ナニカ
ねぇ、『ナニカ』って知ってる?『ナニカ』は『ナニカ』だよ。
なんだかわからないから『ナニカ』なんだって。
『ナニカ』を見るとね……………。
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「うっ…おぇぅ…ぐぇ…かはっ!!」
俺は吐瀉物にまみれて目を覚ました。最悪だ。気分も状況も。見回すと自室のようだ。
「うぐっ…おぇ…!」
襲い来る吐き気に耐え兼ね、トイレに駆け込むも間に合わず、胃の内容物を撒き散らしながらなんとかトイレへ向かう。なんで俺は吐いているんだ。昨晩のことは全く覚えていない。トイレで吐きながら考えていると、インターフォンが鳴る。このクソ忙しい時に。無視を決めこもうとしたが、しつこくインターフォンがなる。軽く舌打ちをして、洗面所のタオルで顔を軽く拭って玄関へ向かう。服や髪は吐瀉物まみれだが、しつこく鳴らして来るような不躾な奴に会うのだからこの際構わない。
「誰?」
薄くドアを開き、不機嫌に応対する。ドアの外には男が2人立っていた。2人ともスーツ姿で、片方は30歳くらいの俺と同じくらいな男、もう片方は50近い壮年の男だった。男達は俺の吐瀉物の匂いと酷い様子に顔を一瞬顰めたが、すぐに元の表情に戻った。セールスの類ならもう帰っているはずだ。一体何なのだと考えいると、男達は胸元から何かを出して俺に見せる。警察手帳だった。
「お休みのところすいません、警察です。」
今迄犯した小さい犯罪や揉め事が頭を掠め、一瞬顔が強張るが、家まで来るような大ごとはないはずだった。厄介なるようなことはないはずだと思い直す。
「で、警察が何の用?」
「昨日ですね、事件がこのマンションで起きまして。ご気分を害さないように言っておきますが、形式上、マンションの住人の方には全員、昨晩何処で何をしていたのか聞いています。夜中の1時から4時ごろ何処で何をされてました?」
それは俺も聞きたいくらいなのだが、回らない頭で考える。どうにも思い出せない上に、吐き気がまた襲ってきた。
「吐き気が…酷くて…今…吐きそう…後に…」
「わ…分かりました。また後で伺いま…」
若い方の男がいい終わる前に俺はドアを閉め、トイレに向かう。
「うぉぇぇぇ。ごはっ!ごはっ!」
ようやく胃が空っぽになったのか、吐くのは収まった。まだ依然として胃のあたりから酸っぱいものがこみ上げて来るが、トイレからは何とか離れられそうだ。キッチンで水を胃に乱暴に流し込む。大きなため息をついて改めて部屋を見回した。部屋には先ほど撒き散らした吐瀉物と大量の酒の空き容器。大量の酒をかっ喰らったことは状況から容易に想像できる。俺は酒が好きだが、そこまでの呑んだくれではない。何で飲み始めたのか…昨晩のことを思い出そうとするのだが、思考が低下しているのか飲む前のことが思い出せない。なんで飲み始めたんだ?そういえば先ほどの警察が夜中、1時から4時ごろ何をしていたか聞いていたな。俺、酒飲んでたんだろうけど…突っ立っていたって思い出せないので、俺は部屋を片付けることにした。取りあえず、テレビをつける。昼のワイドショーが付く。しばらくしたらバイトに出なけりゃならない。そっか、バイト。昨日はバイトに行っていた。いつも通り上がっていたら、1時はちょうど帰宅するくらいの時間だ。家にいるか、バイクに乗っていたはず。
「っつーか深夜1時から4時なんて普通は家にいて寝てるっつーの!」
俺は1人で悪態をつきながら、ゴミ袋に酒の空き瓶を適当に突っ込む。テレビに見覚えのあるマンションが映し出される。ここだ。
【深夜未明、女性が殺害されました。被害者はーーー】
マンションの映像をバックに被害者の写真が映し出される。
「マジか…」
思わず声が出た。被害者として映し出さた女は俺と同じ階に住んでいる女だった。夜中、同じくらいに帰宅するので、何度も顔を合わせた。何度も顔を合わせるもんだから、向こうが勝手に
「いやらしい目で見て来るな」
