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迷い家バー 腕押に暖簾  作者: 汁婆
2/2

初来店 ~森野の場合~ その2

 そのお客さんは、かなり変だった。


 新品のような綺麗さはないが、よく使い古されてると伝わってくる古着のような茶色の着物。だらんと下ろした左手には、これまた茶色の巾着袋をぶら下げている。着物の雰囲気や体つきからして、男だろう。

 そして、何より異質だったのがその顔だ。表情が見えない。なんせ、真っ白い紙で作ったようなお面をつけているからだ。しかも、俯き加減で、何やら元気がなさそうだ。


「あ……あの……どうも」


 何とか絞り出すことのできた挨拶が、今にもかすれて消えてしまいそうな声でのそれだった。あまりにも浮世絵離れしている御仁に俺は、頭の中真っ白で彼を見続けていた。挨拶らしき挨拶は返ってこない。「気付いていない?」と思い、今度こそ普通くらいの声を出して挨拶を……と考えたその時だった。

 お面の和服男は急にこちらに振り向き、空いている右手を軽く上げ、「よう」とでも言っているかのように仕草で挨拶を投げてきた。その時、お面の表情が笑ったかのように見えた。ぎょっとした俺は、お面の表情を確かめようとまじまじとお面を観察しようとしたが、すぐに『物珍しいとはいえ人様の顔をジロジロ見るのは失礼になる』と思い至り、すぐに軽く会釈をして挨拶を返す。

 お面の和服男はそれを受けてなのか、ウンウンといった感じに頷いて、一番入り口側のカウンター席に座り、はぁ……と一つ、ため息をついた。


 店内BGMが流れる中、時折、瓶と瓶が軽くぶつかり合う音だけがする。マスターがビールを探しているのだろう。隣の和服お面男は、一寸たりとも動かずに、ぼーっとしている。


 しかし、気不味い。何か話し掛けようにも話題がない。話し掛けようにも話しかけたとて、会話が続くか?そんな事を考え始めその時に、目の前に救いの手が差し伸べられる。


 マスターだ。


「あれ? (さとる)さん。いらっしゃってたんですか? 来たなら来たで、声かけてくださいよ。気づかないじゃないですか」


 お探し物のビールが見つかったようで、マスターが顔を上げて和服のお面男を見るなり、八の字眉の笑顔で声を掛けた。それに応えるように悟と呼ばれた和服お面男は、自分の頭をぽんっと叩き、口を開いた。


「あちゃー、こりゃすまん。ここに来ると気が抜けていつもの癖が」


「そこまでリラックスしてくれるのは嬉しいんですけど、ちょっと気をつけてくださいね。私は人間なんですから」


 人間……確かにそうだよなと思いながら、マスターが取り出した瓶ビールに目は釘付けの俺であった。

 よく冷やされているのだろう瓶の表面は、しっとりとしている。それは、冷蔵庫から外に出したことによって結露した水滴を纏っているからだろう。その姿はまさに、霜露のドレスを身に纏ったような儚さ……。さぁ! 早くその金色の御身を、グラスという名の光り輝く舞台に舞躍らせよ! しかし、心躍らせ待ち遠しく待ってはいるが、すぐにはその舞を見ることができない。何故ならば、俺のすぐ目の前に広がるカウンター。その向こう側には、誰も立ち入ることのできないマスターの聖域があり、ビールはまだそちら側にいるからだ。手を伸ばせばすぐに届く距離……しかし、手を伸ばすことは許されない……。このもどかしい気持ちをどうして募らせなければいけないかのか? そう思い顔を上げれば、マスターは悟さんの前に立っていた。


「あの、悟さん。何にしますか? あ、えっと……お名前聞いてませんでした。なんとお呼びすれば?」


 不意に名前を聞かれた俺は、妄想に全速力だったこともあり「ふぇ?!」などと素っ頓狂な声を上げ、慌てて名前を告げたのだった。


「あ、森野です」


「森野さんですか。それでは、すみません森野さん。ちょっとビールは待っていただいてもよろしいですか? 来店したお客様の最初の1杯を優先させていただきたいので、先に悟さんの分を」


 なるほどと。

 確かに俺はもう飲み始めてる。最初の1杯はかなり重要だ。例えるなら、居酒屋で最初のドリンクを注文した後に、なかなかドリンクが来ないと、イライラがうなぎ登りになる。しかし、2杯目からは、そんなに気にならない。

 そんな、実体験を踏まえた例えを考えながら、快く『大丈夫ですよ』と答えようとした時だった。


「あー大丈夫大丈夫。何頼むか悩んでるし、ちょいと面白いもんが見れそうだからね。先にこちらの森野さんのを頼むよ。かなり待ち遠しいようだし」


 急に悟は俺の返答を遮るように、軽く右手を上げてひらひらと振りながら、マスターにそう伝えた。その間、ずっとこちらを見たままで。表情はお面に隠されているので分からないが、何故だか、無表情のお面が笑っているような気がする。


「そうですか? なら、森野さんのを先にやっちゃいますね。でも……悟さん。あまり、覗くようなことは控えてくださいね。あまりいい気分にはなりませんから」


 そうマスターが言うと、悟は分かってるとでもいうかのように、また手をひらひらと振って答えた。その間も、こちらをずっと見たままで。ちょっと不気味だと感じたその時だった。


