chapter 1
アメリカ東海岸、とある街の土曜日の秋の午後。通りを行き交う人々を観察しながら、安田金子は昼の混雑に向けてレジ周りとホールの整理整頓や清掃をテキパキとこなしていた。ダラダラしていては混雑が引いた後の休憩時間を気持ちよく取る気になれない。アルバイトの学生達は大した作業もしていないのに、店長の見えるところでは「仕事やってますよ」の雰囲気を演じつつ、店長が目を離すとポケットからスマホを取り出してこっそりソーシャルメディアやネットサーフィンに熱中する。店長が現れると、遊んでいるかと思えばサッとスマホを隠して仕事をサボっていないように見せるのだ。
「よく悪知恵がはたらくものだ」と金子は呆れて彼らを横目で見るが、そこは社会人と学生の違い。何が起こっても彼らではなく、大人が責任を追求される。だから彼らは怠けがちなのだ。分かっていても金子は学生らの行動を注意する気にもなれないし、むしろ放置していた。自分が言ったところで誰も言うことを聞くどころか、改善なんて絶対にしない。…というのは彼女の口実で、自分の判断に自信が無いので、見て見ぬ振りを決め込んでいるだけだ。
「キャネコォ、ちょっと悪いけどトイレの備品補充してくれる?やるつもりだったけど今事務処理で手が離せないの。」
店長はパソコンに目を向けたままだった。金子の名前を呼ぶときのアメリカ人の発音は独特だ。日本語の通りに発音するのは現地の人にとって至難の業だ。
えー…?今色々やってるのに私に言うの?アルバイトの子に言ってよ。
内心店長の申し訳無さそうに見えない態度に苛立ちつつも、金子は「はい」と素直に返事して、さっさと備品補充を済ませて途中になっていた仕事を再開した。
金子はこのカフェに就職してから2年経つが、心に霞がかかったようなモヤモヤとした日々を過ごしていた。将来転職することを視野に入れているが、果たして職場が変わっても仕事が上手くいくのか否か。悩んでいる間に1年過ぎてしまったのに、まだ何も決められずにいる。特別目標も無い、好きなことも無い、挑戦したいことも無い。何もかもが「無い」だらけ。そうは言っても、経済的な自立を考えなければならない。大学卒業後に正規雇用でカフェのホールスタッフのポジションに就かせてもらえただけ。店長業務も兼ねてキッチン業務も少しずつ研修を進めているので、このまま試験合格を重ねていけば店長のポジションに就くことも可能になる。金子自身は別に店長をやりたい訳でもないが…。
ただ、コツコツ文句も言わず仕事を覚えて実践に移すと、善良な客から「ありがとう」「いつもご苦労さま」「体に気をつけてね」と声を掛けてくれることもあるので、その点ではやり甲斐はある。
ドアが開くと上に付いている鈴が揺れて来客を知らせる。一組、二組と、客が増えると見る間に店内のテーブルが埋まっていく。一人で淡々と昼食を済ます人、職場の人同士で午後の業務のために英気を養う人、子連れの大人、午前の講義終わりの学生、老夫婦、車椅子でやってきた人や盲導犬を連れた人まで、多様な客層がここに集まる。どんな客であろうと一人一人に平等に接客するのは当たり前だが、皆に全く同じ対応をすれば良いということでもない。来店した時の表情、目的、注文するもの、目のやり方、仕草など、相手の状態を総合的に判断して適切な言動を考えなければならない。
金子も嫌というほど店長から厳しく指導されているが、ある時に他の客の対応にかまけて水を欲しがっている客を見逃したらこっ酷く叱られた。キッチンと他のホールスタッフは店長の責め立てるような甲高い声に慣れている様子だが、金子は未だに彼女のヒステリックな怒り方に免疫が付いていない。一度や二度じゃなく、何度も店長の怒りの矛先になるので、いつも帰宅すると憂鬱な気分が大波の如く押し寄せる。でも次の日は苦手な笑顔で出勤する。毎月の収入を稼ぐために。
今日はカフェを経営している会社のヘミング社長が来店すると店長がエリアマネージャーから情報を仕入れていたので、社長のお気に入りの席は予約席として空けられていた。カフェの開店当初からいる熟練パート店員のシルヴィアが気配り上手で、社長にとってその店員はお気に入りの従業員なのだ。だから他の店舗には行かず、シルヴィアに会うためにたまにこのカフェに寄るのだ。
金子が入社後の研修中に初めてオーダーを取った客がヘミング社長だ。店長に「さぁ行きなさい」と言われホールへと送り出されたが、当時は大荒れの海原に向かっておんぼろの小舟で漕ぎ出したような気分だった。今ではマニュアル通りを心がけてこなせるようになったが、ヘミング社長の接客はシルヴィアの大事な役割、という暗黙のルールがある。社長はいつも怖い顔をしているが、シルヴィアにだけは笑顔で接するのだ。金子にはその理由がまだ分からなかった。
そうこうしているうちにヘミング社長が来店する時間が迫ってきた。学生以外の従業員達の間に緊張が走る。窓の向こうから上下ホワイトグレーのスーツを着こなしたグレーヘアの男が入り口に歩いて来るのが見える。男が入り口にたどり着く前にシルヴィアがドアを開けて迎え入れた。
「こんにちはミスター・ヘミング!今日は一段と素敵な装いですね。」
シルヴィアが楽しそうにヘミング社長にそうやって笑いかけると、ヘミング社長の険しい顔がパッと明るくなった。
「ありがとうシルヴィア。今日は数日遅い結婚記念日の食事をするのでね。着替える暇が無いから今朝からこの服を着てるのさ。」
嬉しそうに両手を広げてヘミング社長が言う。
「まぁ!お忙しくて大変ですね。でも用意周到なのがミスター・ヘミングらしいです!奥様はきっと喜ばれますよ。」
シルヴィアは他人のめでたい話でも、まるで自分のことの様に喜んでハッピーな感情を大げさに開放する人だ。わざとらしく見えない明るさで、シルヴィアのファンが大勢できる。彼女には人を惹き付ける魅力があるのだ。
その後社長は軽食を済ませて直ぐに店を出た。滞在時間は20分。午後2時に近付くに連れ、満席だった店内が数えるほどの人数しかいない。この時間からが金子の休憩時間だ。ショーケースから気になっていた秋の新作、梨のタルトを一切れ、オペラも一つ選んで取り出した。飲み物はいつもホットの紅茶。種類はこだわらないが、好んで飲むのはアールグレイかレディーグレイ。窓側の隅の席に腰掛け、陽を浴びる。ケーキがキラキラと輝いている。ケーキを10秒眺めてからフォークを刺す。小さなフォルムでありながら、その中には壮大で美しい光景と物語が詰まっている。金子はケーキを食べるたびにそう思えてならなかった。
そして紅茶を一口。ああ、ケーキを密やかに楽しむ一人の静かな時間の、なんと愛おしいことか。金子は一時間の休憩をケーキと紅茶を交互にじっくり味わいながら、落ち葉がアスファルトから舞い上がるのを観察するのだった。