最果ての地へ -2-
ロマと呼ばれる老人の家は非常に古びた石造りで、まるで世界ができたのと同じくらい昔からそこにあるようにも見えた。屋根に積もった雪は固く凍りつき、軒にはびっしりと氷柱が生えていた。しかし家は近づいてみれば案外大きく、パーシバルは何か威圧されるような気持ちを覚えた。
ここが旅の終着点となり得るだろうか。もし記憶を取り戻したら、自分は何を求めることになるのだろうか。パーシバルの心中は達成感よりも不安が多くを占めていたが、それでも引き返すわけにはいかなかった。パーシバルはドアの前に立ち、厳粛な気持ちで三度ノックをした。
中で誰かが何かを言ったのが聞こえた。しかし内容は分からなかったので、パーシバルはそのまま小さくドアを開き、ゆっくりと中に入った。
暖炉の火で赤く照らされた室内の温度は高く、中には椅子に座り、膝に毛布を掛けた老爺が一人いるだけだった。顔に刻まれた皺は深く、年齢は八十を超えているだろうと思われた。
部屋にある調度は少ないが、机の上はやや雑然としていた。老人は机の上に置かれたインク壺と本を前にして、何事かを書き込んでいる最中だった。
「早く閉めてくれないか」
本に向かったままの老人にそう言われ、パーシバルは慌ててドアを閉めた。
「見慣れない顔だ」
そこで老人はようやく顔を上げ、パーシバルをまじまじと見た。
「あなたが魔術師だと聞いて、旅をしてきました」
パーシバルがそう答えると、老人は眉をひそめた。
「確かにそう呼ぶ者もいるが、私はロマだ。それ以上でも、それ以下でもない。……まあ、まずは座るといい。遠くから来たのだろう?」
ロマの勧めに従い、パーシバルは老人の正面に腰を下ろした。書きかけの本や筆記具、破られたページやビスケットの欠片などが机を埋めていた。それらもまた家屋と同様、ずっと昔からこの場所にあったように見えた。
パーシバルは老人に名乗り、長い旅の目的を語った。
「記憶か」
ロマはどこか遠い目をしてパーシバルの言葉を繰り返した。
「私がそれを取り戻すのは不可能だ」
彼は穏やかな表情で、しかしはっきりと告げた。
「なぜならば記憶は君自身のものだからだ。ほかならぬ君自身が思い出さなければならない」
「なら、どうすれば」
パーシバルは失望の表情を隠さずに言った。
「この場所での時間がそれを解決するだろう。焦らずに待ちなさい」
その言葉にパーシバルは納得できなかった。苦労して辿り着いたこの場所ならば、なんらかの解決策があると思っていたのに、できることが待つだけとは。
「そんな顔をするな」
パーシバルの表情を見て、ロマは言った。
「かつて君と同じような境遇の者が何人か来た。そして多くは記憶を取り戻し、ここを去っていった」
それを聞いてパーシバルは驚いた。自分の他にも、記憶を失ってこの最果てを目指した人間がいたのだ。
「だから焦らず待ちなさい」
「では、それまでここに置いてもらえますか」
ロマは頷いた。
「構わないとも。ただし一つ条件がある」
「何です?」
「君の物語を聞かせてくれ。この世界で目覚めてから、ここに辿り着くまでを」
◇
パーシバルはその日から、ロマの家で暮らした。しかし食い扶持は自分で稼がなければならなかったので、昼は町人の漁を手伝ったり、沿岸の海獣を狩ったりした。それら町で消費されるほか、加工されて現金収入を得る手段となった。
冬に向かって気温はますます下がり、労働は過酷だったが、パーシバルはその生活に厳粛さと素朴さを味わった。夜は暖炉の前で身体を温めながらロマと語り、過去十五年に渡る旅と、共に過ごした人々について語った。
パーシバルが語る間、ロマはときおり質問をした。それは単純な事実についてだったり、物事の詳細だったり、パーシバルの考えだったりした。
「そこまで細かく話す必要があるんですか」
あるとき、パーシバルは疑問を口にした。
「そうだ。はじめに言ったが、これはただの記録ではない。物語なのだ」
パーシバルには二つの違いがよくわからなかったが、自分のことを話すうち、非常に昔の出来事であっても、それらがごく最近起こったかのように思い出せることに気がついた。頭の中に詰まっていた記憶を読み返し、揃え、整え、分類したうえで、すっきりと本棚に収納していくような感覚だった。
