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作り方① レモンの果汁と水200ccに砂糖大さじ1杯を準備。

挿絵(By みてみん)

 朝、窓から清々しい空気が流れ込んできているのを感じて、私は瞼を開いた。

 すると、私の顔を覗き込んでいる見慣れた快活そうな少女が目に入る。

 うん。これは夢だ。間違いない。

 そう、ドアと窓にはしっかりと鍵をかけて寝たのだから。

 それを開けて少女が入ってくることなど、ありえないのだから。

 これは夢以外のなにものでもないに違いない。

 そう理解したのなら、やることは決まっている。六時半に目覚まし時計が鳴るまで、夢の中でも寝てやる。これ以上の幸せはきっとありはしないだろう。

 私は肩までかかっている布団に潜り込み、目を閉じる。

「りん、目覚ましなら鳴らないよぉ?あ。これ早口言葉になるかも!」

 少女の意味不明で明るすぎて疲れてくる言葉。

 あぁ。なぜ夢の中までこの少女に付き纏われなければならないのだろう。そもそも、両親が同級生だったからと言っても、普通はここまで長い付き合いにはならないと思う。

 お母さん曰く「あの子が生まれて三ヶ月くらいから一緒だったわねぇ」らしい。

 家は隣で部屋はベランダ越し。さも当たり前だと言うような顔で私の家を勝手に出入りする幼馴染。“親しき仲にも礼儀あり”という言葉があるというのにこの少女には礼儀のれの字すらも見たことがない。

「りん。もう7時になっちゃったよぉ?」

 それが耳に入ると同時に「え?」と間抜けな声を上げて『ガバッ』と起き上がる。

挿絵(By みてみん)

 すると目の前に夢の中の少女、いや先程の少女――桜坂 姫ことひーがいる。

「おはよ!モーニングひーちゃんコールだよぉ!」

 うん。一言だけ言いたい。

 もちろん起こしに来ている時点でコールではないというのも教えてあげたいところだけど、それよりも言いたいことがある。

「泣きたい。」

「え?なんでなんでぇ~?こんな可愛い幼馴染が朝起こしに来てくれてるんだよぉ?世の紳士淑女、美男美女、不男不女に老若男女、誰もが望むこの一瞬!こんなおいしいシュチュエーションがりんは嬉しくないって言うの?」

 私の一言に、絶対の自信と私への疑問とどこで覚えてきたかもわからない一般論?でひーは返してくる。

 確かに、背が166cmもあってスタイルも良い。肌も白くてすべすべふにふに、髪は長くてさらさらしてるし。おまけに胸だって大きい。少し歩けば、男の人に声をかけられてもおかしくはない。

 だけど。

「女の子が女の子に起こされても、ちぃ~っとも嬉しくないの!」

 そう、私は女の子である。

 男の子であれば、これ以上ないくらい幸せで夢にまで見るシュチュエーションなのでしょうけど、女の子である私にとっては迷惑極まりない行為にほかならない。

 しかしながら目の前にいるひーは、それを一度も理解してくれたことがない。

「えぇ~?わたしだったらぁ。りんが起こしに来てくれたらぁ、とってもとぉ~っても嬉しいよぉ?」

 そう私の言葉を、それはそれは嬉しそうな笑顔で跳ね除けて返してくるくらいに。

 だが、今の私には朝食を食べる時間すらない、とても危うい時間なのだ。もちろんひーにとっても。

「ほら。馬鹿言ってないで、部屋から出て!制服に着替えるんだから!」

 だからそう切り捨てるに限る。

「はーい。女の子同士だから別にもんだいないのにぃ」

 そうひーは小声でぼやきながら出て行く。

私はそれを見送るとすぐさま鍵を閉め、開いている窓へと歩を進める。

 そして、奇妙に曲げられたアルミ製の本立てを見つけ「あった」とつぶやいてそれを拾い上げる。

 恐らく昨日の夕方のうちに窓の隙間に挿めておいて、外から鍵を開けられるように細工しておいたのだろう。

「はぁ。どうやればこんなろくでもない事ばかり思いつくんだか」

 そう呆れて吐き捨てると、その奇妙に曲がった本立てをゴミ箱へと投げ入れ、  さっさと着替えを始める。

『ガチャリ。ガチャリ。』とひっそりドアノブが回る音がしたのは、時間がないため気にしないことにしたのは言うまでもない。


―――


 着替えを終えてドアを開けると、そこには覗こうとしていたひーの姿はなく、私は軽く溜め息を吐いてリビングへと降りていく。

「あら。りんちゃんおはよう」

 リビングに入ると、優しい笑顔でお母さんが声をかけてくる。

「おはよう、お母さん」

 私はそれに笑顔で笑い返すと、テーブルに並んでいる朝食が目に入った。

 食パンとベーコンエッグにサラダと牛乳か。

 私は自分の分の朝食の前に立つと、食パンでベーコンエッグとサラダをサンドして、牛乳を一気に飲み干す。

 そして出来上がったサンドイッチをラップで包んで「ひーの所為で時間ないから、もういくね」とお母さんに笑い掛けながらサンドイッチをカバンに入れて、リビングを後にする。

 もちろん、お母さんの「気をつけてね。いってらっしゃい。」という優しい言葉に「うん。いってきます!」と元気に答えて。

 玄関で靴を履き終えると、いつものようにドアを開ける。

 目の前が真っ白な光に包まれて、朝の清々しい風が頬を撫でる。そんな中を一歩、また一歩と進んでいく。

 いつもと同じなのに、なぜこんなにも心地が良いのだろう?

 そんなことを考えていると「りん~おんぶ~」という声が聞こえて、肩がずっしりと重くなる。

 当たり前だけど、気分や雰囲気はぶち壊し。

「ひー。あんたの方が重いのに!なんで私がおんぶしなきゃいけないの!?大体ひーの所為で時間ないんだから、さっさと離れなさい!」

 そう一気にまくし立てるが、ひーは人懐っこい子犬のような顔をして「なんでって。楽だし。」と当たり前のように答える。

 はい。よぉく知ってます。

 豚に真珠。馬の耳に念仏。猫に小判。

 そして、ひーにお説教。

 そのどれもが意味しているのは、それがどれだけ無謀で無意味で挙句の果てには無駄なことであるということ。

「うん、とりあえず時間ないから。お願いだから離して」

 そう諦めてお願いすると、しぶしぶながらも「仕方ないなぁ」と言って、頬に「ちゅっ」という音だけを残して駅への近道である小道へと消える。

「な、な、なにすんのよー!?」

 迷わずにそう叫んだが、小道からひーの笑い声が聞こえるだけで、その叫びは本来の効果を失っていた。

 ひーを追いかけて小道に入るが、既にかなり先にいる。

 もちろん逃げている。そして逃げるやつは追いかけるに限るものだ。

 私は「ひー!あんたそこで大人しく待ってなさい!」と叫んでひーを追いかける。

 でもひーはというと「えぇー。とっ捕まえてぶつでしょ?」と笑いながら逃げていく。

 そしてその様は、余裕の一言でしかなかった。

 私は全力疾走だというのにもかかわらず、ひーは道端の気だるげなネコに「おはよぉネコ君。今日も良い天気だねぇ」と挨拶したり、途中で座り込んで花を眺めたりと、のろまの亀そのものな筈なのである。

