3.月と太陽
3.月と太陽
また明日と言う言葉通り、理玖は再び夜中にやって来た。
カーテンを閉め切った、光の差さない真っ暗な部屋で、ぼんやりとしか見えない互いの躰を求める。
同じ屋根の下で眠る両親に気付かれてはならないと必死で声を堪えるあたしを、理玖はいつも愉快そうに密やかに笑う。
「真緒の我慢する姿、電気つけて見てみようか?」
「…………っ! ダメ!」
恥ずかしさのあまり、体ごと顔を逸らした。
理玖はその自分に向けられたあたしの背中に、唇を這わせた。
「ちょっ……、理玖……」
「真緒、俺のこと好き?」
すう、と唇が背中を流れて、体がしなる。くっ、と喘ぎ声が漏れそうになるのを慌てて手で塞ぐ。
甘やかな啄みは止まず、時折しるしを残すように柔らかな痛みを残す。
「理玖。もぉ……あ……」
「好き? 真緒」
「……き。好き、理玖」
「もっと言って」
「好き。好き。理玖が好き」
「もっと」
理玖はいつも、あたしにそう言わせる。
何度も何度も。
でも、自分からは、言わない。どれだけ求め合っている最中であっても、微睡みながら抱き合っているときであっても決して言わない。
あたしに対して、好きなんていう感情がないのだろう。
多少の好意はあるだろうけど、きっとそれだけ。
あんな始まりだし、セフレくらいの認識かもと思う。
それは、本心で言えば辛いけれど、しかし仕方のないことだと思っている。
全てを知っていて、それでも二番目でいいと言ったのは、あたし自身なのだから。
辛いなんて感情には蓋をして、今こうして過ごせる時間を大事にするしか、あたしには出来ないのだ。
一方的に繰り返し言うその言葉は、それでもあたしの躰を次第に熱くさせる。
好き。
理玖。
もっと熱くさせて。
背中に落ちていた唇が、ゆっくりと腰に、その下に落ちてゆく。
熱を増した口づけに、あたしは体を震わせた。
「――ん……。みず……」
ベッドの枕元に置いておいたペットボトルに手をのばす。
少しだけ温くなったミネラルウォーターを喉に流し込んで、大きく息を吐いた。
「はい。理玖」
「ん」
差し出すと、理玖は喉をならしてそれを一息に飲んだ。綺麗な喉元が露わになり、喉仏が上下する。その姿を見ながら、ベッドに体を横たえる。
今は、何時だろう。
まだ夜明けには早いはず。
まだ、理玖と一緒にいられるはず。
時計が掛けられている壁に目を凝らしていると、理玖が毛布をかけてくれた。
「ありがと」
理玖と離れた体は、さっきまで熱いくらいだったのに、少しずつ冷えていっていた。
その横に、理玖がするりと入ってくる。
暖かい毛布の中で、あたしは理玖に抱きつくようにしてくっついた。
「真緒」
「なに?」
理玖はあたしの髪、理玖の好みだからとずっと伸ばしている髪を手で梳きながら、優しく名前を呼ぶ。
「眠たい?」
「少しだけ。理玖は?」
「大丈夫。真緒はもう寝ていいから、寝な? 俺は後で勝手に帰るから」
さっきまでの荒ぶっていたセックスが嘘かのような柔らかい仕草、優しい声。
理玖はいつも激しいばかりではない。
あたしを物のように抱いて帰ることもあるけれど、大抵はこうして穏やかな時間を過ごす。
時には痛みを感じさせる手も、ゆっくりとあたしを撫でてくれる。瞳は、あたしだけを映してくれている。
この時間が、一番好きだ。
安らかな、何もかもを忘れられる時間。ずっと続けばいいと願う時間。
見上げれば、穏やかにあたしを見つめる瞳。
視線が合うと、形のいい唇が微かに笑む。それに触れようと手を伸ばせば、悪戯にぺろりと舐められて、忍びやかにくすくすと笑う。
束の間、夜の間のこの時間が、どんな時間よりもあたしを幸福で満たしてくれる。
この時間が永遠なら。
叶うことのない夢を、愚かにも見てしまいそうになる。
「疲れただろ。もう、寝な?」
頬にかかった髪を一筋払って、理玖が言った。もう明け方近いだろうし、と続ける。
寝たくない。この時を一秒でも長く過ごしたいんだよ、あたしは。
