パーシバル・トゥーン -1-
その男には記憶がなかった。彼が目を覚ましたとき、そこは古びた、ほとんど物置といってもいいような小屋の中だった。黒っぽい木の床や壁には所々傷がついており、建物が耐えてきた年月を感じさせた。
室内にあるのは粗末な寝台とかまど、テーブルとその上に置かれた食物。これらがあるおかげで、ここが辛うじて住居と知れるような具合だった。男はその粗末な寝台の上に、自らの身を横たえていたのだった。
男はまず自分の身体を確かめた。擦り傷や痣の類はあったが、大きな怪我はしていない。しかし昔のことが思い出せないという事実を鑑みるに、頭を打っている可能性はある。衣服は丈の合わない、ぼろぼろのものが着せられていた。おそらく自分はどこかで行き倒れて、この住居の主に保護されたのだろう。
そこまで考えてから、男はのどの渇きを覚えた。自分はどれくらい眠っていたのだろうか。室内を見回すとテーブルの上に水差しが置いてあったので、男は木のコップに水を注ぎ、のどを潤した。
胃に水が入ると、男は自分が空腹であることにも気がついた。テーブルの上には固そうなパンと、豆の入ったスープが置かれていた。これはおそらく自分のために用意されたものだろう、と男は都合よく解釈して、ありがたく頂くことにした。もし違ったならば、謝ればいい。
腹を満たした男はいったん寝台に腰かけたが、誰かが帰ってくる様子もなかったので、小屋の外へ出てみることにした。住人は近くにいるのだろうか。きしむ扉を開く。どうやら日暮れの近い時間帯であるようだった。
屋外に出ると、緑の匂いが男の鼻腔に届いた。あたりを見回すと、どうやらそこは農村であるように思えた。少し遠くに水車や、教会らしき建物も見えた。
それ以外の場所には、先程食べたパンのもとになったのであろう、穀物の畑が広がっていた。色や実り具合からして、収穫はもう少し先であるようだ。暖かい風が吹いて、麦穂がざわめいた。誰かが誰かに呼びかける声が遠くから聞こえた。
集落にはいくつかの住居が点在していた。どれも先ほどまでいた小屋と似たり寄ったりで、ほとんどが木造の粗末なものだった。少なくとも裕福な村ではないようだ。
男が小屋の前で立ちすくんでいると、畑で立ち働いていた農夫の一人がこちらに気づき、近寄ってきた。老いた農夫は何事か声をかけてきたが、その言葉は男にとってまったく馴染みのないものだった。どうやら敵意はない、ということが辛うじて分かるのみである。
男は困惑した。おそらくこの村の住人と自分とでは、話す言語が違うのだ。そうだとすると、どうやって今の状態を、記憶がないという困窮を、目前の人物に伝えたらよいのだろうか。
いくつかの試みのあと、老爺も言葉が通じないことを理解したようだった。それでも彼は柔和な表情で、男を小屋の中に招いた。
老爺は椅子に座り、身振り手振りで男を見つけたときの状況を説明してくれた。どうやら男が川岸に打ち上げられていたところを、老爺が偶然通りがかった、ということらしい。それから村の人間と協力して村へと運び、小屋の中に寝かせたのだという。
男は老爺の行動に対して自分なりに感謝を伝えようとしたが、言葉が分からない状態で、それが十分伝わったかどうかは疑問だった。
しばらくすると、小屋に老婆が入ってきた。彼女はどうやら老爺の妻であるらしい。老婆は男を見ると顔をほころばせ、回復を喜ぶようなそぶりを見せたあと、いそいそと食事の準備を始めた。
男がその様子を見ていると、老爺が再び話しかけてきた。彼は自分の胸を指差して言った。
「テオ」
どうやら、それが老爺の名前であるようだ。
「アルバ」
老爺は老婆を指し示して言った。彼女の名前はアルバ。それから老爺は男の肩に手を置いた。
「パーシバル・トゥーン」
男がその言葉を繰り返すと、老爺はにっこりと笑い、もう一度男の名を呼んだ。パーシバル・トゥーン。老爺がどうやって知ったのかは分からないが、これが自分の名前らしい、と男は理解した。
◇
パーシバルはひとまず老夫婦と一緒に暮らすことにした。農村での生活は貧しかったが、それなりに平穏で安定したものだった。パーシバルは老夫婦と一緒に畑の世話をし、二人では難しかった力仕事を手伝った。パーシバルの記憶がすぐに戻ることはなかったし、素性が明らかになることもなかったが、老夫婦は別段それを気にした風もなかった。