 だがしかし、私とひーの間に出来ている差は、この追いかけっこが始まって以来、ずっと一定を保ち続けているのだ。

 それが何を意味しているのか、それがわからない私ではない。

「ひー!あんた手を抜くくらいなら、大人しく捕まんなさいよ!私が足遅いからって馬鹿にしてぇ!」

 そう。ひーはずっと遊んでいたのだ。

 私の途轍もない怒りが頂点に上りつめるくらいに。

 そして「あ。バレたか。」というこっそりとした声が耳に入り、怒りは頂点をも超えた。

「ひー!捕まえたらおぼえてなさいよぉ!」

 そう口にして、さらに足を速める。

 ひーは「あははっ」と楽しそうに笑いながら、そんな私から逃げるように小道の終わりを抜け、大通りへと出て行く。

 そして私は勝ちを悟った。

 この先にあるのは、朝のラッシュに見舞われた駅前の大通りだ。もちろん信号は2、3分待たされるのは当たり前。

 私は急いで小道の終わりを抜け、大通りへと出る。

 そして案の定、赤信号で身動きが取れなくなってしまったひーに、私はじわりじわりと近づいていく。

 ひーは私の顔と歩行者信号の赤を交互に見比べながら、足踏みをしていた。

 結果。私がつくのと青信号に変わるのはほぼ同時であったが、0.1秒程ひーが駆け出すよりも私の手がひーの襟首を掴む方が速かった。

「さて、ひー。グーでぶたれるのとグーでぶたれるの、どっちがいい?」

「あははぁ。りんったら、いつにも増して綺麗なんだから、ぶつなんて言わない方が良いよぉ?それにどっちも同じだし。」

 私の問いに意味不明な答えを返すひーの頭を『コツンッ』と叩き「あ~、もう。馬鹿言ってないで、さっさと学校行くよ?」そうあしらって横断歩道を渡る。

 ひーはそんな私の後ろで『クスリ』と笑うと私の腕に抱きついてきて、もう一度私からコツかれた。


―――


 朝の満員電車。

 世の中にこれ以上気分の悪いものはないのではないだろうか?とよく思ってしまう。

 私たち二人はいつものように入り口に入ってすぐのスペースで押し潰される感じでぎゅうぎゅう詰めにされていた。

 何故かこの状態で一度も痴漢やスリに会わないことが相変わらず不思議なものである。

「今日はちょっと人多いね。」

 ひーの耳元で私は小声でそう話しかける。

「確かに。いつもより多いかもぉ」

 ひーは私の言葉にそう返して、一瞬だけ腕を動かして元に戻す。

 私の後ろの男は、お腹を壊しているのかお腹を押さえながら、青ざめた顔をしている。

 本当に満員電車とは嫌なものだ。

「香里~、香里~。降り口は左側です。御降りの方はお忘れ物のないようにご注意ください」

 やっと目的の駅へと電車が到着する。

 私たちは、電車から駅のホームへと吐き出され、そのまま改札口まで流されていく。そして定期券をそれぞれに通し、駅員さんの「おはようございます、いってらっしゃい」という営業スマイル全開の挨拶を聞いて、そのまま駅を後にした。

 清々しい朝日の中、学校へと続く気だるくなる坂道を登っていく私たち。

 いや、実際気だるいのは私だけで、ひーはぴょんぴょん跳ねたり私に飛びついてコツかれたりしている。その元気が一体何処から沸いてくるのか、一度教えてもらいたいものだ。

「ねぇ、りん。明日から本当に東京行っちゃうの?」

 不意にひーが少し寂しげな顔をして捏ねた様な声で言う。

 まったく。私は一度もゴールデンウィークの旅行の話をしていないというのに、何処で聞いてきたのか。まあ多分、お母さんが話したのだろう。

「ん。まぁね」

 寂しそうなひーの言葉に、出来るだけ素っ気無く返す。そうじゃないといつものように『一緒に来る?』とつい聞いてしまいそうだ。

「うぅ。りんが、わたしのりんが、見知らぬ街に一人きり。心配だよぉ~」

 うん、知ってた。知ってました。ひーが超跳んだ思考の持ち主なのはよぉく知ってました。口にはしていなくてもどんなことで心配しているかはよくわかる。幼馴染というものはつくづく便利で、つくづく不便なものだ。でも、恥ずかしいけど、やっぱり心配してくれるのはちょっと嬉しい。

 だけど私は「あはは。いつから私の一人旅になったのかなぁ」と苦笑することにした。

 だって『心配してくれてありがとう。』なんて言ったら、恥ずかしすぎて死んでしまう。

「あれ?違うの?」

 もはや初耳というような顔のひー。相変わらず、救いようのない子だ。

 そんなひーの体が少し沈むと同時に「おっはよー!ひーちゃーん!」という甲高い声が耳に団子の串でも刺したように『キンキン』と響く。

 ひーの背中に目を向ければ、飛び跳ね放題の茶染めの髪をした途轍もなく無駄に活発そうな女がひーに抱きついている。

「あ。おはよ、かすちゃん。」

 奥山 霞夜。

 あだ名はカス。自称ひー命と自ら言いふらすのが趣味なただの変人。

「とりあえず、学校の近くだから、さっさと離れなさい。」

 私は、勤めて冷静にカスに離れるように言う。

「なんだ。居たのか燐酸塩。お前帰っていいよ。いらないし。」

「誰が燐酸塩だ!誰が!?ていうかカスが帰れ!」

 カスの言葉で、怒りメーターが一気に吹っ切った私は、ところ構わず大声を上げてしまう。

 その瞬間「うわぉい!?」と奇声を上げてカスがひーから引っ剥がされる。

「おはようございます、りんさん、ひーさん。姉がご迷惑をおかけしてすいません。」

 カスをひーから引き離した少女が礼儀正しく挨拶してくれる。

 奥山 咲夜。

 このカスの双子の妹である。容姿こそ似ているが、性格は全く似もせずしっかり者。ハッキリ言って、私は未だにこの二人が双子だということを信じられない。

「おはよ、さくちゃん。」

「さくちゃんありがとう。あとおはよ~。」

 それぞれに挨拶をすませ、そのまま4人で気だるい坂道を登っていく。

「さくちゃんもさっきの電車乗ってたの?」

 私がそう聞くと、さくちゃんはうんざりした顔を隠しながら口を開く。

「ええ。姉がもう少し早く起きれば、あんなラッシュの電車乗らなくていいんですけどねぇ。」

「なによなによ。アタシの所為?」とその言葉にカスが喰らいついてくるが、さくちゃんは「うん。カス姉の所為。」とストレートで答える。

 ひーはそんなふたりのやり取りを笑いながら「でも、今日はちょっと多かったよねぇ?」と話題に参加してくる。

「そうですね。さっきカス姉が」

 さくちゃんがそれに答えようとすると「ちょ、さく!?それタンマ!」カスがそう叫んで、全力でさくちゃんの口を塞ぎ、耳打ちでひそひそと話し始める。

 全く。朝っぱらからなにをやってるんだか。

 心の中でそう呆れながら二人を待っていると、私の肩が再び重くなる。

「ひーさん。なにをやってるのかなぁ?」

 背中の重量源に声をかける。

「え?りんにおんぶしてもらってる」

 という暢気な声が返ってきてそれに文句を言おうと口を開こうとするが「おやおや、おはよう。相変わらずリアルレズビアンだねぇ。」という言葉が耳に入り、そちらに目を向ける。

 するとそこには、見るからに軽そうな男が突っ立っている。

 坂本―なんだっただろう?覚えていない。

 よく私とひーをレズビアン呼ばわりし、無駄に湧くうえ付き纏ってくる”見るからに軽そうな”男だ。

 そんな男にひーが私の背中から「あ。まさひこ君おはよぉ」と挨拶をする。

ああ。そういえばそんな名前だったか。

「誰がレズだ!誰が!?」

 背中に乗っているひーを引き剥がしながら、そう答える。もちろん、ひーが嫌がっているのは言うまでもない。

「いや。それは」と坂本が言おうとするが「違う!ひーちゃんはアタシのものだ!断じてこの蛾の鱗粉のものじゃあない!」と熱弁し始めるカス。そして、さくちゃんから腕をキメられて「ギブ!ギブだってぇ!」と声を上げているのは決定事項だ。

はぁ。本当に帰りたくなってきた。

 そんなことを思いながら、ひーとさくちゃんと馬鹿二匹を連れて、無駄に大きい門をくぐり、学校へと到着した。


―――


校内に入って教室の前まで行くと、カスとさくちゃんとはしばしのお別れだ。まあカスはどうでもいいけど。

「じゃあ、ひーちゃん。またあとでね~」

「それでは失礼いたします」

 そんな二人の別れの言葉に私とひーはそれぞれに「またね」と告げて、自分の教室へと入ろうとする。

「おいおい、二人とも俺を置いてくなよぉ~」

「あれ?まさひこ君まだ居たの?わたし、りんと二人きりのほうが嬉しいんだけど?」

 ひーは、何気に坂本のことが嫌いらしい。

「というか、着いて来ないで」

 もちろん私も嫌いである。

「まったく。連れない事言うなよ?同じクラスなんだから構わないだろ?ホラホラ両手に花ってやつ?」

 そう顔をニヤニヤさせながら気色の悪いことを言う坂本を無視して、ひーは私の腕を引いて教室へと入る。

 坂本は「あ。ちょっと待てよ~」などと引きとめようとして声を上げていたが、ひーは完全に無視を決め込んでいて、聞く耳持たずという感じだ。まあ私も用がない為、ひーに習うことにした。

 教室に入ると、もう既にかなりの生徒が着ていて、それぞれに駄弁っている。

 ホームルームまであと二十分というところか?私はひーの手を解いて、自分の席に腰掛けて後ろ側を向いてやる。

「はぁ。まさひこ君って日に日にしつこくなってくねぇ?」

『うんざり』と言いたげに坂本への不評を漏らすひー。

 私はそれに「ああいうのは、気にしないほうがいいような気もする」と返して、朝食であったサンドイッチをカバンから出して一口かじる。

「あ、いいなぁ。お腹すいちゃったよぉ」

「ちょっと食べる?」

 そう言って私は答えを聞かずに、サンドイッチを半分にしてひーに渡す。

「りん大好き~」と、これ以上ないくらいに嬉しそうに受け取るひー。

相変わらずの発言の為あまり気にならないが、こういうのを他の人が聞くと、坂本と同じ意見に辿り着くのだろうか?