ロマはパーシバルが語ったことを、逐一手元の紙に書きとめた。長く語ればそれだけ紙の束が増えた。老人はそれを日中にまとめ、一冊の本に写していった。
「私と同じような人間は、よくここに来るんですか」
またあるとき、パーシバルは尋ねた。
「おおよそ十年か、二十年に一度といったところだ」
「それほど多くはありませんね」
「もっと昔のことは分からないがね」
「昔?」
ロマはおもむろに立ち上がり、家の奥へと向かった。そこにはパーシバルが今まで入ったことのない部屋へのドアがあった。何の部屋かと聞いたこともなかった。ロマは手に持った鍵で錠を開き、パーシバルに入るよう促した。
部屋の中は真っ暗だったが、ランプで照らせば多くの本棚が見えた。そこには皮で装丁された沢山の本があった。大きいもの、小さいもの、分厚いもの、薄いもの、非常に古いもの、比較的新しいもの。パーシバルに正確な数は分からなかったが、二百か三百冊ほどもありそうだった。
この一つ一つが長い旅の記録であり、人生の物語なのだ、とパーシバルは理解した。それを考えると、あまりの壮大さ、神聖さに圧倒されるような気持ちになった。
一つを取って読みたい気もしたが、それは非礼な行為であるように思え、どうしてもできなかった。結局パーシバルは二、三の背表紙を撫でてみただけで、その部屋を出た。
部屋を離れたロマはまた椅子に座り、少し沈黙したあとに口を開いた。
「私もお前と同じだ。パーシバル・トゥーン。まだ若造だったころ、自分の記憶を探してここに辿り着いた」
「……あなたの記憶は戻ったんですか」
「戻ったとも。その詳細を語る気はないが、私はここに残ることを選んだ。そして先人がしていたことを、私もするようになった」
おそらくその前の人間も、誰かの仕事を引き継いだのだろう。そしてその前も、その前も。この場所は一体いつから、何のためにあるのか。それは完全にパーシバルの想像力を越えていた。
「あなたが最近会った人々は、いまどこに?」
パーシバルは尋ねずにいられなかった。
「ある者は北に戻り、ある者は村に留まり、ある者は既に死んだ」
ロマはパーシバルをまっすぐ見据えた。お前はどうするだろうか、と考えているような目線だった。しかしパーシバルには、自分の記憶が戻ったあとにどうするべきかがまだ分からなかった。
結局その日の話はそれまでになり、パーシバルは明日の労働に備えて眠りについた。
◇
パーシバルがこの町に来てから半年が経った。
その日のパーシバルは小さな漁船に乗り、海岸の近くで魚を捕っていた。この海域にいる魚は非常に大きく、網にかかると引き上げるのに力が必要だった。この魚からは卵が採れ、それを塩漬けにすると高く売れた。
パーシバルは漁に慣れ始めていた。それは余裕が出始める時期であり、また最も事故の起こりやすい時期でもあった。
網を引くパーシバルは、非常に強い手ごたえを感じた。腕と脚に力を込めたが、獲物の力はさらに強かった。網を離すのが一瞬遅れ、パーシバルは船の外に放りだされる形となった。
仲間が掴むのも間に合わず、パーシバルは海中に落ちた。真冬の海は氷と同じ冷たさで、浸かってしまえば泳ぐことさえ非常に困難だった。すぐに引き上げ、火で温めなければ死んでしまう。
落下はほとんど不意に起こったので、パーシバルには意識と身体の準備ができていなかった。彼の心臓は急な温度の変化で、まともに動かなくなった。血流が止まると、意識が急激に混濁し始めた。パーシバルは為す術もなく海流に翻弄された。
しかし幸運にも、パーシバルは死ななかった。誰かに腹を踏まれ、パーシバルは冷たい海水を吐いた。激しく叩かれた心臓は、再び鼓動を始めた。仲間の誰かが必死になって彼の身体を海から引き揚げたのだった。
砂漠で遭難した時と同じような目に遭ったからか、それともこの地で長く過ごしてきっかけを待つだけだったのか。それはパーシバル自身にも分からなかったが、とにかくそのときに劇的な変化が起こった。
パーシバルは全ての記憶を取り戻した。