などと言っていちゃもんをつけられたこともあった。ツレの男に殴られそうになったこともあったが、いつも違う男を連れていたことを暴露したら、勝手に喧嘩になったので殴られてはいない。しかし、つい先日もツッかかられて、売り言葉に買い言葉で
「お前の希望通り、いつかお前のこと、めちゃくちゃにしてやるからな!」
という捨て台詞を吐いたのだった。その女が………殺されていた。
ヤバイ。
咄嗟にそう思った。俺はきっと疑われている。いや、しかし、アイツはいろんな男を取っ替え引っ換えしていたビッチだ。俺だけが疑われているわけではない。そのはずだ。そう思っているとまたインターフォンが鳴る。先ほどの警察、壮年の方だった。
「もう大丈夫ですか?それで、先ほどの続き何ですけど。何をされてましたか?1時から4時の間。」
「家にいました。なんかあったんすか。」
記憶はないが、多分家にいて酒を飲んでいたはず。嘘は言っていない。でも、なんとなく事件のことは知らぬふりをした。
「テレビ見れば分かる範囲でしかお話しできませんけど、この階に住む女性が殺されました。家にいたことを証明できる方っています?」
「いません。」
「そうですか。ありがとうございます。あと、何か争う声とか聞こえませんでしたか?」
「いや、家に居ても夜中はヘッドフォン使ってるから。」
これも適当に答えた。記憶はイマイチだが、巻き込まれるよりかはマシだ。
「そうですか。マンション全戸の方にお願いしてるんですが、指紋とか下足跡も調べますので、ご協力願えませんか?昨日とか、最近履いていた靴を提出してもらいたいんですが。あぁ、あと顔写真も撮らせてください。」
警察は玄関に置いてある靴を見て言う。
「あぁ、いいっすーーー」
俺は靴を持ち上げた瞬間、血の気が引いた。靴底にはうっすらつく血の跡。
「あぁ。これは違った。昨日のはこれじゃねぇや。こっちだった。」
そう言って、俺は慌てて下駄箱から違う靴を引っ張り出す。
「ご協力ありがとうございます。ちょっと待ってくださいね?ーーーおい!」
壮年の警官はにこやかに返事をすると、同じ階にいると思われる他の人間に声をかける。作業着姿の警察がやってくる。
「案内頼むぞ。」
そう言って壮年の警官は行ってしまう。
「はい、じゃあ、こちらへ。」
「あ、外でやるんすか?」
「ええ、機械使いますので、外の車両内で行います。」
「ちっとシャワーだけ浴びてからでもいいすか。さすがにこれは。」
俺は吐瀉物まみれの髪を指差し言う。作業着の男は苦笑いしていう。
「自分はこの階で作業してますので、支度が出来たら靴を履いて出てきてください。」
そう言われたので、ドアを閉めた。
ーーーーどうしよう。俺の靴についた血は、もしかしてあの女のものなのだろうか。俺は血のついた靴を酒の空き容器が入ったゴミ袋に突っ込むとシャワーを浴びた。昨晩のことを必死に思い出しそうとするのだが、頭が痛くなり、俺はシャワーを浴びながら吐いた。中身なんてないので酷く酸っぱく、のどが焼けそうに痛かった。
シャワーを浴び、適当に着替えてから、外に出る。場所を確認する。エレベーターは真ん中にある。俺の部屋はエレベーターのすぐ左側、女の部屋は右に2部屋行った部屋だったはず。現場はちょうど部屋の前だったようだ。帰る時に事件があったなら、部屋に着く前に気がつくはずだし、何もなければそちらに行くことはない。なんで靴に血なんか…。考えると頭痛が酷くなる。吐き気を催す前にとりあえず、先ほどの作業着の男に声をかける。すると外に止めてある車に案内され、車内で顔写真と手の平の写真を両手とも撮られる。
「そのままこのパネルに片方づつ足を乗せてください。………はい。以上です。ご協力ありがとうございました。」
車内の作業員は事務的にそういうと俺を外に出した。部屋の吐瀉物の片付けを済ますと、もうバイトに行かねばならない時間だった。本来ならバイトなど休むような状況だが、ここには血のついた靴がある。この警察がワンサカいる場所に捨てる訳にもいかないので、重い頭のまま支度をした。靴はバイト先で捨ててこよう。ゴミ袋は家にある一番でかいバッグに突っ込んで、バイクで出ようとすると警察が声をかけてきた。思わずびくりとなる。