 などと考えながらもう一口かじると、それを見てひーがクスリと笑う。

 そんな風に朝の時間は過ぎていった。


―――


 そのあとの授業は、ゴールデンウィーク前日ということもあってか、先生もなかなかに適当であった。

 実際、連休明けに同じ内容をもう一度やるからあまり変わらないけど、やはり授業はしっかりやるべきだと思った。

 お昼休みにはカスが押しかけてきて、それについてきたさくちゃんと四人でご飯を食べて、また授業。

 5限目が終わり、軽く伸びをすると「ふぁ~」という可愛らしい欠伸が後ろから聞こえて、顔を向けてみる。

 するとそこには、眠気眼を擦っているひーがいた。

「あ、りん。おはよぉ。」

 眠たそうな子犬の様に、私にそう挨拶するひー。一体いつから寝ていたのだろう?と思い「はい、おはよう。いつから寝てたの?」とひーに訪ねてみる。

「えとぉ。先生がきてぇ。教科書開いてぇ!って言った辺りからぁ?」

 聞いた私が馬鹿だった。ほとんど最初からだ。

「あはは、そっかぁ。」

 私は苦笑しながらそう返し、ノートや教科書をカバンへと入れてていく。

 それを見たひーが「あ。もう今日の授業終わりだねぇ」と言いながら、私に習って帰り支度を始める。

 本当に仕方ない子だ。私が居なかったら、この子は一体どうなってしまうのだろうか?

 考えるだけでもおぞましい。とりあえずノートはゴールデンウィーク明けにでも写させてあげよう。嫌がるだろうけど、それだけでノート点、所謂内申点が上がるのだから、無理矢理写させてもお釣りがくるだろう。

 そう考えを巡らせていると、やはり重くなる肩。

「んぅ?何?」と聞くと「はやく帰ろうよぉ~?」とひーは答える。

 さてはて。この子は一体何を言ってるのだろう?

「まだ帰りのホームルーム終わってないよ?」と苦笑いで言ってあげると「あ。」と完全に忘れていましたと言わんばかりの拍子抜けな声が返って来た。

 本当に私が居ないと駄目な子だ。

 今日何度目かの類似した内容で頭を悩ませながらも、私はそれを心の中で笑ってすませた。

 それから五分程度で先生がやってきて、明日からのゴールデンウィークの過し方について話し始めた。

 もちろん、まるで小学生に注意するような内容ばかりだ。

 例えば、ゲームセンターなどには大人の人と一緒にとか、川などの危ない場所には近づかないようにだとか、本当に必要かどうかすらも疑わしいものばかりだった。

 そんな退屈な話が終わり、やっと私とひーは解放された。

 そして私たちが教室から出ると『待ってました!』という顔のカスと『カスの妹であることにもう耐えられない』と言いたそうな顔のさくちゃんが居た。

 多分カスがまた『ひーちゃん命~!』とか言いながら写真を出して『ねぇねぇ君ぃ~この子ひーちゃんって言うんだけど、可愛いくない?可愛いよねぇ。アタシの命なのぉ~!』と言いふらしたりしていたのだろう。

「や~ん。ひーちゃん逢いたかったよぉ。あ、リンパ腺は先に帰っていいよ?」

 ひーに抱きつくとともにカスは私に酷い言葉を浴びせる。まあ、彼女にとっては興味のない相手、もしくは興味のある相手の親しい人に対する挨拶みたいなものの為、もう慣れてしまってはいる。だけど今朝のように頭にくることだってもちろんある。

「カス姉。りんさんに謝ってください。」

 そしてその姉を叱責する妹も見慣れてしまった。勿論、腕をひねるおまけつきなところも。

「いーやーだー!アタシ悪くないもん!ひーちゃんといっつもベタベタしてるバッファのマークの風邪薬バッファリンが悪いぃ~!」

 カスは痛いのを堪えながら意味不明な抗議を始める。

 当たり前ながら、自然と周囲の視線は集まる。

 その視線がカスに集まればいいのだが、言っていることの内容上、私に向く視線のほうが多い。尚且つその視線は『やっぱり』と言いたげなもので「ちょっとマテ!私ひーとベタベタなんて!」と耐え切れずに声を上げてしまう。

 だけどひーが「えぇ?違うのぉ?」と『違うよね?そうだよね?事実だよね?むしろ真実だよぉ!』と言いたげな声を上げる。

 結果、周囲の視線とざわめきは止まる所を知らず、私はそのままうなだれることとなってしまう。

 あぁ、いつも思うことだけど「泣きたい」本当に。

「えぇ~!?何か嫌なことあったの?まさか、まさひこ君に何かされた?」

 ひーになぜ泣きたいかを話したいけど、多分無駄だろうなぁ。

「りんさん、すいません。」

 カスの発言で現状に至ったにもかかわらず、さくちゃんが謝ってくれる。

「ううん、いいよ。ひーやカスのうわ言や世迷い言には慣れてるつもりだから。」

 泣きたいけど。

 そう答えて、私は階段の方に足を進め始める。

 それを見たひーが「あ。待ってぇ」と声を上げながら抱きついてきて、私はそれをコツンと叩く。

「ほんと、相変わらずですね。」

 クスクスと笑いながらさくちゃんが私に冷やかしの言葉を投げる。

「じゃあ、なんだったら代わってあげようか?」

 そう冗談めかしに聞くと「はい、喜んでお受けしますよ?」と返されて、私は少しの焦りを感じた。

 そして二秒後くらいにやっと気付く。

「やぶ蛇だったわけね。」

「あれ?ばれましたか。」

 そう、さくちゃんはさきほどまでの憂さ晴らしに私で遊んでいたのだ。

 どうせならこっちを謝って欲しい。

「あー!ずるいずるい!どうせ代わるんならアタシに!ひーちゃんのことはアタシが一生面倒見るんだからぁ!」

 自己主張120%で会話に参加してくるカスを「いや、あんたには天地がひっくりかえっても代わらないから。」そうあしらいながら、腕に巻きつくひーを離れさせるのが面倒な為、そのまま私は三人を連れて学校を後にした。


―――


 帰りの電車内は結構すかすかで、私たちは4人掛けの席に座っていつものようにお喋りに花を咲かせる。

「明日からゴールデンウィークですねぇ」

 という何となしなさくちゃんの一言から始まり、それにひーはわざとらしく目をうるうるさせながら「さくちゃん聞いてよ。りんったらね、私をおいて遠いところに行っちゃうんだよぉ」とぼやいた。

 そして私はというと、その言葉がまるで私が天国か地獄にでも逝くような内容な為「こら。まるで私が死ぬみたいじゃない。」とひーの頭を小突きながらツッコミを入れる。

 すると、私のツッコミを完全に無視してしめしめと言わんばかりの顔をしたカスが「そうかそうか!ついに逝ってくれるのかぁ!大丈夫、ひーちゃんのことはアタシに任せて、迷わず逝けよ、グリセリン!」そう私に大声で告げる。

 いくらすかすかな電車内でも、多少は人がいる。そして当たり前ながら大声には視線が集まりやすいものだ。

 その結果カスは「カスちゃん五月蝿い。」とひーに言われて涙目となり「カス姉静かにしてください」と妹に言われると共に腕を捻られて、綺麗にキメられ涙を流しながら「ギブ、ギブぅ!」と叫ぶこととなった。

「まさに四面楚歌ね。」

 本来味方であるべき妹すらもが敵となってしまう始末なカスにそう告げると、まるで見計らった様に電車がスピードを落とす。

緑ヶ丘~緑ヶ丘~。降り口は右側です。御忘れ物のないようにご注意下さい。

相変わらずなアナウンスが流れ、電車は駅のホームへと入る。

「それじゃ、さくちゃんゴールデンウィーク明けにまた会おうね。」

私が席を立ちながらそう言うと、降りるべき駅に着いたことに気がついていなかったひーは慌てて鞄やらを引っつかみ「それじゃ二人ともまたね~」と言って立ち上がる。

「はい。りんさん、ひーさんゴールデンウィーク明けにまた。」

 そうさくちゃんは落ち着き払った風に返してくれたが、カスはというと「ひーちゃんと5日も会えないなんてやだぁー!泣くー!叫ぶー!死ぬー!」とだだをこねながらさくちゃんにさらに腕をきつくキメられていた。