村はそれほど大きいものではなく、住民はせいぜい百人ぐらいだった。麦と家畜でほとんど自給自足の生活を送り、ときおり村に来る商人と取引をして、村で生産できない品を購入したり、現金を得たりしていた。
この単調な生活は、ほとんど会話なしでも成り立つものだったが、パーシバルはどうにかして村人と話し、言葉を覚えておこうと考えた。
得体の知れない男が来たということは、すぐ村中に広まった。ある日村の子供たちがパーシバルのもとを訪れ、彼を取り囲んで無遠慮に何事かをはやし立てた。その際、子供たちが必ず口にする言葉があった。
お前は誰だ。パーシバルには子供たちがそう言っているように思えた。そこでパーシバルは自ら名乗り、子供たちが口にした言葉を繰り返した。すると子供たちも口々に名前を言った。『お前は誰だ』。パーシバルがこの村で初めて覚えた言葉だった。
パーシバルは次に、日常のあらゆるものに対して『お前は誰だ』と人に聞いて回った。ある人は苦笑しながらその名称を教えてくれ、ある人はパーシバルの言葉を訂正した。パーシバルはその言葉をしっかりと記憶に留めた。ものの名前を尋ね、それを知ることさえできれば、単語を繋ぎ合わせて会話をすることができる。
そこから、パーシバルは多くの言葉を覚えた。老夫婦はあまりよく喋る人間ではなかったので、畑仕事を終えたパーシバルは進んで他の村人を手伝い、子供たちと遊んだ。半年もすると、パーシバルはそれほど苦労なく村人と話せるようになっていた。
「ずっと聞こうと思っていたんですが」
ある寒い晩、パーシバルは暖炉にあたりながらテオに尋ねた。
「私はどうしてパーシバル・トゥーンと呼ばれているんですか」
老爺は少し思い出すようなそぶりをしてから答えた。
「お前が気を失っている間に、名乗っていたんだよ」
それはパーシバルが初めて聞く話だった。
「本当の名前かどうかはわからないが、儂はそれがお前の名前だと思ったんだ」
ただ正直なところ、この半年間パーシバル・トゥーンと呼ばれ続けていたので、男はこの名前にすっかり馴染んでいた。だからそれが本当の名前かどうかは、あまり大きな問題ではなかった。
しかし自分が寝言のように名乗っていた、というだけでは、あまり記憶を取り戻す助けにはなりそうもない。他に何か言っていなかったか、とパーシバルはテオに尋ねたが、それ以上意味のある答えは得られなかった。
「この村で半年過ごしましたが、記憶はほとんど戻りません。ずっと世話をしてもらっていいんでしょうか」
パーシバルが別の心配を口にすると、テオは穏やかに笑って言った。
「そんなことは気にするな、トゥーン。好きなだけここにいなさい。村人もお前のことを好いている。どこか帰る場所を思い出すまで、儂らの家族でいるといい」
これはまた別のときに夫婦から聞いた話だが、老夫婦にはかつて息子が二人いたらしい。しかし一人は幼いころに病で死に、もう一人も怪我で死んでしまった。アルバはどうやらパーシバルのことを、失くした息子に重ねているようだった。もし息子たちが生きていたら、パーシバルと同じくらいの年齢か、もう少し上だっただろう、とアルバは言った。
村には家屋や共同の粉挽き小屋のほか、小さな石造りの教会が一つあった。そこにいる聖職者もまた畑を耕して暮らしていたが、村人は彼を司祭様と呼び、人が死んだとき、赤子が生まれたとき、大きな困りごとがあったとき相談に行って頼りにした。
彼はパーシバルと同じくらいの年齢だったが、村一番の知識人でもあり、子供たちの教師でもあった。パーシバルもまた彼のもとへ足しげく通い、言葉やそのほかの知識を学んだ。
教会のシンボルは二重の輪だった。それが建物の壁と、屋内の高いところに一つずつ刻まれていた。
「司祭様。これは何を意味するんですか」
あるときパーシバルは尋ねた。
「興味がありますか、パーシバル・トゥーン。これは太陽です。我々の世界を来訪し、恵みをもたらし、また去り行くものです。太陽が沈んだあとも、それがまたやってきて、変わらぬ恵みをもたらしてくれるよう、我々は祈るのです」
司祭は続けた。
「あなたもまた来訪する者です。パーシバル・トゥーン。テオとアルバはあなたが来てから笑顔を見せることが多くなりました。あなたは村に歓迎されています。頭が良くて考えも柔軟なので、私も教えがいがあります」
「私が来訪者ならば、いつかどこかに去り行くのでしょうか」
「あるいはそうかもしれません。もしそうなったときは、あなたに太陽の導きがあるよう、私は祈りましょう」