一番に
じいさんは長い旅をしていたかのように、ふうと大きく息を漏らした。
話しているときもずっとじいさんは俺のほうを見ていたが、俺の向こうに何かを見ているようだった。そしてその何かを懐かしむようなじいさんの顔はなぜか別人のように見えたので、思わず俺は慌てて「おかえり」とじいさんに声をかけた。
するとじいさんははっとしたように、俺を見て言った。
「なんや、わしの話が長かった嫌味かそれは?」
そう茶化すじいさんの顔は、いつものそれに戻っていた。
「なんか、聞きたいこととかあるか?」
少し間を取って言ったその言葉は、今のじいさんの過去を聞いて、ということだろう。
俺は疑問に思っていたことを思い切って聞くことにしてみた。
「ああ、じいさん。ひとつ聞かせてくれ。」
「あんたバツイチだったのかよ。」
それを聞いて拍子抜けしたようにじいさんは「そこかい。」と噴き出した。
「いや、はじめにばあさんを紹介してくれたときによ、二人三脚で40年もの間このたこやき屋を経営してきたって言ってたから。まさか再婚とは。」
実際俺が驚いたのは本当だ。
「わしらの馴れ初め掘り下げてもおもろないやろ。」
あからさまに俺から目線を逸らしてじいさんは言った。
「このたこやき屋は元々ばあさんの親父さんの店でな。えらい繁盛しとったらしいんやが、ある日病気で倒れはったみたいでな。突然ばあさんが店を継ぐことになったんや。」
言葉とは裏腹にじいさんはノリノリで話し始めた。
「見ての通りばあさんはエネルギッシュやろ?せやから店継ぐってなったとき店名も自分の名前に変えるくらい気合い入れて始めたみたいなんやけどな、これがまあたこやき作るの下手でな。お客も減ってきてどないしよ思てたときにわしと出会うたんや。」
俺は赤べこさながら首を縦に振り続ける機械と化した。
「ばあさんとおると心が晴れてくるのがわかった。フラフラしとったわしに居場所ができたんや。」
照れくさそうにじいさんは言った。
「せやけどな、それでもわしは千紗やはじめのことを忘れたことはあらへんかった。考えへん日はあらへんかった。」
じいさんの顔からまた笑みが消えた。
「わしがあんな強引な手段を取らへんかったら、家族がバラバラになることはなかったんやないかって何度も悔やんだ。」
「もっと強い人やと思ってたって言うた千紗の言葉が何度も思い出された。」
「あんなことでほんまにはじめを救えたんやろかって、何度も不安になったんや。」
じいさんの瞳は、再び俺の向こうを見るようになった。
「せやから、わしはこうやって毎日たこやきを作りながら心の端っこで思ってたんや。いつかふらっとはじめが昔みたいに食べにくるんやないかって。そんな情けへんくて女々しい気持ちを心の表には出さへんように、ずっと生きてきた。」
「せやけどわしは、おまえに出会った。」
「心底美味そうにたこやきを食うおまえの姿に、はじめを重ねた。はじめが帰ってきたんやって、そのとき思ってしもうた。せやから名前のないおまえに思わず息子の名前をつけたりなんかしてしもうて、気色の悪いことをしたと思うてる。ほんまにすまん。」
「せやけど、だからこそわしはおまえがきてからーー。」
「違うだろ、じいさん。」
俺は思わずじいさんの言葉を遮ってしまった。
「じいさんそれは嘘だ。」
だって、そう言うじいさんはやっぱりまだ俺のことを見ていなかったからーーまだ俺の向こうにだれかを見ていたから。
「あんたは俺を、息子の代わりとして見ようとしているだけだ。」
ばつの悪そうにしているじいさんを見て、俺は何も知らずに彼らと暮らしていたことを恥じた。
「悪いじいさん。俺がここに来たことで、気づかねえうちにあんたの心を縛っちまってたのかもしれねえ。」