 私とひーはそれを笑いながら、電車を降りた。

 そして、私達は電車の外から二人に手を振り、駅のホームをあとにした。




 夕暮れに染まる大通り。

 いつものように二人で帰る道のりは、いつもよりもちょっとだけ長い気がしてしまう。

 時々、ひーは急に黙り込んで静かになる時がある。

そういう時はひーが喋らないと、基本的に私はなにも言わない。

だから、たまにあるこの静けさが訪れてしまう。

 実際、私の悪いところの一つだ。

『どうかしたの?』と声をかけても別に問題ないのに、私はこういう時なにも言えない。

 だから街の喧騒の中を、二人で静かに歩いて行く。

 いつもなら、お店の前で足を止めて『きゃーかわいぃ~』と声をあげるひーは私の隣で、何故か黙ってしまっている。

 なんとなく。本当になんとなくひーのことが気になり、横目で見るとそこには誰もおらず、私は拍子抜けしてしまった。

 そしてひーを捜して後ろを振り返れば、お店の窓ガラスの前で目をキラキラさせているひーがいた。

 それは今まさに人形をショーウインドー越しに見て「きゃーかわいぃ~」と叫んでいる真っ只中である。

 もちろん周りの人はひーに注目気味な上、その目は宇宙人でも見るかのようで、私は一気に恥ずかしくなってしまう。

「こ、こら!ひー!さっさと帰るよ!」

 私はその恥ずかしさを堪えきれずにそう声を上げる。

 しかしひーはこちらを見るなり『あと、もうちょっとだけ』と言いたげな顔を私にして、すぐにショーウインドーの方に目を戻してしまう。

 私は呆れて溜息を吐いて、ひーの目の前まで行くと「ほら、ひー帰るよ!」そう声をあげてひーの襟首を引っつかみ、ショーウインドーから引っ剥がす。

「りん~。あのクマさん買ってぇ~!」と駄々っ子をするひーを引きずりながら、私はひーに未だに宇宙人を見るような目をしている連中を睨みつけて、改めて帰路についた。

 大通りから小道に入ると「ニャ~。」と『おかえり』とでも言うかのようにけだるげなネコが塀の上から声をかけてくる。

 ひーはそれに「ただいま~」と柔らかな微笑みで返したが、私はというと『ふいっ』と手で挨拶をするだけに終わる。

 私はそのまま小道を家へ家へと歩いて行くが、足音が一つ足りないどころか「明日からゴールデンウィークだから一緒にひなたぼっこしようねぇ~」と後方からネコに話し掛けているひーの間の抜けた言葉が聞こえ、後ろを振り返った。

 おかしい。今の時点でひーとの間にできた空間は丁度10mといったところだろうか?

普段ならそれくらい離れると『あ。りん待ってぇ~』と声を上げて駆け寄ってくるはずなのに、さっきからなにかおかしい。

 私はひーの傍へと駆け寄り、額に手を当てる。

「り、りん。なに?」とひーは目を丸くして驚いているが、熱がないことがわかると、

「何?じゃない!さっきから気色悪い。熱はないみたいだし、なにか悪いものでも食べたの!?あんた昔よく拾い食いとかしてたから、今もやってんじゃないでしょうね!?」

 そう私は一気に思っている事を口にだしてしまう。

 すると、目の前にいるひーは「りんが私を置いて東京にいっちゃうから、少しでも一緒に居たかったのぉ!」といつもとは違う男性のような声で言う。むしろ三十代後半のおじさんっぽい声だ。しかもくねくねした言い方で超絶気持ち悪い。

 そして、ひーの不可解な行動の答えが出てしまった。

「お父さん。気色悪い。」

そうボソリと言うと、ひーの後ろ側にある電柱から、優しそうな人が「あはは。冗談冗談」と笑いながら出て来る。

 これが私の大好きなお父さんだ。

 悪ふざけが過ぎるとこがあって、すぐお母さんに怒られたりするけど、二人とも本当に仲良しだ。

 そして、ひーの行動がいつもと違ったのは、恐らく駅を出た辺りからこっそりと追いてきているお父さんに気付いていたからだろう。と言っても、半分は自分の欲求に負けていたのだろうけど。

 私が「おかえり、お父さん。」と言うと、それに続いてひーが「おじさん、お久しぶりです」とペコリと挨拶する。

「ただいま、りん。ひー君久しぶりだねぇ。元気にしてたかなぁ?」

 そうお父さんは嬉しそうに返す。

 私はこっそり「お父さんついて来てるなら、そう言ってよ。」とひーに耳打ちでぼやく。

「誰かに見られてる気はしてたけど、おじさんだなんて気がつかないよぉ。」

 こっそりとひーに不平を返され、私は「たしかに。」と同感の言葉を返し、お父さんに「明日の電車って、十一時だったよね?」と聞く。

 それに「たしかそうだけど。それがどうかしたのかい?」とお父さんはそう答えて、頭にさっぱりと書かれた扇でも出しているかのような顔をする。

「じゃあ、十時くらいまでひーと遊んでてもいいよね?」

 私はしなを作ってお父さんにお願いする。

 これは、娘の特権と言うやつだ。

「うん。幼馴染は大切だもんな。十時半までに駅に来れば問題ないから、それまで大いに遊びなさい」

 そうお父さんは『関心関心。』という笑顔で、私にお許しの言葉を言い渡す。

 するとひーは、私の袖を『クイックイッ』と引っ張って、私に顔を向けるように催促する。

 それに応えて私が顔を向けると「ありがと。」と短く言って、私から離れて『テッテッテ』っと家のほうへと駆けていく。

 変なひーだ。

 それが私の純粋な感想である。

 幼馴染との時間を大切にするのは、普通のことだと思う。

 それは、家族云々、彼氏彼女云々抜きで大切にすべきことだと私は思うのだ。

 そのあと、私とお父さんは一緒に家へと帰って「ただいま!」と二人でお母さんに帰宅の言葉を言う。

 そしてお母さんは優しい笑顔で「おかえり」と一言だけ言ってくれた。


―――


「RIRIRIRIRIN!」という耳を団子の串で突き刺すような大独唱が、次の日、私をしっかりと朝の六時半に襲った。

 私は眠気眼を擦りながらも、その目覚ましの頭頂部にあるボタンを『コンッ』と叩く。

 すると、今迄の大独唱は蝋燭の火でも吹き消したかのように止み、代わりに朝の小鳥のさえずりが窓の外からオルゴールのように鳴り始めた。

 起き上がって窓を開ければ、昨日と良く似た朝の清々しさが部屋を包み込み、今日と言う日が来たことを教えてくれる。

 天気は快晴。と言うには少し雲があるけれど、晴れと言うには雲が少なすぎる空。

 伸びを一つして、私はせかせかと昨日の夜に準備した荷物の中身をチェックしていく。

 叔母である彩お姉ちゃんの家に泊まりに行くだけなので、荷物が少なくて助かる。ドライヤーを持っていく必要もないし、着替えも少なめだ。もし他のところに遊びに行くのなら、少なくとも私の旅行用バッグ1つでは足りなくなってしまう。

 荷物の確認を終えると、私は出掛け用の洋服をクローゼットから取り出し、パジャマからそれに着替えて髪にクシを通す。

 そして一通りの身嗜みが終わった所で、姿鏡の前に立ち、格好を確認。いつも通りな赤毛混じりのセミショートな髪には寝癖はないし。出掛け用の服にも目立った汚れやシワもなし。

 最後に相変わらずに高校生としてあまりにもない胸の上にある、小さな鳥籠の中でシトリンが揺れているアクセサリー。

 うん。胸以外は問題なし。

 私は泣きたい思いを胸に、部屋を出て階段を迷いもなく駆け降りていき、そのまま洗面所に入り、顔を水で洗って鏡に映る自分を見る。

 いつもと変わらぬ自分がそこに居る。

 それを確認すると、私は洗面所を飛び出し、リビングへの扉を押し倒すかのように開いて「おはよ!」と元気に私はそこに居るべき二人に声をかける。

「あら、りんちゃんおはよう。朝ごはんはサンドイッチにしたから、ひーちゃんのところに持っていって一緒に食べなさい。」

 お母さんが支度しながら私に笑いかけてくれる。

 それに続けてお父さんが「はやくひー君のところに行ってあげなさい。荷物はお父さんが持っていっておくから、楽しんでおいで」と笑顔で見送りの言葉をくれる。

「うん、ありがと。」

 そう私は二人に感謝を籠めて笑い返して、テーブルに置いてあるバスケットを手に取る。

 そして「じゃあ、あとで駅でね。」と笑って「いってきます!」と元気よく言う。

「ええ、あとでね。いってらっしゃい」という優しいお母さんの言葉と「気をつけて行くんだぞ」という優しいお父さんの言葉を背に聴きながら「はぁい!」と返事をして私はリビングをあとにし、玄関で靴を穿く。

