近づいて来る。
「君、大丈夫か?!」
常連の男性客とシルヴィアが慌てて駆けつけて、起きようとする金子を手伝った。店内の他の客達も立ち上がって様子を伺っていた。スマホを取り出して撮影しようとする者も現れたが、店の従業員が彼らを止めに行った。
「奥へ入りましょ、ね。」
シルヴィアに促され、金子はかろうじて首を立てに振り、支えられながらなんとか自力で歩いて休憩室に入った。騒ぎを聞いてアマンダも休憩室に入ってきた。
「今日体調悪かったの?」
「いいえ、平気です。」
情けなくなってきて、金子は一秒でも早くホールに戻りたかった。椅子から立ち上がろうとすると、シルヴィアとアマンダに制止された。
この日は顔色が優れないため即刻病院に行くように言われ、早退することになった。診察の結果貧血だった。鉄剤を処方してもらい、金子はそのまま帰路についた。これから午後の混雑があるのに倒れてしまった自分に嫌気がさしてくる。バスの中で項垂れつつスマホの通知を確認したら、母からメッセージが届いていた。たまには帰ってきなさい、という内容だった。同じ内容のメッセージは2年の間に何度か来ていたが、育った町に帰省するのはずっと気が引けていた。
仕事忙しい
それだけ打ってさっさと送信をした。親も事情を知っておきながらよくも残酷な仕打ちをするものだ。
バスの窓を見ると、中学生や高校生達のグループが楽しそうに談笑しながら歩いていた。金子はその光景を妬ましく感じたからか、最寄りのバス停までの時間が長かった。