喉まで出かかる言葉を飲み込んで、あたしはにっこり笑う。
「ん、わかった。じゃ、おやすみ」
「おやすみ」
目をぎゅっと閉じ、理玖の胸元にぴったりと頬を寄せた。
理玖の鼓動を聞き、髪に絡む理玖の指先を感じながら、眠る。
疲れた躰は、いつも気持ちとは裏腹に、あっさりと眠りについてしまう。
今日も、気付けば意識を失っていた――。
ケータイのアラームで目を覚ますと、隣に理玖の姿はなかった。
カーテンの僅かな隙間から太陽の光がこぼれているのを見て、溜め息をつく。
幸せだと感じた後の、虚しさが辛い。
優しい夜を過ごすと、幸せと虚しさの落差が激しくて、心がぐらぐら揺れる。
理玖が帰っていく背中を見るのが辛くて、帰らないでと縋りたくて。
いつも無理矢理にでも眠るのは、そんな風に取り乱して理玖を困らせたくないからだ。
眠ってしまえば、起きるまでは幸せな気持ちでいられる。
あたしの、己の弱い心を守るための拙い手段だ。
とは言っても、起きたあとのこのやるせない気持ちまではどうしようもなくて。
裸のままで眠っていたあたしは、自分の体を見下ろして、理玖のしるしを確認する。
「ひとつ、ふたつ、みっつ……」
このしるしが消えなければいい。ずっとこの躰に残ればいい。
理玖がいたと信じられる、理玖に求められたと信じられる、唯一の証。
消えるのならば、せめて。
「消える前に、また来て……」
***
顔を洗って、学校に行く準備を終えた頃には、気持ちも少し落ち着いていた。
昼間は、理玖とあたしは関係のない二人。
夜のことは、太陽が上っている間は考えないようにしよう。
いつものように、髪を一つにまとめて、ブラウスのボタンをきっちりとめる。目の下のクマ隠しを兼ねた黒縁のメガネをかければ、いつもの自分になる。制服を着崩すこともない、地味で目立たない、普段のあたし。
姿見で軽くチェックをしてから、家を出た。
「うー。日差しが眩しい……」
寝不足の瞳に、さんさんとした太陽の光がきつい。二日間まともに眠っていないせいか、体がフラついていた。
今日くらいは早く眠らないとな、と思いながら、頭上に広がる青空を、翳した手の平越しに見上げた。
「――うわ、真緒。顔色真っ青だよ!」
二限目の後の休み時間。
前の席にいる結衣が、振り返ったかと思えば驚いたように言った。
「どうしたの? 大丈夫?」
「え? そんなに酷い?」
授業中、頭がふらつく感覚が始終あって、これはヤバいかもと思ってはいたが、目に見えて分かるほど酷いのだろうか。
結衣を安心させようと笑いかけてみたが、それは大して意味を成さなかったようだ。
結衣は立ち上がるなりあたしの手首を掴んだ。
「酷いよ! 保険室行こう。ちょっと横になった方がいいよ」
「え、そんなに?」
「そんなに! ほら行こう」
結衣が再び手を引こうとした時、三限を知らせるチャイムが鳴った。
「あ、鳴っちゃったね。結衣、あたし一人で行くよ。先生には言っておいてくれる?」
「一人で大丈夫なの? ついて行くよ」
「ううん、大丈夫。ありがとう」
心配そうに言う結衣に見送られて、教室を出た。
人の姿のなくなった廊下をゆっくり歩く。
視界はぐらぐらと揺れており、足が地面に着く感覚がない。
やばい。結衣にやっぱり頼めばよかったかも……。
校舎の一階奥にある保健室を遠くに感じながら、壁に身を預けるようにして進んだ。
天井が頭上にも足元にもあるような感覚で、目の前の景色はぐるぐる回っている。遊園地のアトラクションに放りこまれてしまった気分だ。
せめて、保健室までしっかり意識を、と思いながら歩いて、ようやく保健室の表札のあるドアまでたどり着いた。
「す、すいませ……」
ドアをノックすると、中から返事が聞こえた。
よかった、ついた、とほっとした途端、目の前が真っ暗になった――……。
「――ん……。あ、れ?」
ふ、と目を開けると、見慣れない天井があった。妙に白い天井。どこだろう?