「母さん、僕のシャツ知らないか?」というお父さんの声が聞こえ、「はい、シャツ。」という仕方なさそうながらも、優しいお母さんとのやりとりがリビングから聞こえてくる。

 本当にお母さんとお父さんは仲が良い。

 そして私はそれをとても嬉しく思う。

 だって。

 この二人の娘だからこそ私は幸福なのだから。

「いってきます!」と声を張り上げてもう一度言って、私は玄関のドアを勢いよく開いた。

 しかし、ドアは何故か途中で止まり『ゴン!』というあまりにも痛そうな擬音と一緒になってしまう。

「たぁ~っ。」という可愛らしくも苦痛がひしひしと伝わってくる呻き声が聞こえ、私は止まってしまったドアの隙間から『そろりそろり』と、ちょこっとだけ顔を出して、外に居るであろう女の子の様子を伺う。

 そして案の定そこには、可愛らしいワンピースを着たひーがしゃがみ込んで両手で額を押さえ込んでいる。

「ご、ごめんね。ひー。」

 そう私は謝るが、ひーはというと両手をそのままに顔を『ぶんっ』と上げ、私を涙目で睨んで、目だけで痛いと伝えてくる。

 本人は気付いていないのだろうけど、その仕草はあまりにも子供地味ていて、とても可愛い。

 私は緩む顔を直し、ドアの隙間から外に出て「ゴメンゴメン」と言いながらひーの頭を撫でてあげる。

 それに対してひーは、恨めしそうな顔の中に嬉しい時に見せる目を隠して、私に「痛かった」とボソリと言う。

 全く。仕方ないなぁ。

 そう心の中で微笑んで「お土産いっぱい買ってきてあげるから、許して?」とひーにお願いする。

「うん。許してあげる。でもお土産じゃなくて、今から十時半まで、みっちり私と遊ぶこと!それで許してあげる。」

「はいはい。」

そう私はひーの意外な言葉に笑いながらに返し「はい。」とひーに手を差し延べた。

 ひーは右手を額から離して私の手を掴み、私はひーを引っ張って立たせてあげる。

「それじゃ、公園にでもいこっか。」

 そう私が笑うと、ひーは「うん。」と笑い返してくれた。

 いつもの駅への近道を通り過ぎ、私たちが住む住宅街の一画にある公園に向かう。

 民家の長い長い行列は、たまに大きな蟻の群れに見えてしまうことがあるなぁ。

 そんなことを思っている私はおかしいのだろうか?

 そう思ってついひーに聞いてみたくなるが、私はその衝動を無理矢理に心の物置に押し込んで「今日もいい天気だね。」とひーに何気ない言葉を投げる。

 ひーは尻尾を振っている子犬のように擦り寄ってきて「そうだねぇ。」と日溜まりの中で気持ち良さそうに言う。

 私はそんなひーにドキリとするが、今日はゴールデンウィーク初日。

 時間はもう8時半を回っているが、住宅街の道なりには出勤中のサラリーマンも、学校に遅刻しそうな為に駆けていく学生も、まるで宇宙人かなにかに連れさらわれたかの様に、その姿を見ることはない。

 でも、恥ずかしいものはやはり恥ずかしいわけで「ひー。恥ずかしい。」とボソリと口にした。

 だけどひーは「えへへ」と笑うだけで、私の抗議の言葉を真っ向から無視する。

 そんなひーに「はぁ。」という溜息が一つ漏れたが、嫌悪感はなかった。

 しかし、戯れているとやはり時間というものはあっという間なものだ。

 気がつけばもう公園の前で「やっとついたー!」そうひーが大きな声を上げて、まるで子供のように、いや、もはや大きな子供がはしゃいでいる。

 私はそんなひーを見て、くすりと笑い「でも、私たちもう大きいんだから、ここの遊具は遊べないと思うけど?」とツッコミを入れる。

「でも、公園に行こうって言ったのはりんだよぉ?」

 そう大笑いに返され、私は一本取られて「あ。」と声を漏らした。

 とはいえ、遊具で遊べない公園でどうしようか?

 そう私が頭を悩ませていると、ひーは私の腕を引っ張って、公園の入り口近くのベンチに腰掛ける。

 私も腰掛けようと思って体を屈めると、私は一瞬宙を舞い、驚いて手に持っていたランチボックスを手放してしまう。

 そして私の体は落ちていった。

 落ちた先はというと、私を引っ張って宙に浮かせた張本人―ひーの腕の中である。

「はぁ。」と私はわざとらしく溜息を吐き「放して」とひーに冷視線を飛ばしながらに言うが「え~?な~に~?き~こ~え~な~い~?」と私の溜息に対抗してか、わざとらしくそう返してきた。

「まったく、もういい。」

 私は諦めの言葉を吐き、されるがままになることにする。

「なぁんのことだか~」

 ひーは笑いながらにそう言って視線を公園の遊具に向けた。

 そして、少しだけ懐かしそうな顔をする。

 私はひーがそんな顔を出来ることに少し驚きを感じたが、よく考えたらここに来るのは本当に久しぶりだった。

 小学生の頃は、よくここで遊んでいたものだ。

 ぶらんこに、シーソーに、鉄棒に、すべり台。

 そのどれもが、あんなに大きかったのに、今では本当に小さく見える。

「三年ぶりだっけ?」

 と私が『ふっ』と口からその月日を漏らすと「二年と十ヶ月と19日。」そうひーが正確な月日を教えてくれる。

「ぶらんこ。ちっちゃくなっちゃったね。」

「私達が大きくなったんだよぉ。」

 私が懐かしみながらに呟いた言葉にひーは笑い混じりに返してくる。

 わかっていることをそんな風に言われた私は、もちろんそれに腹が立ち「そんなことわかってる。」と刺のある言葉で返してしまう。

 でもひーは「あはは」とニッコリ笑顔で私の顔を微笑みに変えてくれる。

 本当にこの笑顔には敵わないなぁ。

 私はそう思いながらも、つい意地悪を思いついてしまった。

「ねぇ、ひー?お母さんがサンドイッチ作ってくれたんだけど、食べない?」

 するとその言葉にひーは、笑顔をさらにピカピカと輝かせる。

 それはまさに小学生顔負けの笑顔だ。

 そしてもちろん返答は「食べる食べるー!」という嬉しさ百倍な言葉だった。

 私はそんなひーにくすりと笑い、バスケットの場所を指で指し示してあげる。

 すると、小学生顔負けの嬉しさ百倍な笑顔は、アイスクリームを落として、泣きに伏している子供のそれに変わり、私はつい吹き出して笑ってしまう。

 バスケットはかろうじて中身が飛び出ていないものの、それは何度も何度も転がったことがわかるくらいに可哀相な状態であった。

 私は、仕方ないなぁ。と思いながらひーの手を解いて、バスケットの前まで歩いていく。

 そして可哀相なバスケットを拾い上げて、蓋を開けて中身を確認する。

 いくつかは型崩れしてしまっているが、十分食べられる状態だった。

 私はひーに振り返って「型崩れしちゃったのはひーが担当ね」と笑った。

「りんのいじわる。」

 涙色の顔でひーは私に文句を言うが、私はそれを気にせずひーの隣に座って「はい。」と型の崩れていないサンドイッチをひーにあげる。

 ひーは「ありがと」と短く笑って、サンドイッチを受け取る。

 私は型崩れしたサンドイッチを取り出し、二人で「いただきます」と言って、ひーはかぶり付く様に食べ始めた。

 それを横目に私もかぶり付いてみたが、どうにも上手く行かず、結局いつも通りにちまちまとサンドイッチをかじる。

「おいしい~」とがつがつ食べるひーに私は「おいしいね。」と微笑んだ。


―――


 サンドイッチがなくなる頃には、時計は九時半になってしまっていた。

 しかし、それに気付いたのは時間を気にするべき私ではなく、時間を気にせずに遊んで、帰る間際に駄々を捏ねる筈のひーだった。

 もう少し遊んでいたいというのが、どこかにあったのかもしれないな。と私は思って、つい苦笑してしまう。

 ひーはそんな私を不思議そうな顔で見て「時間だから、帰ろう?」と少し残念そうな声で言いながら、ベンチから立ち上がる。

 私は「そうだね。」と一言返して立ち上がり、公園をあとにする。

 流石にゴールデンウィークとはいえ、この時間になると、子供が走りまわっているのが少し目に付く。

 これで、ひーが先程の様にひっつきもっつきして来なければ良いのだが、現実とは甘くないものだ。

 子供はどこまで行っても子供。

 私の周りでチョロチョロベタベタ。

「はぁ。」

 今度はわざとではなく、純粋に溜息がもれてしまう。

 しかし、それを聞いた当人は何一つ気にする事なく、いつもの様に大はしゃぎ。

 それは家が見えるようになるまで続き、私が終始恥ずかしい思いをしたのは、言うまでもない。

 そして、はしゃぐのをやめた理由はというと、目の前にいる三人のお陰だろう。

「ひーちゃん愛してる~!」

「やあ、リアルレズビアン。今日も可愛いね。」

 うん。前言撤回。絶対にカスと変態のお陰じゃない。

「さくちゃん、おはよう。」

 そんなことを思いながら、私は唯一の常識人であるさくちゃんに挨拶する。

 ひーはカスと変態から距離を取りつつ「さくちゃんおはよ~。」と私に続く。

「おはようございます。りんさん、ひーさん。すぐに片付けますので。」

 にっこりとしたさくちゃんはそう私達に返して、無言でカスと変態に『ビュッ』と見事なハイキックを見舞う。

「あぐっ!」と二人して苦痛の声を上げて前のめりになった。

 普通なら二人揃ってさくちゃんに文句を言うのだろう。

 しかし、片方は変態である。

「さく!お姉ちゃんはそんな子に育てた覚えはないぞ!」とカスは涙目でさくちゃんに訴えるが、変態はというと「ふふ。僕は知っているよ。君が暴力をふるうのは、好きな相手だけだと!」そう叫んだ。