「戻る時は部屋番号と名前を言ってください。警官は出入り口に立ってると思いますので。」
「…はい。」
びっくりさせやがって。そう内心で悪態をつくと俺はバイクのエンジンをかけた。外はTVカメラや野次馬がたくさんいたが、構わずバイクを走らせた。
バイト先に着くと真っ先にゴミ袋を出し、バックヤードのゴミ置きに捨てる。そして何食わぬ顔で出勤する。
「おはようございまーす…。」
「大丈夫?顔が真っ青だけど?」
店長が開口一番言う。
「あー、昨日飲み過ぎて。」
「なんだ、二日酔いかよ、心配させんなよぉ?そいやさー、昨日の夜中、殺人事件あったろ?お前んち、近くなかったっけ?」
「っつーか、現場っすよ。うちのマンションっすわ。」
「はぁ?マジか!引くわー。夜中って言ってたし、犯人とすれ違ってるんじゃね?むしろお前が犯人たったりする?」
店長の冗談に思わずびくりとする。犯人は俺じゃない。そのはずだ。揉めてた女が死んで、血のついた靴。そして欠落した記憶。
「じょ、冗談でもヤメてくださいよ、店長。警察来て大変だったんすよ?…ところで、俺、昨日何時に帰りましたっけ?」
「あー?昨日はいつも通りに12時半に上がって帰ったろ?……ってホントに真っ青だな?大丈夫か?働けんのか、そんなんで。」
「帰れるもんなら帰りたいわー。万年人出不足の店でー。」
わざと卑屈に笑いながら店長に言うと、
「そんな冗談言うならいけるか!?オープン準備すんぞー。」
「うぃー。」
俺は冗談めかして返事をしたが、内心は穏やかではない。12時半上がりで着替えてここを出ると、1時半ごろ家につく。あの血は…やはりあの女のものなのか?でも靴以外に血がついたものはなかったはず。その靴も処分したんだ。とにかく忘れよう。犯人は俺じゃない。
♢♢♢♢♢
ガイシャは女性。遺体は酷い有様だった。着衣は乱れ、腹が裂かれていた。首には何かを突き刺した跡。アイスピックのような鋭利なもののようだ。腹も同様のもので裂かれていた。力が必要になるため、犯人は男とみて間違いはない。女の力でこれは無理だろう。ガイシャは交友関係が広く、特に男とは派手に遊んでいたため、痴情の絡れによる犯行の線が高いと思われている。聞き込みによると、この女が数日前、深夜に男と揉めていたらしいという証言も得ている。その揉めていた男の割り出しが急がれたが、俺は503号室の男が怪しいと思っている。何度かインターフォンを鳴らしたが出なかった。ようやく出て、話をしたが、あの男は明らかな嘘をついていた。TVがついていたのに、この事件の事を知らないといい、玄関に出ていた靴を見た瞬間顔色が変わった。絶対、あの男は何かを知っていて隠している。
♢♢♢♢♢
バイトの休憩中、タバコを吸いながら話題はやはりあの話になる。
「店長から聞いたんっすけど、マジ怖いっすよねー?TVで見たけど、結構酷い有様だったらしいっすね!現場みたんすか?」
「あ?寝てたから知んねー。」
「昨日夜中電話あったから現場でもみたのかと思ったっすよ?」
「電話?」
「えぇ、1時半ごろ。」
「どんな内容だった!!」
思わず、掴み掛かるように肩に手を掛ける。
「どっ、どうしたんすか?俺、出れなかったんでわかんないっすよ!」
スマホを確認するが、スマホの充電はいつの間にか切れていた。色々ありすぎてスマホのことなんて気にしてなかった。充電器…持ってねぇよ。タバコを咥えながら、記憶を手繰るように昨晩のことを思い出そうとする。なんとなく靄がかかった様にだが、思い出せそうな気がする。12時半に上がって、いつも通りにバイクで帰った。エレベーターに乗って、降りた時に………
背中がゾクリとした。まるで思い出してはいけないという様に。途端頭痛が酷くなり、また吐き気が。その場にうずくまるように座りこむ。
「大丈夫っすか…?おわっ!お、俺、店長呼んできます!!」
