それでも、勇者は勇者であった。2
勇者が魔王を倒してから40年の歳月が流れた。
彼は各地を周り続けた。
各地の青年に、少年に、武術を教え続けた。
最前線から引いた彼の姿は元の姿を思い返すことが難しいと思わせる程衰えていた。
黒いローブから覗く、真っ白な髪と子供に武術を教えるそのしわしわになった手のひら、すっかり細くなってしまった腕からは、
最前線で剣を手に魔物の血を浴び続けた、あの頃の姿を思い返すことは最早できなかった。
彼が魔物を殺す機会はほとんどなくなったと言っていいほど少なくなった。
殺ったとしても小物ばかりで、今まで彼が殺してきたものと比べれば、小動物と表現したとしても過言ではないと言えるほどだった。
もうあの戦場に戻ることはできないということを彼が一番良く理解していた。
防衛手段を持つことの意味は、何も魔物に対抗することだけではなかった。
各地の村の生活には、余裕が生まれた。
それぞれの村の間での物々交換は彼が訪れる村の数が増えるほど活発化していった。
彼は彼の鍛え上げた筋肉と引き換えに、渡り歩く村々から様々な知識を手に入れた。
彼は防衛手段を教える交換条件として知識を教えることを強要した。
しかし、誰もがそれが対等な立場に立つために言っていることだと理解していた。
彼らは喜んで、自分が持つ全ての知識を披露した。
そんな彼のことを人々は「聖人」と呼んで尊敬の眼差しを向けた。
彼を蔑む者はもうどこにもいなかった。
彼の耳には、その子供の笑い声が聞こえた。
彼は前線から離れ過ぎた。
もうあの頃のような強い魔物を相手にすることも出来なくなってしまった。
それでも彼は勇者であった。
勇者が魔王を倒してから50年の歳月が流れた。
彼は王都から離れた村にはあらかた教え回ってしまった。
彼には次にするべき行動がわからなかった。
彼はあてもなくぶらぶらと街々を渡っていった。
どの街も今まで以上に活気づいて、子供達は楽しそうに友達と遊び回っていた。
彼の功績だ。
新しい野菜や新鮮が村々から流れて来るようになって、食料が値下がりし、新しい雇用が生まれた。
彼はどの街でも歓迎された。
「ゼタ・バルセリア」という彼の名前を知らぬ者はいなかった。
彼は、一つの街へと足を運んだ。
彼が30年間戦い続けた、あの街である。
あの頃と違って、道はきれいに舗装され、随分安全に向かえるようになっていた。
街の入口には、昔教えを請いに来たことのある、あの頃と比べて随分大人らしくなった青年が門番をしていた。
青年…と呼べるかどうかも怪しくなってしまったが、少なくとも彼にとっては紛れもなく青年であった。
青年は外部からの入って来る人の身分調査をしているようだった。
「次。」
少し不機嫌そうにそう言う青年の目は、しっかりと彼を捕らえていたが、彼をあの英雄だと気づいている様子ではなかった。
無理もない。
深くローブをかぶっていて、顔は分からないものの
彼の骨がむき出しになったような指と、木の枝のような腕。
あの頃の彼を知っていればいるほど、気づくことはできないだろう。
彼は慣れた手つきで、純白のギルドカードを提示した。
引退する時に返そうとしたギルドカードであったが、当時のギルドマスターが押し返してきた。
彼なりの感謝の気持ちだったのかも知れない。
身分を簡単に提示できると言うことは大きい。
ありがたく受け取ってから使い続けている。
提示されたギルドカードを見た青年は、打ち上げられた魚のように口を開いたり閉じたりを数秒間繰り返した後、脱兎の如く街の中に向かって走っていった。
英雄が帰ってきたぞ、と叫びながら。
暫くして、彼は街の中に案内された。
彼を歓迎しようと街の人々は大きな広場に集まっていた。彼らの中で彼が本当に英雄かどうか疑うものはいなかった。誰もが彼を英雄だと一目で理解した。
姿が変わっても確信が出来た。
街の人々は彼に山ほどの言いたいことや、質問があった。
それでも、長旅で彼が疲れているだろうと、明日にまた集まることにして、彼を宿屋に送った。
最上級の宿屋に。
彼が目を覚ましたのは、いつもより大分遅い時間だった。彼らが言ったように移動の疲れが出ていたのかも知れない。
彼はベッドからゆっくりと足をおろした。
いつも感じる痛みは不思議と感じなかった。
やはり高級宿屋だけあって寝床も素晴らしかった。
それがよかったのかも知れない。
彼は備えてある食事場所に降りて、軽めの朝食…と言ってもスープだけを口にして、急いで身仕度に取りかかった。
どんな時も連れて回った愛剣を腰にぶら下げ、黒いローブを深く被った。
彼が昨日の広場に顔を見せた時には、もうたくさんの人が集まっていた。
しかし、その中には彼が世話をしたような、前線で戦う冒険者はいなかった。
最近は魔物の動きが活発化していると聞く。
…恐らくは新たな魔王の出現だ。
それの警戒にあたっているのだろう。
彼が健康そうな若者に手を引かれ、用意された席につこうとした、そのときだった。
昨日門兵をしていた青年が走り込んできた。
顔面を真っ青にしながら発した言葉は集まっていた人々をおおいに恐怖させた。
「魔物の大群が押し寄せて来た!」と。