「坂本君、五月蝿いです。」

 それに対して雪女さながらの冷視線を飛ばしながらそう口にするさくちゃんを見てわかるのは、この変態をどれだけ嫌っているかである。

 それに私は「あはは」と呆れた笑いを零して「ところで、連休早々どうしたの?」とさくちゃんに肝心なことを聞く。

 するとさくちゃんは、坂本に飛ばしていた冷視線を微笑みで綺麗に塗り潰して「いえ、りんさんの見送りを兼ねてひーさんの家に遊びに来たんですよ。昨日カス姉が死ぬだの泣くだの五月蝿くって。」と答えてくれる。

 もちろん、そのあと私の悪口を言おうとするカスに追い打ちを忘れずに。

「そっかぁ、ありがと。でももう時間なくて急がなきゃだから、またね。」と切り上げて、ひーに向き直り「行ってくるね」と口にする。

「うん、行ってらっしゃい。」

 そう寂しそうに微笑むひー。

 そんなひーに「お土産期待しときなさいよ?」と言って、私は背を向ける。

 でも、つい後ろ髪を引かれて振り返りたくなる。

 だけど「荷物持たずにどこ行くんだ?あ、それともう帰ってくるなよ、クリントン。」というカスの言葉が耳に入り、

「荷物ならお父さんが持っていってくれてるの!あと、誰がクリントンだ!誰が!?」

 そう声を上げて私は駅へと歩き始めた。

 通りなれた入り組んだ小道。

 見慣れた紫陽花に、相変わらずに気だるげな猫。

 空を見上げれば、大きく広がるコバルトブルーの空とそれに混じる真っ白な羽毛のような雲。

 今日からゴールデンウィーク。

 この街を離れて東京の彩お姉ちゃんのところにお出かけ。

「ひーと会えないのはちょっと寂しいかなぁ。」

 などとぼやいていれば、小道を抜けて大通りの横道に出る。

 ココまで来れば駅まで100mもない。

 私は少し薄情かもしれない。

 だって、ほんの今ひーと会えないことが寂しいと思ったにもかかわらず、心の中は浮き足立っている。

でも、彩お姉ちゃんとも久しぶりに会えるなぁ。昔は、十しか年も離れていなかったから、年の離れた姉妹の様だったのに、結局は大人で。今では仕事でバリバリ稼いでるみたいだし。はやく大人になりたいなぁ。

 そんな風に心の中で思いながら交差点に立つ。

 交差点の向こう―駅の前で私に手を振っている人が見える。

 お母さんだ。

 この十六年間と少し、その優しい笑顔と暖かい眼差しで育ててくれた大好きなお母さん。

 その隣では、そんなお母さんを恥ずかしそうに微笑むお父さん。

 私が手を振り返すと、二人は何かを話し始めてしまう。

 もちろん、夫婦喧嘩や何かの問題ごとではないと思う。

 だって、あんなに嬉しそうに話しているんだもん。

そんな暗い話ではない。

 信号が青になって、私は二人のほうに駆け出す。

 その瞬間。

 私の隣を真っ黒い影がぶわっと通り過ぎる。

 私は「きゃっ」と声を上げ、ばっとその場に縮こまってしまう。

 自分でも情けないくらいに。

 そして、耳に聞こえた衝突音。

「ガンッ!ガンッ!」と何度も車やガードレールなどにぶつかっている音だ。

 そして最後に「ドゴォォォンッ!」と一際大きな衝突音がして一気に静寂が世界を襲う。

 私が顔を上げると、お母さんとお父さんが立っていた場所から少し離れた場所に、真っ赤な真っ赤な大きな線が引かれて、そのまま駅へと続いていた。

「え?なに?」

 口から言葉が漏れた。

 頭がくらくらする。

 お腹がまるで燃える様で気持ちが悪い。

 ぐいぐいと胸が締め付けられて苦しい。

「おかあさん?おとうさん?」

 頭の中がぐちゃぐちゃ。

 息が出来ないくらいに胸がもっとぎゅうぎゅうに締め付けられだす。

 耳元で荒い息遣いが聞こえる。

 何が起こったの?

 何がどうなってるの?

 わかってる。

 でもわかりたくない。

 ガタガタと震える体を無理矢理に起こし、駅へと一歩一歩近づいていく。

 ふらふらと、いつ倒れてもおかしくない足取り。

 それでも確かめないと。

 それだけが、頭の中ではっきりとわかった。

 だって。

 この不安も。

 この恐怖も。

 この震えも。

 それら全てが治まるのだから。

「おかあさんも。おとうさんも。轢かれてないはずなんだから。」

 その希望だけを頼りに近づいていく。

 そして、トラックと駅の間からはみ出しているぐったりとした手が見えた。

 その瞬間、身体全体をまるでナイフでズタズタにされたような恐怖と痛みが込み上げて、身体が一気に冷たくなる。

 目の前が暗くなっていく。

 少しずつ。

 少しずつ。

 視界を蝕むように暗くなっていく。

 遠くで、酷く荒れた息遣いが聞こえる。

 そして、身体がふらりと揺れて、視界は真っ暗になった。

 きっとこれは夢。

 悪い夢に違いない。

 起きたらいつものように、部屋にひーが忍び込んでて、私の寝顔を覗き見てるの。

 それで『おはよう!ひーちゃんのモーニングコールだよぉ!』とか『ひーちゃんのおはようタ~イム!』とか言ってるの。

 だって。

 こんなこと。

 ありえるわけないんだもん。


―――


『ガタンガタンッ。ゴトンゴトンッ。』

 不規則的ながらも、似たような音が連なる心地良い揺れ。

 私はそんな揺れに起こされて、目を開ける。

「よかった。夢だった。」

 そう口に出るが、どんな夢だったか思い出せない。

 だけど、多分悪い夢だった。

 私は四人掛けの席に座っていて、目の前にはお母さんとお父さんの姿はなく、荷物だけがぽつりと置かれている。

 なんだかひとりぼっちになってしまった子供の様な気分がして、とても不安になってしまう。

 席を立つと、奇妙に半開きな車両を繋ぐドアが目に入る。

 何故か私は、一歩一歩ドアの方に足を進めていく。

 そしてドアの目の前に立つと、隣の車両の中が見えた。

 私が見たのは、その中で重なり合う様に倒れている、おかあさんとおとうさんの姿だった。

「いや。うそ、だよね?おかあさん?おとうさん?ねぇ?」

 口から漏れる声は真冬に凍える声よりも震えている。

 それでも、私は熱に侵された様に二人に近づいて行き手を伸ばして、恐る恐るおかあさんに触れた。

 手にベトリとした赤黒い血がついて。



 ***



「いやぁ!こんなの違う!違うの!そんなわけないの!そんなわけないんだから!」

 私は、りんの叫び声で一気に目が覚めた。

 目の前では頭を引っ掻き回しているりんがいて、私は無我夢中でりんを抱きしめながら「りん!大丈夫!大丈夫だから!」とりんに言い聞かせる。

「ひー?ねぇ!違うの!違うんだよね!?だって。だってわたし。一人に、一人ぼっちになっちゃう!」

 りんは私に気付き、がたがたと震えたまま私に言葉をぶつけて、そのまま泣き始めてしまう。

「りん、大丈夫だから。ひーがいるから。ひとりぼっちになんかさせない。大丈夫だよ」

 私はりんの頭を優しく撫でながら慰める。

 あれから半日以上が経つのに、まだ私は実感が沸かない。

 あのあと―


―――


「あ~あ。行っちゃった。」

 それが、りんが駅への小道に入ってすぐに出た言葉だった。

 正直、りんが一緒に連れて行ってくれたり、一人残って私と連休を過ごしてくれることをちょっとだけ期待していた。

「ひーさん、落ち込まないでください。連休明けにはまた会えるんですから。」

 そうさくちゃんが私に微笑んでくれると、それに続いて「そうそう。それに、俺がりんちゃんの代わりに一緒に楽しいゴールデンウィークを過ごしてやるから!」とまさひこ君が冗談であるべき励ましをくれる。

