夢
「年寄りの朝の強さ舐めたらあかんで、はじめ。おまえがこそこそ出ていくのなんか気づいとったわ。」
そう言うじいさんに続いて「せやで」とばあさんも玄関から姿を現した。
俺は「しまった」と思う一方で、こうなることを望んでいたかのように無意識にほっとしていた。
じいさんはサンダルをぺたぺたと鳴らしながら俺のほうに近づき、言った。
「はじめ、おまえの言う自分を顧みない強さは唯ちゃんに届いとったようやな。」
俺は唯にありがとうと言われたときも、こうしてじいさんに認められている今このときも、素直に喜べない気持ちがあることに気づいた。路地裏で鶏頭の胸ぐらをつかんでいたときのことが思い出される。
「だがよ、じいさん。一方で俺は、自分の弱さを実感した。鶏頭相手に強気になっている俺と、頭を下げるじいさんの姿を比較したとき、俺はすごくちっぽけに見えたんだ。」
「はじめ」とじいさんはまた優しく俺の名を呼ぶ。
「それはおまえが強くなった証拠なんと違うか?昨晩おまえと話したよな。強さにもいろんな形があるんやないかって。それに気づいて苦悩できてるってだけで、おまえは成長してて、おまえはひとよりも少し強いのかもしれんで。」
……じいさんはきっと俺に甘いんだ。俺に息子の影を見ているから、だからこんなにやさしいのだろう。だけどそんなことはあえて口には出すまいと思ったが、そんな俺の考えを読み取ったのかのように、じいさんはこう続けた。
「こんなこと言うのは、おまえがはじめに――息子に似てるからやない。」
そう言うとじいさんは頭を下げた。
「気を遣わせてすまなんだ。」
ばあさんもじいさんと並んで頭を下げている。
「昨日気づかされた。確かにわしはおまえに息子の影を見とった。せやけどおまえと暮らすうちに、そんなん関係なく家族としておまえを大事に思っとったことに、わしは気づいたんや。」
ああ、そうか。
「おまえさえよければ、わしらと一緒にいてほしいんや。」
俺が出ていくことも、俺が出ていく理由もお見通しだったわけだ。
敵わないな。だから俺は弱いんだ。
「顔を上げてくれよ、ふたりとも。」
じいさんとばあさんは、泣きながら笑う俺のくしゃくしゃの顔を見て、釣られて泣いて笑った。
「ウチとじいさんに子どもがおらへんかったから、あんたがほんまの子どもになったみたいで、ウチは毎日楽しいで。だから余計な気なんか遣わんでええねんから。」
ばあさんもやさしくそう声をかけてくれた。
三人でそんな和やかな空気を共有していると、背後から視線を感じた。
はっとして振り返ると、そこには蚊帳の外に置かれてむすっとして――などおらず、俺たちの誰よりも顔をくしゃくしゃにしながら涙を流している唯がいた。
「なんかようわからんけどよかったなあ、はじめえ。」
俺たちは思わず破顔した。時間としてはまだまだ早いが、こうしているといつものたこやき屋での出来事みたいだ。
「せっかくのかわいい顔が鼻水で崩れてまうで」とハンカチで唯の顔をばあさんがぬぐっていると、ひとりの男が俺たちの前で立ち止まった。
こんな朝から来客が多いななどと考えていると、男は唯に向かって口を開いた。
「朝はよから出かけるなおもてたら、やっと見つけたで唯。」
優しい口調でそう言った男に対して唯は「お父さん!?」と叫んだ。
驚く俺をよそに唯は続ける。
「なんでついてきてるんよ。」
「いや、こんな朝はよから出かけてたらそら気になるやろ。」
「こ、ここのたこやき好きやから、食べに来ただけやし!」
唯の苦しい言い訳を前に、その場にいる全員が黙ってしまった。まだ開店すらしていないのは、たった今来た唯の父親にもバレバレである。
「唯、朝っぱらから迷惑かけたらあかんや――」
そう言いかけて、俺と目が合った。
なんだ?どこかで俺たちは出会ったことがあるのだろうか。俺は唯の父親の顔に見覚えがあった。向こうも同じことを考えているのだろうかと思ったが、すぐにそれが思い違いであることに気づいた。唯の父親が見ていたのは俺ではなく、俺のうしろにいるじいさんだった。
見るとじいさんも固まっていた。
「お、おまえは――」
じいさんは、ふり絞ってそれだけ言うのがやっとだった。
唯の父親はやさしく微笑んで、唯の頭にポンと手を置いた。
「なあ唯。この人の作るたこやき、めっちゃうまいやろ。」
唯は驚きながらも、嬉しそうに「うん!なんでお父さんも知ってるん!?」と言った。
「一番の大好物やからな。」
にかっと笑って言った唯の父親の表情と、それを聞いたじいさんの表情を見て俺は気づいた。
ああ、そういうことか。
「わからねえもんだな、じいさん。」
俺は笑ってじいさんにそう言った。
俺はここにきて、自分の――ひとの弱さを知った。俺はここにきて、自分の――ひとの強さを知った。
俺は少しは強くはなれただろうか。
大阪での俺の暮らしは、短いような長いような夢のようなひとときだった。