「あぁ、すまんすまん。こんなジロジロ見られたら、そりゃ気分も悪くなるか。お詫びと言っちゃなんだがそのビール、私の伝票につけとくよ」


「あぁ、いや。ありがとうございます。あれ? でも……飲み放題だから……」


 奢ってもらえることが決まったが、よくよく考えてみればおかしな話だと気付く俺。そのことを口にしようとしたが、それは野暮のように思えた。悟さんもお面の口元に人差し指を添えて、しーっなんてジェスチャーをしている。お面をかぶっていて表情は分からないものの、楽しそうな雰囲気の悟さん。初めは不気味だと思っていた彼は、ただただ小粋なだけの良い人のようだ。

 そんな悟さんに少し尊敬の念を抱いた俺だったが、ことりと置かれたグラスの音によってビールの事を思い出し、そちらへと意識は平行移動させられた。


 目の前に置かれたグラス。それは、マーメイドラインのドレスそのものだった。女性の後ろ姿。ウエストからヒップ、そして足へと続くラインをそのまま表現したような形だ。それを思うと、なんと官能的なグラスだろうか。


「それでは先に森野さんのビール、先に注いじゃいますね」


 マスターが動く。


 艶かしい腰つきのグラスは一切傾けず、足元を支えるためだけにグラスの足首を、人差し指と中指で挟むように指を添える。マスターの指も、また艶かしく見える。

 流れるように無駄のない動きで、マスターはビール瓶を掴み、蓋を開け、高く掲げ、傾けた。重力に導かれて流れ出す金色の液体。その液体は、吸い込まれるようにグラスへと注がれて行く。

 勢いよく注がれたビールはグラスに叩きつけられ、どふりと泡を立てる。騒ぐように出来上がる泡は、注がれたビールを隠すように積み重なっていく。液体がまだ半分に達したあたりだろうか。すでに泡はグラスから溢れる程に積み重なっているそのタイミングで、マスターは傾けていたビール瓶を戻し、金色の滝を止めたのだった。

 積み重なった泡は溢れることはなく、プチプチとその泡を弾けては消えていく。みるみると大きな泡は消えていき、白い層が圧縮されて固まり、存在感を主張してくる。それはまるでグラスに閉じ込められた雲のように。

 その雲が落ち着いてきた……そう思ったその時、マスターはまた瓶を傾けてビールを注ぎ始める。ただし、今度は高く掲げて注ぐことはしない。グラスに近づけての優しい注ぎ方。金色の清流を思わせるように、労わるように優しく注いでいく。グラスには手を触れずに。


「ビールって、そそぎ方一つで、味が変わるんですよね」


 マスターの注ぎ方に見惚れていた俺は、その説明によってどっぷりと浸っていた妄想世界から舞い戻ってくる。

 「まさかそんなことが?」と思ったが、マスターの顔はさもありなんといった表情だ。

 そんな事を考えている間も、マスターは止まらない。ビールは瓶からグラスへの清流を止めることはなく優しく注がれ続け、いよいよ泡がグラスの縁に差し掛かった時。俺は驚愕した。マスターはビールを注ぐ事をやめなかったのだ。グラスの縁を超える泡。しかし、注ぐ事を止めないマスター。


 その時、奇跡が起こった。


 グラスの淵から溢れ出ると思われた泡が、そのまま盛り上がり立ち上がったのだ。よく見れば、泡はいつもの容姿ではなく、どちらかというとスポンジのような硬さの感じられる泡になっていた。


「この泡が出来たら成功なんですよ。お待たせしました。ピルスナー・ウルケルです」


 そう言いながらマスターは、グラスに注がれたビールを俺の目の前に置いてくれた。おあずけを食らった犬のような心境の俺は、すぐにそのグラスに手を触れようとした。が、ふとこのビールを先に注ぐことを許してくれた悟さんを思い出し、そちらへと振り向く。するとそこには、満面の笑みを浮かべた悟さんが、「ささ! 気にせずにググッと!」と言っているかのように、両手でクィクィッと飲むようにすすめてくる。そのお言葉に甘え、俺はビールと改めて対面する。


 グラスに手を添える。キンキンに冷えたビールの冷たさが指先に染み込む。


 グラスを持ち上げ口元へ近づける。鼻腔を麦とホップの香ばしさが満たしていく。


 グラスに口をつけビールを口内へ流し込む。舌を苦味が洗い流していく。


 ビールが喉を通っていく。驚いたことに、いつも感じているビールの炭酸による喉の刺激が少ない。


「すごく……味が濃いビールなんですね。この、ピルスナー・ウルケルっていうの。何だか、シュワシュワ感も少なくて、何ていうか……ぬるいビールでも飲んでみたくなるって感じです」


 そんなことを呟きつつホッと一息ついた時俺は、そこであり得ないことに気づいた。それは、悟さんのお面の事だった。


 お面が笑っていた。


 そう。あり得ないことにお面が笑っていた。それも満面の笑みだ。最初観たときは、無表情だったお面が、笑っていたのだ。すぐさま悟さんの方を振り向くと、悟さんはうんうんと頷きつつ、マスターに「同じものを」と注文をしているところだった。


「そうなんだよ。これが面白いことに変わるんだよねぇ……」


 注文を終えた悟さんはこちらに振り返り、無表情のお面の表情をゆっくりと変え、にんまりと笑って見せた。

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