2.はじまりの夜
2.始まりの夜
重い体を引きずるようにして学校に行くと、理玖が登校早々に、下級生から告白されたという話を聞いた。
「その場で断ってたらしいんだけどね。彼女がいるっていうのに、それでも告白する人が絶えないってのもすごいよねー」
教えてくれたのは、他人の恋愛話が大好きな結衣。噂に無頓着なあたしに、いつも新しい情報を教えてくれる友人である。
「すごく優しいし、守ってくれそうだし、久世さんを見てたら羨ましくなるもんね。自分が彼女なら、って思う気持ちも分からなくはないけど」
一人で納得した様子の結衣に、曖昧な笑みで答える。
「真緒はさー、あんなモテる幼なじみがいて大変だよね。よく、理玖くんのこと聞かれてるでしょ?」
「あー……うん。でも、幼なじみって言っても、中学生ぐらいからまともに話したこともないから。理玖のこと聞かれても困るんだけどね」
理玖とあたしは、家が隣同士の幼なじみだ。
小さな頃から、兄妹のようにして育ってきた。
面倒見がいい、強気な理玖は、泣き虫だったあたしを、いつも守ってくれていた。
あたしは理玖の背中ばかりを追っていて、理玖は自分の背中に張り付くあたしをいつも笑顔で迎えてくれていた。
あたしにとって、お兄ちゃん、いやそれ以上の存在だった。
「確か、子どもの頃だけ仲が良かったんだっけ? まあ、成長したら考え方や性格の違いが出てくるもんねー」
ふむふむ、と結衣が頷く。
「そう。そうなんだよねー。今の理玖が考えてることなんて、全っ然分かんないよ」
そんな結衣に、あたしはへらりと笑ってみせた。
そう。
理玖の考えてることなんて、全然分かんない。
あたしのこの制服の下の躰は、理玖のつけたキスマークが至る所にある。
きっちりボタンを留めた、ブラウスの下の鎖骨、胸、脇腹、腕。
それに太もも、その付け根まで、理玖のしるしがつけられている。
寝不足な躰は酷く重いし、理玖を受け入れ続けた腰は鈍く痛む。
明け方、涙ながらに眠らせてと懇願したあたしに、今晩も来るからと言った理玖は、疲れた顔をしていたものの、その悪戯な光は消えていなかった。
最近の理玖は、何であんなに責め立てるように、執拗にあたしを抱くんだろう。
どこか苛立ちを感じているように、乱暴に。
……いや、違うか。
理玖は、最初からあたしを荒々しく抱いていたっけ。
あの始まりの夜から……――
『二番目でいい』
そう言ったのは、半年前。
あたしは、生まれて初めてできた彼氏に、捨てられたばかりだった。
「ヤリ捨て」
多分そんな言葉で片付けられるような、思い出も何も残っていない付き合いだった。
やっぱり、好きな人とするべきだった。
あたしは、捨てられた事実より、自分が好きでもない男と寝てしまったのだ、ということが、嫌だった。
真緒が好きだよ、と言う、その言葉に惹かれただけで、何とも思わなかった相手だった。
付き合ってさえいれば、好きになれたかもしれない。
気持ちのなかったセックスも、意味があったと思える日が来たかもしれない。
でも、こうして別れてしまった今、意味はなにもなくなってしまった。
その虚しさに泣けた。
別れを告げられた日、放課後の図書室に、一人残って泣いていたあたしを見つけたのが、理玖だった。
『ヤリ捨てされたんだって?』
投げつけられたのは、優しさも気遣いもない言葉だった。
涙の痕を隠そうとしていた手が思わず止まった。
『何で、知ってるの……?』
久しぶりに口をきいた幼なじみ。
それがこんな会話になるとは思ってもみなかった。
茫然としたあたしを横目に、理玖は手近な椅子にどさりと座る。
不機嫌そうに視線を寄越した。
『男にも、口の軽いのがいるって知ってたか? ろくでもないのに引っかかったな』
嘲笑なのか、鼻で笑う。
『……馬鹿にしにきたの? どこか行ってよ』
『あんな奴が、好きだったのか』
『理玖に関係ない。もう行ってよ』
『好きかどうか聞いてるだけなんだ。好きなら好きって言えば済む話だろ』
理玖はあたしの言うことなんてお構いなしに訊く。
一体、理玖は何がしたくて、今あたしに話しかけてるんだろう。
フラれて泣いている、昔の幼なじみをからかいたいの?