 多分。本気なんだろうなぁ。

「うぅ。敵わない。マーガリンめぇ!」

 かすちゃんだけ励ましではなく遠吠えをあげて、さくちゃんが「そんなに蹴られたいんですか?カス姉?」とそれはそれはこれ以上無いくらいに優しく微笑んで、そのあとに続く言葉を止める。

 それを見て「あはは」と私が笑うと、みんなは安心したように優しい笑顔を浮かべて笑う。

 きっと、私が落ち込むことを予想して、みんなは来てくれたんだろうなぁ。

 そう思うと少し嬉しくなる。

「りんも行っちゃったし。さぁ!あがってあがって!」

 私はみんなにそう言って家のドアを開けて、みんなを招き入れた。

 まさひこ君とかすちゃんは、正に勝手知ったる私の家という感じで「おじゃまします」のあとにばたばたと私の部屋へと続く階段を駆け上っていく。

「ひーさん。すみません。」

 さくちゃんは別に悪くないのに、ほとほと疲れ果てた様子で私に謝ってくれる。

「あはは。いいよ、いつものことだし。」

 そう返して「ただいまぁ」と言って二人の後を追いかける。

 後ろからは、さくちゃんの「おじゃまします。」という控えめな挨拶が聞こえた。

 部屋に着くと。

 まあ、いつもの光景で。

 私の服や下着や私物を物色している二人がいて「なにやってんですか!」とさくちゃんが私の代わりに怒って二人を大人しくさせてくれたのは、デフォルトと言うものなのだろう。

 二人ともとっても痛そうだけど。

 そんな馬鹿騒ぎの中、派手な音楽と共に歌が流れ始めて「イタタ。」と言いながら、まさひこ君がケータイを取り出して電話に出た。

 流石に反論しようとするかすちゃんも静かに。しようとしないので、さくちゃんに無理矢理黙らされていて、私は「くふふ。」と堪え笑いで身悶えてしまう。

「なんだ?今忙しいんだけど?」とまさひこ君はあからさまに嫌そうに電話の相手に言う。

 でも、相手の興奮のしように負けたらしく、呆れたように溜息を吐いて「で?何が凄いんだ?」と内容を聞くと、一気に顔色が悪くなって「悪い。切る。」と言って、電話を切る。

「どうかしたんですか?」

 さくちゃんが珍しくおどおどしながら聞くと、青ざめた顔で「りんちゃんがトラックに轢かれたかもしれない」と言われた。

「え?」

 言葉が漏れた。

 なんて言ったんだろう?

 うぅん。言葉はわかる。

 でも、なんて言ったんだろう?

「なんて言ったの?」

 また言葉が漏れる。

 みんなが押し黙って。

 私は部屋を飛び出した。

 後ろで声がした。

 茶菓子やお茶を持ってきているお母さんとぶつかった。

 でも、そんなことどうだっていい。

 私は家をまるで出て行くかのようにあとにした。

 まだ。

 あと三十分ある。

 まだりんは、駅のホームにいるはず。

 頭の中で思うたびに足が速くなる。

 小道のねこ君も、お花さんも。

 赤信号も、ぶつかりそうになった車も気にせずに。

 私の足は速くなる。

 駅が見えて。

 トラックが駅に食べられているようにぶつかっているのが目に入った。

 そんなわけない。

「腰抜かしてた女と、それ助けようとした男が潰されたらしいよぉ?」

「えぇ?マジでぇ?超かわいそぉ~!」

 そんな言葉が耳に入る。

 咽が焼ける。

 瞼が熱くなる。

「そんな。わけ。ない。」

 あぁ。今すぐにここで泣きたい。

 そう思いながらも、一歩一歩あまりにも重すぎる足を動かしながら、駅へと近づいていく。

 でも。一瞬、視界の端に倒れているりんが居たような気がした。

 振り向いて確かめる。

 確かにりんと同じ格好をした女の子が倒れていた。

 赤毛交じりの黒髪。

 りん?

 私は倒れている女の子に歩み寄って、顔を覗く。

 りんだ。

「よかった。よかったよぉ!」

 そう叫びながら、りんを抱きしめる。

 だけど、周りにはたくさんの人がいた。

 あぁ。こんなに人がいたんだぁ。

 それが私の感想で、自分で笑ってしまいそう。でも、今はそれよりもりんが無事であることが嬉しかった。

「おい!どけ!」

「ちょっと!退きなさいよ!」

「すいません、通してください!」

 という周りの五月蝿さにも勝る大声が聞こえて、振り返ると三人の人がいた。

 うぅん。涙がいっぱいで誰か見えないけど、誰かわかる。

 心配して追いかけてきてくれたのだろう。

 本当に自分でもわかるくらいに、どうしようもなく仕方のない子だなぁ。

 一瞬私が誰を抱きしめているかわからなかったらしく、三人とも混迷したような言葉を交わしていたが、りんの顔が見えたらしく、安堵の吐息が耳に入る。

 それからすぐにまさひこ君が「何があったか聞いてくる。」と言ってどこかに行ってしまう。

 やっと落ち着いて、さくちゃんとかすちゃんに「ごめんね。心配かけちゃって。」と謝ると、二人とも無言のまま微笑んで顔を横に振ってくれる。

 真っ赤なテールランプが目に入って、そちらの方に顔を向けると、忘れ去られたように3つの旅行用のバッグが置き去りにされているのが目に入った。

 りんの旅行バッグだ。

 その隣のにも、ちょこっと離れたもう一つにも見覚えがある。

 そして、何があったのかを理解してしまう。

 肩が震える。

 りんを強く抱きしめる。

 涙がまた溢れる。

 それは嬉しさから来るものじゃない。

 それは悲しさから来るもので。

 二人が慌てて「どうしたの?」と心配してくれた。

でも、それに答えられずに泣いた。

 ただただ泣いた。

 それからどれくらい泣いただろう?

 気がつけば、まさひこ君と警察の人がいて。

 おじさんとおばさんが亡くなったことを口にした。

 それから、りんが心配だと言って「病院に連れて行きます。付き添いますか?」と聞かれて、それに私は頷いて、りんと一緒に車に乗せられて病院へと向かった。


―――


 泣き続けていたりんはやっと落ち着いたのか「ひー。ぐすっ。ごめん、ね。」としゃっくり混じりに私に謝る。

「うぅん。謝らなくていいよぉ。ひーがこうしてたいんだから。」

 そう頭を撫でながらに返す。

 それが、今の私がりんにしてあげられる精一杯のことだった。

「ここ、どこ?ぐすっ。おなかすいたよぉ。」

「病院。そうだよねぇ。サンドイッチ以外なんにも食べてないもんね。ちょっとコンビニで何か買ってくるね。」

 りんの疑問と要求にそう答ると、私はりんを抱きしめていた手を放して立ち上がろうとした。

 でも、放した手をりんが両手で『ぎゅっ』と抱きしめて。

「ひー。ぐすっ。おねがい、ひとりに。しないで。」

 そう弱々しくお願いされてしまい、私は少し悩んでしまう。

 もちろん、りんが迷惑だから悩むんじゃない。

 りんに何か食べさせてあげたいし、りんの傍にも居てあげたい。だから、どうしても悩んでしまうのだ。

 でも、よく考えてみれば簡単なことかも。

 そう思って「一緒にコンビニ行こっか」とりんに微笑むと、りんは俯きがちに頷いて、私と一緒に立ち上がる。

 病室を出て、ナースセンターを通り過ぎようとすると「ちょっと、桜坂さん。困ります、患者さんを連れてこんな時間にうろつかれては。」やはり呼び止められてしまった。

 でもなんでりんじゃなくて、私の苗字なんだろ?と思いながら振り向くと、そこに居た人には見覚えがあった。

 たしか、りんを病室に連れて行くときにいた看護婦さんだ。

 腕を抱きしめるりんの手に力が入るのがわかる。

「大丈夫だから。」

 そう言って頭を撫でながら、ナースセンターの方に近づき「すいません。でも、りん朝食のあとなんにも食べてなくて。ちょっとコンビニに行きたいんです。」と勝手なお願いとはわかっていても、そうお願いせざるお得ない。

「でしたら、桜坂さんだけでお願いします。」

 当たり前ながらそう厳しい顔で返されて、りんの手に更に力が入る。

「でも、りんが一人になりたくないって言ってて。ダメですか?」

 そう私が理由を言うと、仕方ないという顔をして「菫さん。私は彼女達に付き添ってコンビニに行って来ますので、少しの間お願いします。」と奥にいる看護婦さんに一言かけて「さあ、はやくコンビニに行きましょう」と先程とは打って変わって優しい笑顔で私たちに言う。

「ありがとうございます。」

そう答えて、私たちは看護婦さんと一緒に病院をあとにした。

外に出ると五月特有の澄んでいて澄み切れないような夜気が私の頬を撫でる。

 そして、いつもとは違う立ち位置―りんが怯える少女のように私に抱きついて歩く。

 りんが落ち込む理由も、りんを励まさなきゃいけないこともわかる。だけどどうしたらいいんだろ?

