或る青年の恋文 全文
幻影は街角に消ゆ
あれから約三年の年月が過ぎました
あなたと出逢い あなたと云う人を知り
其の時からもう三回目の冬がやって参りました
あなたは如何お過ごしでしやうか
聞く所によるとあなたは此処から遠いところに居られる様ですね
そちらは寒いのでしやうか
〇〇(恐らく地方名 字がかすれて読む事は不可)は少しずつ寒くなって参りました
然し今は季節の変り目 益々寒さは増すのでしやうね
あなたの方は元気にされて居られるでしやうか
私は変わりませぬ 相変わらずで御座います
マァ、元気と言へば嘘になりますが
いえ、体調は万全で御座います 身体だけは幼少より当方、丈夫だけが取り柄ですので
問題はどうやら私のこころの方面らしいのです
いえ、精神の病等とはとても呼べぬ、其れ程大袈裟な物ではありませぬ
唯、何をしても何処にいても不思議な事に私のこころの隅に虚ろな部分が有り何時も其処へ風が吹くのです、ぴゅうぴゅうと
そして其の度私は妙な違和感を覚えるのです
其の上、それは現状が退屈ダ、辛い、不満足等の類では無いのです
其れが何かは分かりませぬ 唯、何かが以前とは違う様なのです
そして此の妙な胸騒ぎがする度、不思議と決まって浮かぶのはあなたの事なのです
其の様な時、私はついあなたを探してしまうのです
何時でも 何処でも 人混みの中 電車の中 宵町の中
寝ている時の夢の中
あなたに似た声を聴くたび
あなたに似た髪型や鞄を見つける度
何処かにいやしないかと 会えやしないかと
あなたが其処に居るはず等無いのに
似た人間等星の数程居るというのに
頭の中では分かっておりますのに
こころは認めたがらぬようなのです
次の場所へ進まねばならぬのに
私の中の時はあの頃で止まってしまった様なのです
先程私はこの原因を分からぬと書きましたが、実の事を言へばもう既に原因は解っておるのです
唯私が認めようとせぬだけなのです
現実を見、相対しようとせぬだけなのです
あなたの面影が頭に焼き付き、私は未だにあなたの幻影を追い続けているのです
決して捕らえられぬ幻影を その欠片を
もうあなたに出会う事は無いでせう
もうあなたとお話しする事は無いでせう
例え天文学的数字の下、あなたと出逢えたとして
其の時、意気地無しの私は 私は
願わくば伝えたかった もっとあなたの事を知りたかった
今の私の姿を見て欲しかった
今のあなたの姿が見たかった
私の中であの頃のままのあなたの肖像を
書き換えたかった
しかし
どれ程傷付き苦しもうと
どれ程請ひ願おうと
時はあの頃へは戻らぬのです
ベクトルは常に一方向なのです
然しまたこの季節が来る度
想い出さずにはいられぬのです
甘美なる記憶へと浸らずにはいられぬのです
徒然と、下らぬことで長くなってしまいましたね
どうも纏めることが苦手な性分のやうです
この手紙は恋文とでも云ふのでしやうか
私は普段あまり手紙等の類は書かぬ者でして
実はこんなに書くのは初めてなのです
文を書くのは昔から大の苦手だと云ふのに
恋とは人を文豪にするのでしやうか
不思議なものですね
あなたの住所も知らず、
この文を届ける手段等無いといふのに
あなたが読む筈も無いといふのに
可笑しなことですね
然し其れでも、この文を私の恋文と呼ばせて下さい
そしてこの恋を、私のはつ恋と呼ばせて下さい
我が人生最初にして最後の
いつも、唯いつもあなたの幸福を願っております
どうか、お元気で どうか、笑っていてください
そして、誕生日御目出度う御座います
一九一六年 十一月六日