今まで話しかけもしなかったのに、何で今なの?
そう考えると、苛立ちを覚えた。
『別に、好きでも何でもない。本当に好きな人は、他にいるから』
気づけば、言わなくてもいい本心を言ってしまっていた。
『は? 好きでもないやつとヤレるわけ?』
理玖の声音が一気に怒りを帯びた。
『だから、理玖には関係ないでしょ?』
さっきまで止まることを知らなかった涙が、枯れた。
目尻に残る涙の残骸を拭いて、あたしは目の前にいる理玖を見た。
『理玖は、理玖の彼女だけ見てたらいいじゃない』
『今、俺のことは関係ないだろ。好きでもないやつと、何やってんだよ?』
『放っておいてよ! これはあたしの問題なんだからっ』
情けなかった。
自分が馬鹿だと分かっていて泣いていたのに、
それを知られて、そして責めるのが、何で本当に想っている人なんだろう。
『……本当に好きな奴がいるなら、そんなことすんなよ。そいつのところに行けよ』
叫んだあたしに気圧されたのか、理玖が僅かにたじろいだように言った。
声音に、ほんの少しだけ気遣いのような色を感じる。
言い過ぎたと思ったのだろうか。
しかし、その理玖の台詞こそが、あたしに傷を与える。
行けるわけ、ないじゃない。
好きな人――理玖には、彼女がいるんだから。
長く付き合っている、大切にしている彼女が。
だから、忘れようとしたんだよ。
他の人を好きになろうとしたんだよ。
『その人、彼女いるから無理』
『っ! でもさ、告白してみたらいいじゃん。そいつが真緒のことを好きになる可能性だってあるしさ』
『無責任なこと言わないでよ! フラれるの分かってて行けるわけないじゃない』
『そんなの、分かんないだろ。言ってみなくちゃ、始まらないだろ』
苛立ったのか、理玖の声が荒くなる。
黙っていれば、わざとらしい大きなため息を吐かれた。
……知らないくせに。
あたしの気持ちを知らないくせに。
『じゃあ、言えば理玖はあたしの気持ちを受け入れてくれるの!?』
あたしは理玖を見据えて、叫ぶように言った。
出来ないでしょ?
あんなに大切にしている人がいるのに、他の女の子の気持ちなんて迷惑なだけでしょ?
『……俺じゃなくて、真緒の好きな奴の話だろ?』
『だから、その好きな人っていうのが理玖だってば! ねえ、理玖は受け入れてくれるわけ?』
理玖は一瞬ぽかんとし、それから茫然とした様子に変わった。
暇つぶしか、興味本位か知らないけど、話しかけたからって、こんな事言われるとは考えてもなかっただろう。
あたしだって、言うつもりなんてなかった。
ずっとしまっておく気持ちだった。
『……それ、本気で言ってんの?』
『嘘で言うわけない! だから、理玖を忘れたくて他の人と付き合ったのっ。ねえ、もういいでしょ? 放っておいてよ!』
悔し涙が溢れた。
みっともない別れ方まで知られて、そして告白までしてしまった。
こんな戸惑った困った顔を見たくなくて、ずっと隠していたのに、勢いでべらべら喋ったあたしは馬鹿だ。大馬鹿だ。
理玖が、さっさとこの部屋から出て行ってくれればいい。
聞かなかった事にしてくれて構わないから。
声を殺して泣いていたら、理玖がぽつりと呟いた。
『真緒。俺には、玲奈がいる』
『それくらい知ってるってば!』
『玲奈とは、別れられない』
『だから、何よ!? ごめんとかそんな言葉を続けるつもりなら、もう何も言わないでいいっ』
『……二番目、は嫌か?』
それはためらいがちな、呟きに似た声だった。
あたしは意味が分からずに、顔を上げた。
『は? 今、なんて言ったの』
『真緒が二番目でいいって言うなら、その気持ち、引き受ける』
理玖の顔は真剣で、瞳は怒りを滲ませているかのように強い光があった。
『……二番目って、引き受けるって、何』
『真緒がいいって言うなら、二番目の女にしてやる』
身勝手な言い方だ。
彼女にも、あたしにも、不誠実な発言だ。
でも、それに怒りを感じることなく、あたしは問い返していた。
