エピソードオブじいさん:別れ
学校環境におけるいじめ問題は今でも後を絶たない。さらにそれを解決する術も確立されてはいない。
しかし当時はーーはじめが泣いていたあのときはーー今以上に、だった。
そもそもいじめというものが、世間に認知されていなかったのである。マスコミが取り上げることも多くはなく、学校現場においても取り沙汰されることは少なかった。
するとどうなるか。
教師が目を瞑っていたのだ。
現在でもそういった事例は少なくはないかもしれないが、当時はさもそれが当たり前であるかのように、児童・生徒のいじめ問題が表に出ることはなかった。
佐倉源治はそれを知っていた。
はじめがいじめられていることを、学校に訴えても彼らが真面目に取り合ってくれないことを。
はじめの父はそれを知っていた。
はじめがいじめられていることを、学校に訴えても彼らが真面目に取り合ってくれないことを、マスコミにリークしても彼らが記事に取り上げてくれないことを。
彼は知っていた。
息子の涙を、家族の怒りを世界に認めてすらもらえないことを。
だから男は手段を選ばなかった。
だから男は自らの手を汚すことを選んだ。
もし仮に、源治がサッカー部の顧問の教師を殴ったことを、学校側が問題視したとする。それがマスコミ取り上げられたり、果ては刑事問題に発展したりしたとする。そのとき必ずついてくるのは、はじめのいじめ問題である。
いじめ問題を積極的に取り上げないマスコミであっても、ひとりの親が教師を殴ったというスパイスが追加されたとあれば、態度を変えるかもしれない。
つまり教師が殴られたことで、源治を悪者であると世間に公表することは、学校側にとってもいじめ問題を公表することに繋がり、ひいては自校の悪評を広めることと同義となるのである。
自校の面子を保つために、ここで学校側がすることは、事を穏便に済ませるということになる。
「源治さん、あなたの暴力沙汰は不問にします。そして息子さんを転校させて、問題の生徒と教師に処分を与えます。その代わり、あなたはこのことを黙っててくださいね。」
これが校長が、異常なまでに迅速な対応を取った理由である。
いじめ問題に向き合わない教師の、学校の意識を無理やりこちらに向けさせる。そして息子の転校を認めさせる。
これが源治が強硬手段に出た理由である。
しかしこの事件に、そのような背景があったことなど、だれも知らない。
残るのは、父親が教師を殴ったせいでその息子が転校させられたという事実だけ。
メディアなどを通して、源治は悪者扱いされることはなかったが、噂の上では、癇癪を起こして暴力を振るう危険な男となってしまったのだ。
後にそうなるのが、源治にはわかっていたから、彼はあらかじめ勤めている会社に辞職を申し出たのだ。
後にそうなるのが、源治にはわかっていたから、事件があったその日のうちに、家族に打ち明けたのだ。
「いやぁ、すまん。学校に話しに行ってんけどな、むかついて先生おもくそどついてもうたわ。」
源治は努めて、明るく振舞った。
「ほんでそのせいでな、会社もクビになってもうてなあ。」
はじめの朝食の準備をしていたときに、源治は帰ってきた。「仕事に行ってたはずじゃ……」と千紗の思考は追いついていない。
「それとな、はじめ。そのせいでおまえも転校させられることになってもうたから、今日からもう行かんでええど。」
はじめは、朝食の食パンを口に運べないままだった。手の中で、だんだん冷めていくのがわかる。
「もっと……」
千紗だった。振り絞るようにそう言ったのは、千紗だった。
「もっと、強いひとやと思ってた。」
「はじめのことを守ってくれるって、信じてた。」
源治の顔からは、さっきまでの貼り付けたような笑顔は消えていた。
「なら、おまえならどうするねん。」そんなことは源治は微塵も思わなかった。
千紗は心の優しい人なのだ。なによりも暴力をきらうような、心の綺麗な人なのだ。源治が愛した女性とは、そういう人なのだ。
千紗は、夫に対する失望と、自分に対する無力感から、静かに泣いた。
自分のことを心から信頼してくれていた、愛する妻のそんな様子を見て、覚悟を新たに、源治は向かい合うようにして立っていた千紗を横切った。
千紗の頭を優しく撫でることもなく、優しく抱きしめてあげることもなく、優しい言葉をかけてあげることもなかった。源治は心を鬼にして、千紗の横を通り過ぎた。
ちょうどすれ違う瞬間、静かに、しかし確かに源治は聞いた。
「さようならーー。」
振り返りたくなる気持ちを押し殺して、源治は歩き続けた。
いつも歩いているリビングに違いないのだが、どうにも広く長く感じる。
そして辿り着いた。椅子の上で固まるはじめのところに。
源治は、はじめの肩に手をポンと置いて言った。
その言葉を聞いて、はじめも静かに涙を流した。その表情はあまりにも複雑だったが、悲しみの感情があることは確かだった。源治のその言葉には、子どものはじめにもわかるような、別れを思わせるものがあった。
「はじめ、元気でなーー。」