ゆっくり体を起こして、辺りを見渡す。
白い布張りのパーテーションに、健康を促すポスターが貼られた壁。微かに鼻につく消毒液の臭い。ここは保健室だということに遅れて気がついた。
そうだ。あたし、保健室に行こうとして……。
ドアをノックしたところまでは覚えている。
そこであたしは気を失ってしまったんだろうか。
今、何時だろう? きょろきょろと見回しても、時計がない。
ケータイは教室に置いてきてしまったし、どうしよう。
「あれ、起きた?」
不意に背の高いパーテーションの向こうから声がして、ひょこりと顔が現れた。
「……あれ? えと、先生、あたし……」
それは、現国の片桐先生のにこやかな顔だった。
「驚いたよ。ドア開けたら倒れてるんだから」
どうやら酷い寝不足みたいだよ? と先生が続ける。
「寝たらすっきりした?」
「……あー、はい」
こめかみに手をあててみると、さっきまであんなにぐらぐらとしていた頭がすっきりしていた。
「今、四限目が終わりかけたところだよ。午後から授業にでる? それとも念のため早退する?」
「え、と。大丈夫そうなので午後から授業に出ます。あの、保健の先生はいらっしゃらないんですか?」
この調子なら授業にも出られるだろう。
訊くと、片桐先生はそれがねー、と苦笑した。
「佐藤先生は二限の半ばくらいに急用で帰っちゃったんだよ。で、たまたま授業がなかった俺が留守番ってわけ。
授業が終わるまであと十分くらいあるから、それまでゆっくりしてるといいよ」
先生はそう言って顔を引っ込めた。
「はい。すみません……。っ!?」
姿の消えた先に頭を下げてから、ブラウスのボタンが一つ外されているのに気がついた。
何で!?
もしかして、先生が外したんだろうか。
鎖骨辺りには、一昨日の晩に理玖がつけたキスマークがいくつもある。それを隠すために、ボタンを留めていたのに。
まさか、見られた?
慌ててボタンを留めた。大丈夫、だよね? 一つ外したって、簡単には見えない、し。
それに、先生の態度は普通だったし、気付いてないってことだよね……?
パーテーションの向こうの気配を窺っても、本でも読んでいるのか紙がめくられる音しかしていない。
……とりあえず、知らないふりをしてよう。
仮に見られてたとしても、キスマークなんて、先生くらいの大人の男になれば見慣れたものだろうし。
うん、そうだ。別に、大したことじゃない。
キスマークつけられた、とか更衣室でもよく聞く話だし。
隠すことなく、むしろ見せつけるかのようにしていたクラスメイトを思い出す。
あんな子もいるんだし、別に気にするほどでもないよね。
よし、と自分に言い聞かせていると、チャイムが鳴った。
その音に急かされるようにベッドから降りて、先生に声をかけた。
「あの、お世話になりました。迷惑かけて、すみませんでした」
「はいはい、気をつけて。あ、これ、保健室の利用証明書。担任に提出するように」
机の傍まで行くと、本を読んでいた先生が顔を上げて、紙をひらひらと振った。
あたしを見る顔に特に変わった様子はないことにほっとする。
「はい。じゃあ、失礼しました」
「ん。今日は早く寝ろよ」
見られたのかどうかは分からないけど、やっぱり少し気まずい。処置的なことなんだろうけど、意識を無くしている間にボタンを外されてたわけだし。
紙を受け取ると、急いで保健室を出た。ドアを閉めて、ほう、と溜め息をつく。
しばらくは、片桐先生を見ると構えちゃうかもなあ。
そんなことを考えていたあたしは、先生がドア越しにじっとあたしを見つめているなんて、思ってもいなかった。
「とりあえず、職員室に寄ってから教室に戻ろっかな」
独りごちて歩いていると、購買に向かうのか、財布を持った女の子たちが数人、ぱたぱたと走ってきた。
保健室を少し奥に行ったところに、食堂と購買があるのだ。
「見た? うらやましいな」
「だよね。いつも仲良さそうだしさー」
楽しそうな会話が、すれ違いざまに聞こえた。