『……あたしが久世さんの、玲奈さんの次でもいいって言えば、理玖はあたしを彼女にしてくれるわけ?』
『ああ』
『じゃあ、そうして』
考える前に、口にしていた。
理玖は微かに目を見開いた。
『一日で一時間でもいい。理玖があたしのそばにいてくれるなら、何番目でもいい』
『本気で言ってるか?』
『理玖こそ。冗談じゃないんでしょ?』
問えば、理玖は小さく頷いた。
何番目でもいい、と言ったのは、本心からの言葉だった。
辛いことになると、分からなかった訳じゃない。
でも、好きでもない男のことで泣く虚しさよりも、好きな理玖のために泣く辛さの方が、幸せだろうと思ったのだ。
『真緒といられる時間は、夜くらいしかない。昼間は真緒のことは見ない。それでも……いいのか?』
『構わない。だから、理玖の二番目にして』
はっきり言えば、理玖の視線が宙をさまよった。
それは、僅かな時間だった。
理玖は乾いた唇を舌で湿らせてから、あたしをしっかり見て言った。
『じゃあ、真緒には俺の夜の時間をやる。その代わり、昼間は全く関係ない、ただの同級生だ』
あたしはゆっくり頷いた。
非道な関係を結ぼうとしているというのに、不思議と心が落ち着いていた。
『……今晩真緒の部屋に行くから、窓開けてろ』
『うん。分かった』
『…………っ』
何か言いかけた理玖が、きゅっと唇を噛んだ。
厳しく注がれていた視線を、ふいっと逸らして立ち上がる。
誰もいない図書室に、椅子が倒れる大きな音が響いた。
『……じゃあ、今日の夜。真緒も、早く帰れ』
そう言い残して、理玖は図書室を駆け出して行ってしまった。
取り残されたあたしは、乱暴に閉じられた扉を見つめたまま、立ち尽くしていた。
その日の夜。家族が寝静まった0時過ぎに、カギを掛けずにいた窓が静かに開いた。
『こうして真緒の部屋に来るの、何年ぶりかな』
カーテンの陰から、理玖はするりと姿を現した。
小学生の頃まで、理玖はいつも窓からあたしの部屋に入ってきていた。
夜中に、探検だなんて言いながらやって来たこともあった。
あたしの部屋は一階の、裏庭に面していたから、小学生でもすんなりと入れたのだ。
数年も時は経ってしまっていたというのに、理玖は馴れたようにベッドに腰掛けた。
離れたところに立ちつくすあたしに、くすりと笑ってみせる。
『時間経ったし、考え、変わったりした?』
二番目っていう話、と続ける。
それを、あたしは首を横に振って答えた。
理玖の方が、気が変わったりしないだろうかと思っていた。
気まぐれで言ったのではないかと、今、理玖が姿を見せるまでずっと不安だった。
『そうか。なら、いい』
『……理玖は、嫌なの?』
小さく問うた声は、少し震えていた。
不安は緊張となって、躰全体を強ばらせていたのだ。
と、理玖があたしを真っ直ぐに見つめた。
切れ長の、茶色がかった瞳。
磨かれた硝子細工のようなそれにはきっと、あたしが映っている。
そう思うと、身震いがした。
その中に、ずっとあたしを捉えていてほしいと、どれだけ願っただろう。
ともすればキツく見える、刺すような眼差しで、あたしを絡めとって、と。
『嫌じゃない』
理玖がはっきりと言い、あたしを見る顔から、笑みが消えた。
『真緒を放っておいたら、同じ事を繰り返すだろ? 他の男に、真緒を抱かせたくない』
躰の奥が、じんと痺れた。
『二番目だけど、真緒はこれからは俺のもんだから。だから、他の男のとこには行くな』
『うん』
行くはずがない。
だって、あたしは理玖がいいんだから。
理玖さえいてくれるのなら、忘れなくていいのなら、他の男なんていらない。
『真緒。こっちに来て』
理玖が手招きした。
その手の動きに引き寄せられるように、あたしはふらふらと理玖の前に立った。
あたしを見上げる理玖の顔は、変わらず真剣だった。
『俺のこと、好き?』
『……好き。ずっと前から』
これが夢なら、覚める前に気持ちを伝えなくちゃ。
そう思うと照れや恥じらいの気持ちなんて湧いてこなかった。
夢?
これは夢じゃないよね?