店長が来て、そのまま帰るように言われた。幸い明日は休みだからゆっくり休めと言って。俺はバイクで帰ろうとしたのだが、店長に止められた。
「事故ったらあぶねーだろ?死ぬぞ?」
死…俺があの女を殺したのか?確かに何度か揉めたし、死んじまえって思ってたけど、本当に殺すなんて…そこまでしたいなんて思ってなかったはず。店長のどうしたと言う呼びかけで思考は戻される。
「とにかく帰れよ?金出してやっからタクシーで。」
そう店長は言って俺に金を渡し、仕事に戻った。店長、タクシー代はありがたいが、二千円じゃ家までは帰れねーよ?そう内心で思いながら、駅まで歩き、家へと帰る。シラフであの家には居たくねぇな。そんな考えで近所のコンビニに立ち寄る。…………そうだ、昨日俺はここに来てる。昨日の酒もここで買った。シラフじゃ居られねぇ。同じ考えで酒を買いに来た。頭痛が来る前に俺は考えるのをやめた。財布にあるだけの金で酒を買い込み、店員からひったくるように品物を受け取ると、すぐ酒をあおった。
♢♢♢♢♢
防犯カメラの解析の結果、ガイシャがエレベーターから降りた後、503号室の男が帰宅していたことが分かった。やはりあの男は何かを知っている。
「おい!朝イチ、任意で引っ張るぞ!」
俺はそう声を掛けた。
♢♢♢♢♢
インターフォンが鳴る。頭痛が酷い。吐き気もある。昨日と違うところはまだ吐いてないということだけ。トイレに駆け込み、胃の内容物を出す。
「うぇ…うぅぇー。ごほっ!」
鳴り止まないインターフォンに重い身体を引きずるようにしてなんとかドアを開けた。昨日の壮年の警官が昨日よりくたびれた様子で立っている。
「事件のことで引き続きお伺いしたいことがありまして。」
「後にしてく…うっ…」
扉を閉めようとしたら、足を挟まれる。
「トイレへどうぞ。落ち着いたらお話お願いします。」
俺は壮年の警官を睨みつけてからトイレへ。くそっ!なんだって言うんだ。完全に疑われてる…いや、待て。話をするだけだ。思い出せ。あの晩のことを。俺は頭痛と吐き気に苛まれながら、あの晩のことを思い出そうとする。
ーーーーエレベーターから降りて…俺が見たものは…そうだ、黒い…人でも獣でもなかった。そう、言い表せない。『ナニカ』だった。何なのかわからない。そしてその『ナニカ』があの女をーーーー
「うげぇぇぇ。うぅ。げぽっ」
思い出すだけで吐き気が酷くなる。
ーーーーーー赤く染まった視界に真っ黒な『ナニカ』だけが蠢き、元々は女だったモノの中からまた『ナニカ』を取り出す。尻餅をついた俺は『ナニカ』に見つからないように這いずるようにエレベーターに戻り、コンビニに逃げ込んだ。シラフで居られず、酒を買いかっ喰らったーーーーー
そうだ…そうだった。警察に電話しても信じてもらえないと思い、諦めたんだ。きっと犯人にされる。そうに違いない。今だってそうだ。素直に話したところで信じてもらえる訳がない。どうする?逃げるしかない。でも玄関には壮年の警官がドアを開けたまま待っている。どうやって…思案していると背中がぞくりとする。視線を感じる。俺は恐る恐るゆっくりと後ろを振り返る。そこには
『ナニカ』がいた。
あの女から取り出された、黒くて小さい、『ナニカ』が。俺の視界が赤く、暗くなって行く。
「うわぁぁぁぁ!!!」
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被疑者死亡のまま送検。状況証拠のみだが、アルバイト先に捨てられていたゴミから被害者の血のついた靴が押収されたことや公式発表上は自殺となっているためだ。ただ、俺は知っている。あの男は殺された。
この世のものならざるものに。しかし、言える訳がない。警官である俺が。その悩みの所為なのか、最近頭痛と吐き気が止まらない……。
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『ナニカ』を見るとね……新しい『ナニカ』を産むために殺されるんだって…………。
読んでくださってありがとうございます!