 いつもの私なら、どうやって励ますんだろう?にっこりと笑って?優しく微笑んで?それとも、まさひこ君みたいにふざけて?

 いつもりんに甘えてばっかりで、助けてもらってばっかりで。

 もしかしたら、りんを励ましたり元気付けたりしたことなんてないのかもしれない。

 そんな風に頭を回していると、答えの出ないままコンビニに着いてしまった。

 吐き出したい溜息を無理矢理に噛み殺して、仕方なくコンビニに入る。

 いつも、人前でなくても恥ずかしいと言っているりんは、私から離れようとせず、むしろ反対にぎゅっと抱きしめてくる。

 怯えるように。縋るように。

 私はそんなりんに「なにが食べたい?」と耳打ちで話しかける。そしてカゴの中に食べたい、飲みたいと言われたものを入れていく。

 でも、その食べ物は全部サンドイッチだった。

 少し栄養のバランスが不安になったけど、多分おばさんが最後にりんに作ってくれたごはんだったから、サンドイッチを選んでいるんだと思う。

 そうして一通り入れ終わったところで「あ、言い忘れてた。ここの食べ物、消費期限気をつけないとお腹壊すからね~。唯一の店員がずぼらで無気力だからさぁ~」と看護婦さんがケタケタと笑いながらに口にした。

 どういう意味なんだろ?そう思いながら、カゴの中のサンドイッチを手にとって私は驚愕した。

 四月十七日。それは、既に十日以上も消費期限を超過していて、正に開いた口が塞がりそうにない。

 顎なんか外れちゃうんじゃないかな?そもそもなんでこんなものが?それ以前にここは本当にコンビニなのかなぁ?さっきだけど、2000年ってでかでかと書かれた雑誌あったし。十年前だし。と、とりあえず、サンドイッチを他のに変えよう。

 長々と頭の中が混乱して、やっと答えに辿り着くと、サンドイッチを消費期限がまともなものに取り替えて行く。

 そしてやっとの思いで取替えを完了すると、三つ程カゴの中に目立つものが入っていることに気がつく。

 ビール、裂きイカ、枝豆。

 私は『ジト~』とした目で看護婦さんを見つめると、看護婦さんは「ほらほら、堅いこと言わないでよ?規則破って出してあげてるんだし?」と私に奢らせる気満々である。

 もしかしたら。かすちゃんやまさひこ君より性質の悪い人に借りを作っちゃったかもぉ。

 そう少し悩みつつも、私はレジにカゴを持っていき、店員さんに会計をしてもらう。

 会計中、私がりんの頭をなんとなくに撫でていると「む?」という訝るような声が聞こえて、私は店員さんの方に向き直る。

 すると、店員さんは溜息を吐いて「これ。そこの看護婦さんのだろ?」とビールと裂きイカと枝豆をカゴから出しながら言う。

「はい。そうですけどぉ?」

「杏さん。なに社会人が学生さんに集ってんですか!」

 私が答えると店員さんが怒鳴り声を上げて、看護婦さん―杏さんを叱り付けた。

 それにりんは『ビクッ』と驚き、涙目になってしまい「大丈夫、大丈夫だから。」と私はりんの頭を撫でながら行く末を見守る。

「コージ君、何言ってんのよ!ただの学生さんじゃないわ!我が緑ヶ丘病院の患者さんと!その付き添いの人よ!」

「それがどうした!?もっと性質が悪いわ!そもそも、あんた仕事中だろ!酒なんて持ち込もうとするな!怒るのも面倒臭いだろ!」

 杏さんのどうしようもない言い訳に、店員さん―コージさんは間髪入れずに正論で返して、そのまま晩酌3点セットを会計から外す。

 本当に消費期限切れのサンドイッチを放置にしてる人なのかな?

「ちょっとぉ~。人の楽しみを~。」

 杏さんは諦め切れないのか駄々を捏ねているが、コージさんは気にもせずに会計をすませていき「1262円になります」と私に支払額を教えてくれる。

「1500円からお願いします」

私がお金を渡すと「この人に付き合うとろくな目に会わないから気をつけな」とお釣りを渡しながら忠告してくれた。

「気をつけます」と苦笑いで返し、力なくコンビニから出て行く杏さんを追いかけて、私とりんはコンビニを出た。

 なんでかな?

 さっきまでは、あんなにりんのことで悩んで、余裕なんて全然なかったのに、今は空の星を見上げる余裕がある。

 夜風の中をぐったりとした感じで歩く杏さん。相も変わらずに怯えるりん。そして、未だに実感が沸かず、悩んだり開き直ったりしている私。

三者三様。

 だから私は、私が出来ることをすればいいのだ。

 たとえ、おじさんとおばさんが亡くなってしまったという事実があんまりピンと来なくても、私は出来るだけのことをすればいいのだ。

 どんな形でも私の大切なりんを守れるのなら。元気付けれるのなら。慰められるのなら。

 そして、りんのいつも通りの笑顔が見られるのなら。

 私はいくらだって頑張れる。

 そう答えを出して、私はりんを連れて病院への帰り道を歩いた。



***



 病院に戻ると、看護婦さんは「それじゃあ、ちゃんとりんちゃんを病室に連れて行って大人しくしてなさいね」とひーに笑うと、私に手を伸ばしてきた。

 私はびっくりして『バッ』とひーの後ろに隠れてしまう。

「あらら。嫌われちゃったかな?それじゃあ、またね。」

 私の態度は、普通の人なら嫌悪すら懐く類のものだった。なのにも関わらず、看護婦さんは優しく微笑むと、そのままナースセンターへと戻っていった。

 なんで怒らなかったのだろう?

 そんな疑問が沸いたけれど「それじゃあ、もどろっかぁ。」とひーに声をかけられて、私はそれに『コクリ』と頷いて、それを考えるのをやめた。

 静かな廊下をひーに抱きついて歩く。

 なんて情けないのだろう。

 私は、本当に弱い人間だ。

 病室に着くと、ベットに二人で腰掛けた。

 ひーはサンドイッチ二つとお茶を取り出して、私に「はい、りんの分だよぉ」と笑って渡してくれる。

 何故、ひーは私にここまでしてくれるのだろう?

「ありがと」

 私はひーのことを考えながら、小さな声でそう呟くように言って、それを受け取る。

 ひーは笑顔で「どういたしましてぇ」と言ってくれる。

 ひーにとって今の。ううん、これからの私は重荷でしかない。

 それなのに、何故ここまでしてくれるのだろう?

 サンドイッチの包みを開けて、一口だけぱくりと食べる。

 お母さんのサンドイッチとは、味がやっぱり違う。

「りん?大丈夫?美味しくなかった?」

 ひーが心配そうな声を出して、私は頬を温かい物が伝っていることに気がついた。

 ああ、私は今泣いているのか。理由はなんとなくわかる。

 もう、お母さんのサンドイッチが食べられないことが分かったから。

 もう、お母さんに会えないことが分かったから。

 お母さんの温かさも、お父さんの優しさも。

 もう知ることが出来ないから。

 実感がなかった。

 もう会えないなんて。

 もう抱きしめてもらったり、朝ごはんを作ってもらったり。

 わがままやお願いを聞いてもらえないなんて。

 そんなの、分かりたくない。知りたくない。

 耳を塞ぎたい。

 目を瞑って、泣き叫びたい。

「りん、大丈夫。大丈夫だからね?ひーが居るから。」

 またひーが励ますように言葉をくれる。

 優しく頭を撫でてくれる。

 涙が、溢れて。

 それが止まらなくて。

 声まで溢れ始める。

 ひーが抱きしめてくれる。

 頭を『ぽんぽん』と撫でながら「大丈夫。大丈夫。」と言ってくれる。

 私は、本当に弱い。

 今だって、ひーに迷惑をかけている。

 強くならなくちゃ。

 ひーに頼らなくていいように、強くならなくちゃ。

 だけど、今だけは。

 今夜だけは「ひー。ぐすっ。うぅ、ごめん。ひっく。」頼らせて。


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