愚かにも、あたしはここまで来て、まだこの状況についていけてなかったのだ。
頭のどこかで、これが嘘だったらとか、夢だったらとか、まだ考えている自分がいた。
この眼差しや、きつく結ばれた唇。
まばたきする間に、消えたりしない?
幾度となく脳裏に描いた、自分勝手な都合の良い夢ではないかと思ってしまうのだ。
――理玖が好きだと自覚したのは、中学に入学した辺りだった。
幼い頃、並んで眠った幼なじみは、女の子にモテるかっこいい男の子に成長していた。対してあたしは、地味で口下手で、引っ込み思案な性格で、女の子に囲まれる理玖を、遠巻きに見ていることしかできなかった。
二人の距離は自然と離れて、どんどん疎遠になっていった。
理玖が自分の彼女という地位を、他の明るい綺麗な女の子に与えた時には、挨拶すらしなくなっていて。
あたしは並んで歩く二人の背中を黙って見つめることしかできなかった。
それでも、好きという気持ちは捨てられない。
自分の気持ちを知って、四年。それは望みのない四年だった。
その歳月が、あたしを素直に信じさせてくれない。
理玖を見つめていると、腕を掴まれた。
そのままベッドに引き倒される。
ギシ……、と微かな音と共に、理玖の顔があたしを見下ろした。体に理玖の重みを感じ、ふわりと理玖の香りを嗅いだ。
見下ろすのは、過去に寄り添って眠った少年の名残をわずかに残した、愛しい男。
『……真緒。夜の時間ってこういう事だけど、分かってる?』
あたしの両手首を掴んで、腕をベッドに留めた理玖が問うた。
無意識に、ごくりと唾を飲んでいた。
それから、真っ直ぐに見上げて言う。
『分かってる。理玖』
『何?』
『上書き』
意味が掴めずに、理玖が不思議そうに眉を寄せた。
『二回、あの人とした。だから……』
だから、二回して。
早くあたしの体を上書きして。
そう言おうとして、しかしその言葉は理玖に飲み込まれた。
重なったかと思えば、押し入る舌が口内をかき回す。
ねとりとした荒い熱に、己の舌を差し出した。心も、躰も捧げるように。
『……真、緒……』
目を閉じると、理玖の声。
理玖の香り、重み。理玖の手。
夢じゃない。
これは、夢なんかじゃない。
今この瞬間、理玖はあたしだけを見てくれている。
『り、く。理玖……』
抱きしめたらそこに理玖がいる。
ああ、これは現実だ。
躰の奥から溢れる感情に溺れてしまいそうになる。沈み込んでしまわないように、あたしを抱く躰に腕を絡ませた。
首筋、鎖骨、胸元。
唇が落ちる度に、幸福が植え付けられてゆくような気がした。
疼くような僅かな痛みを伴った口づけは躰に快楽と痕を残し、あたしに小さな鳴き声を上げさせる。
少し骨ばった日に焼けた指先が、胸先で物欲しげに主張している尖りを摘まめば、どこから出たのかともしれない甘い声が漏れた。
理玖が触れるところ全てが、震えるくらいに気持ち良かった。
『真緒、ほら……』
『ん……あ……っ』
理玖の指先が躰の熱源ともいうべき場所を這えば、くち、と驚くくらい大きな水音がした。
ぬるりと侵入してくる指を、何の抵抗もなく受け入れる。
指は水の湧き口を求めるように動き出し、それは体中を痺れさせ、声を上げさせた。
『真緒』
理玖があたしの名を呼ぶだけで、抱く腕に力を込めるだけで、頭の中は真っ白になっていって、理玖しかわからなくなる。
理玖が触れてくれさえすれば、限度のない幸福感と心地よさに呑まれてしまう。
ああいっそ、溺れてしまえばいいのか。
全て委ねて、理玖が与えてくれるものに満たされてしまえば、どれだけ苦しくても平気だと思う。
『あ……、やっ……、理玖……っ』
それでも、濡れそぼった中に理玖自身が入ってくるときは、痛みに唇を噛んだ。
『真緒……』
切なそうに眉根を寄せ、理玖が吐息を漏らす。
打ちつけられるのは痛みの塊。
躰の芯を穿つような激しい痛みだったが、それは次第に影を潜め、遠くに別の感覚が迫ってくるような気がした。
『理玖。理玖……』
始まりは、この夜から。
穏やかな光を湛える丸い月が浮かぶ、綺麗な満月の夜だった。