その後ろ姿を何となく見送って、再び歩きだそうと前を向いた視線の先に、親しげにやって来る二人の姿があった。
「理玖……」
思わず名を呟く。それは、理玖と、理玖の彼女の玲奈さんだった。
購買へ行くのだろう、真っ直ぐにこちらに向かってくる。
楽しそうに視線を絡ませて話をしているのが見て取れた。
ふ、と息を吐いて、瞬間的に波立った気持ちを整える。
同じ学校に通っているんだし、こんな場面は嫌でも見る。分かってはいるのに、心はいつも必ず動揺してしまう。
ああ、歩かなきゃ。
普通に。
二人なんて、理玖なんて興味がないかのように。
そう言い聞かせて、あたしはゆっくり足を進めた。
だんだん、二人が近づいてくる。
理玖の視線が、ちらりとこちらを向いた気がした。けれど、あたしはただ前だけを見て歩いて、そしてすれ違った。
『お似合いの二人』
『うらやましい二人』
理玖と玲奈さんはいつもそんな風に言われる。
短い、茶色がかった髪がよく似合う、少し目元がキツいけれど綺麗な顔立ちの理玖。
柔らかな肩までの長さの髪に、幼くも見えるけれど、可愛い玲奈さん。
くるくる表情を変えて、明るく笑う玲奈さんを、そばでずっと優しく見守る理玖。
中学から付き合っている二人には、しっかりした絆があるのだと、誰もが見て取れた。
あの二人が並んでいるのを見ると、胸の辺りがいつもちりちりと痛む。お前なんか似合わない、相応しくない邪魔者なんだよ、と誰かに言われているようで。
二人の間の僅かな隙間、そこに忍び入っている自分が、ズルいことをしているのだ、と思わずにいられない。
「ああ! 真緒見つけた!」
「……え? あ、結衣……」
背中から声を掛けられて、振り返ると結衣があたしに駆け寄って来ているところだった。
気付けば職員室の前まで来ていたようで、ドアを塞ぐようにして立っていたあたしの後ろには、気難しい顔をした世界史の田中先生が立っていた。
「あ、すみませんっ」
慌てて道を譲ると、田中先生はごほんと咳をして、職員室へと入って行った。
いけないいけない。
ぼんやりしてしまってた。
「もー。保健室行ったらいないんだもん。心配したよー」
「ごめん。これ出しに来たからさ」
ぷ、と頬を膨らませた結衣に、ひらひらと紙を振ってみせる。
「そっかー。でもラッキー」
くすくすと結衣が笑う。
「何が?」
「保健室行ったら片桐先生がいるんだもん。ちょっと話しちゃった。先生ってさあ、かっこいいよねー。真緒ってば、二時間近く片桐先生と一緒だったんだよね。羨ましいなあ」
この際、片桐先生が保険医になってにくれないかなー、と結衣は続けた。
「そお? あたしは佐藤先生の方が気楽だけどな。近所のおばさんみたいで話しやすいし」
「つまんないこと言わないでよ。片桐先生が保健医って想像してみなよ。絶対今まで以上に人気がでるよ。もう、真緒は分かってないなあ」
結衣はやれやれ、と肩を竦めてみせた。
片桐先生は、交通事故で入院した上野先生の代理で来た先生である。おじいちゃんの上野先生の代わりに、かっこよくて若い男性教諭が来たって一騒ぎになったのは、確か二ヶ月くらい前だった。
確か年齢は二十六だったか。大人の雰囲気がして、人気があるとは聞いていたけど、結衣もだったのか、と思う。
「勿体無いって言っても、気分悪くてそれどころじゃなかったし。ていうか二時間寝続けてたからね。にしても、結衣は先生が好きなんだ?」
「やだ、憧れてるだけだよー。あたしにはコウタがいるし。それにさ、先生は絶対彼女いるって」
結衣が少し頬を染めて言う。彼氏がいるとか言いながら、最後は少し残念そうな声色だった。
「先生モテそうだもんねー。でもわかんないよ? 実は年下好きかもしれないし。結衣だってもしかして、さ」
からかうように言うと、結衣はもう、と頬を膨らませた。
「そんなことよりも、早くお昼食べよ。あたしお腹空いちゃった」
「はーい。じゃあこれ、さっさと出してくるよ」
あたしはくすくすと笑いながら、職員室へと入って行った。