じいさんは黙ってしまった。俺の言葉に対して、「Yes」とも「No」とも答えなかった。
ハァーっと大きく息を吐いて、座り方を崩して俺は言った。
「いいか、じいさん。今から俺が言うことはあんたの息子のはじめの言葉じゃねえ。四天王最弱の男はじめの言葉だ。それを踏まえて心して聞きな。」
「あんたの話を聞いて思ったが、今のじいさんも俺に強さを説けるほど強くはねえんじゃねえか?」
黙るじいさんに俺は話し続けた。
「自分のことを棚に上げるようなことを言うけどよ、だれかの怒りや悲しみを代弁することはきっとすげえ勇気のいることなんだよ。被害の矛先が自分に向くかもしれねえんだからよ。」
「だからあんたが息子のためにやったことは決して弱いやつができることじゃねえはずなんだよ。ましてや自分の仕事や家族を失うリスクまで背負ってんだ。だれにでもできることじゃあねえ。」
「そりゃあ、見る人によっちゃ職も家族も捨てるなんて無責任だって思われるかもしれねえけどよ。じいさんの場合、一番大事なのは、一番見なきゃいけねえのは息子の気持ちだろう。」
「はじめは怖くて何もできずに、怒りや悲しみの気持ちを押し殺してたかもしれねえ。けどそれを父親が全部背負ってくれたんだぜ。だから、もしかしたらはじめはさーー」
「父さん強いな、って思ったかもな。」
じいさんは黙ったままだったが、目の辺りを右手で覆って、肩を揺らしていた。
「ごめん……ありがとうな、はじめ。」
じいさんはその言葉を俺に言ったのだろうか。俺の向こうに見るはじめに言ったのだろうか。どちらにせよーー
「その言葉は、息子さんがたこやき食いにくるときまで取っとけよ。」
俺は少し気取って言ってみせた。
「それによ、今のあんたには俺なんかよりばあさんがいるじゃねえか。俺みたいな放浪人に息子の影なんか見てねえでーー」
「その通りやでほんまに!」
言いかけたところでばあさんが部屋に乱入してきた。
「げっ、ばあさん!?」
じいさんが鼻水を延ばしながら顔を上げた。
「なんやのさっきからはじめはじめって。40年も一緒におったウチは蚊帳の外かいな!」
そう言うとばあさんはテーブルをバンと叩いた。俺とじいさんは思わず悲鳴を上げたが、よく見ると叩いたのではなく、何かを置いたようだった。
「シラフでそんな話してるからしんみりするんやろ?飲みながらパーッと言うたらええんよパーッと。」
ばあさんが持ってきたのは酒の瓶だった。
「ーーそんなん言うて、今日はじめがやったことも唯ちゃんが迷惑に思ってたら、やっぱりはじめもわしに強さを説くのは早かったちゅうわけやな。」
「だから、強さってのはそんな絶対的なものじゃないというか。だれかに認めてもらってナンボというかさーー」
「少なくともだれかさんみたいに自分で自分のこと強いとか言うてるうちは強いとは言えんのやろな。」
「びびってすぐ謝るようなやつには言われたくねえな!」
「なんやと!格下相手に威張り散らしとったやつが何言うとんねん!」
酒が入ったせいか、こんなくだらない議論を延々としていた。話しているうちに、結局強さとは何なのかわからなくなっていた。
ーーほかにもこんな話をした。
「わしは息子にな、だれかの一番になれるようにっちゅう意味を込めてはじめと名づけたんや。それはおまえも変わらん。ほんでな、はじめ。今のおまえは間違いなくまわしのーーいやわしらの一番やで。」
酒のせいかじいさんはそんな恥ずかしいことを恥ずかしげもなく言った。そのときのじいさんは確かに俺を見ていた。
すっかり酔って寝てしまったじいさんとばあさんを見て、俺は心から思った。
「俺はあんたたちの一番に、きっとなるよーー。」




