最果ての地へ -終-
蘇生して跳ね起きたパーシバルの様子を、漁の仲間たちは心配そうに見つめた。ともかく身体を温めようと毛布が用意され、パーシバルは船室に押し込められた。しかし彼は一刻も早くロマのところへ帰りたかった。再び海に入って、陸に泳いで行ってもいいとさえ思った。
とにかく一旦漁は中止され、船は港に戻った。陸に降り立つと、パーシバルは仲間の制止も聞かずロマの家に走った。ドアを開き、転がるようにして家に入る。
「思い出した」
そのときのロマは相変わらず、机に向かって何かを書いていた。
「そうか」
とだけ彼は言った。
「僕の名前はパーシバル・トゥーンじゃない」
「そうか」
「羽柴徹だ。僕は南極で死んだはずだった」
「そうか」
「帰らないと。家族が心配してる。優一はまだ中学生なんだ」
「ひとまず落ち着きなさい。ハシバ・トオルよ」
ロマはハシバを座らせ、熱い湯を差し出した。それを飲むと、ハシバの興奮は幾分か落ち着いた。しかしその口は止まらず、自身が思い出したことを次々と話した。自分が生まれたのはここと全く違う世界であること、妻と息子がいること、地質学者として南極に行き、そこでクレヴァスに落ちたこと。
「帰らないと。……けど、どうやって?」
ハシバは壁に突き当たった思いだった。長年その片鱗さえ掴めなかったもとの記憶が、この最果てに来てから戻ったのだ。旅の行程は間違いでなかった。
しかしこれからはどうすればよいのだろう。別の世界に行く方法など、いくら頭をひねったところで思いつくはずもなかった。
◆ ◆ ◆
私の心臓は跳ねた。
パーシバルのモデルが父であるならば、父や私の名前が出てくるのはそれほど不自然というわけではない。しかし死因についてはどう説明したらいい? 私の年齢については? 記憶を取り戻した父の切迫した思いが、無関係の第三者に書けるのか? この手帳は、実際にロマという男が記した本ではないのか?
頭をひねったところで答えは出ないかもしれない。出たとして、私にどうすればいいのかもわからない。しかし、続きを読んでみるほかないだろう。手帳はあと数ページで終わろうとしていた。
◆ ◆ ◆
「一つ、伝説にまつわる話をしょう」
困惑する徹を落ち着かせるように、ロマは言った。
「ここより北では月を信仰の対象とし、さらに北では太陽を信仰する。しかしこの氷の大地には、ほとんど廃れた一柱の神がおわす」
徹はロマが何を言っているのか理解できなかったが、ひとまずは大人しく話を聞いていた。
「それは流離う神と呼ばれている。何を司るのかは分からない。資料はなく、ただ口伝のみで存在が伝えられている」
揺れる暖炉の火で照らされたロマの顔は、なるほど確かに魔術師然として、それを見るハシバの心を震わせた。
「かつてこの場所で記憶を取り戻した者の一部は、戻らず、留まらず、死ななかった者は、この町を離れて神の御許を目指した。南へ。本当の果てへ」
「そうすれば元の世界に戻れると?」
「分からない」
ロマはかぶりを振った。
「しかし、ここから南に向かった者は二度と戻らなかった」
ハシバはその事実を頭の中で反芻した。ここより南はさらに酷寒の地であり、明らかに人間が長く生きられる場所ではない。町を遠く離れれば、戻ることさえ困難を極める。常識で考えるならば、皆死んだのだろう。
しかし、自分がこの世界に来た経緯はどうだ。常識で考えられる出来事なのか。ハシバの理性を直感と期待が揺らした。
「なら僕はそこへ行かなくては」
決断より先に、ハシバの口から言葉が出た。
「もうずいぶん長く家を空けてしまった」
真偽は考えたところで分かるまい。ならば確かめてみるほかない。それはハシバが元の世界で信条としてきたことであった。考えても仕様のないことは確かめる。たとえそれが世界の果てに行くことだったとしても。
「ならば行くといい。来たりてまた去るのがお前の運命ならば」
ロマは言った。彼が何と声をかけたところで、もうハシバの気持ちは揺るがなかっただろう。
「大丈夫だ」
ハシバは言った。
「南極は初めてじゃない」
決断してから、ハシバの行動は早かった。彼は持っていたあらゆる財産を売り払い、最後の旅を準備した。雪上を走るソリ、それを引く数頭の大きな犬など、いくつかのものは町人から寄贈された。それは帰る見込みのない、無謀な旅に出る者への手向けだった。
ロマはハシバが出発する前に本を書きあげようとしたが、それは残念ながら間に合わなかった。よく晴れた明るい夜、パーシバル・トゥーンと呼ばれた男、ハシバ・トオルは南を目指して出発した。雪上に跡を残して去る彼の背中を、ロマは家の外に出て見送った。
彼もまた帰らないだろう。ロマは本を書きあげて、家の奥にある書庫へ納めた。
◆ ◆ ◆
「父さん」
私は閉じた手帳の背表紙を額に当て、そのまましばらく動くことができなかった。物語の真偽も手帳の来歴も知りようがなかった。
それでもなお父は南極に向かった。確かめるために向かったのだ。たった一人で。貧弱な装備で。目的地も分からないまま。
一方の私はどうだ。考えうる限りの装備とスタッフに守られて、まだ情けなくも怯えている。
涙が出るくらい恥ずかしかった。
同時に、今までの心配がまったく取るに足らないことのように思えた。
私は明後日まで家に滞在し、それから日本を発つ予定だった。しかし手帳を読んだ今、そんなにのんびりと過ごすことなど耐えられそうになかった。焦ったところで早く着けるわけでもないが、それでも私はいてもたってもいられなかった。
私は手帳をボストンバッグに仕舞い、それを持ってリビングに降りた。ちょうど母が買い物から帰ってきていた。
「どうしたの?」
ビニール袋を提げたままの母が、私の様子を見て驚いたような顔で言った。
「ごめん、もう行くよ」
「行くって、夕飯は」
「行かないと。あとで連絡する」
説明するのもまどろっこしかったし、そもそもどう説明すればいいのか分からない。私は母とすれ違うようにして玄関に向かい、靴を履いた。
「そう……。じゃあ、ペンギンの写真頼むわね。気を付けてね」
母は当然不思議そうにしたが、引き留めようとはしなかった。私は母の言葉を背に、家を飛び出した。
日は傾いていたが、午前からの雨は止んでいた。私はボストンバッグを抱えたまま、息が切れるのも構わず駅へと走った。
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