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エピソードオブじいさん:崩壊の兆し

「なんでもない」と言って自室の扉を閉めようとしたはじめの手を、母親の千紗は掴んで言った。


「なんでそんなボロボロなん……はじめ。」


千紗の言う通り、はじめの学生服は咳き込みたくなるくらい土を被っており、ところどころ破れてもいた。また玄関のほうに目をやると、はじめが脱いだ靴は泥に塗れていた。


「ちょっと、こけてもうてん。」


母親のほうに顔を向けないまま、はじめはそれだけ言った。


頑としてこちらに顔を見せないはじめを不審に思った千紗は、はじめの両肩を掴んで、自分と向かい合わせになるようにした。


すると一瞬だけはじめと目が合った。


それは刹那の出来事であったが、そのときのはじめの表情は、千紗にとって一生忘れられないものとなった。


怒りや悲しみといった負の感情をないまぜにしたような、そんな顔を、愛する大切な息子が見せたのだ。


そしてその顔には、ひどいアザのようなものがいくつか確認できた。


「しまった」と思ったはじめは、すぐに母親から顔を逸らした。


千紗は言葉が出ない。はじめて自分にこんな顔を見せた息子に、何と声をかければよいのかわからない。


はじめも何も言えなかった。ただ母親と顔を合わせることだけはできなくて、ずっと下を向き続けた。


時間にして一分にも満たない沈黙が続いたが、その場にいる二人にとっては永遠のように感じられる時間だった。


つまり千紗にとっては、はじめのその傷が転んでできたものではないと察せられたということであり、またはじめにとっては、それが転んでできた傷であると言い張ることができないとわかったということである。


キッチンからは、千紗が作りかけていた料理の良い香りがする。その香りは、開け放しにされたリビングの扉を超えて、玄関を少し進んだところにあるはじめの部屋の前に佇む二人を、残酷なほど優しく撫でた。そしてそれは玄関のほうまで漂って、下駄箱の上に飾られた家族写真の前で、宙に舞って静かに消えた。


そのとき、床にはひとつの滴が零れた。

はじめの頬を伝って、落ちた。


「お母さん、ごめんーー。」

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