9.儀式
月明かりのあまり差し込まない林で、爽空はただ懸命に修の背中を追いかけていた。
「し、修くん待って!」
上がってしまった息でやっとのこと追いつき、背中を掴む。
「――すみません、お嬢。少し速すぎましたか?」
修はさっと振り返るが、更に前方を進んでいる翼羽はそんなものお構いなしで足を進めていく。
「おい、ちょっと待て翼羽!」
そこで翼羽はやっと振り返り、大げさに溜息を吐いてみせた。
「だから爽空はついてこなくていいって言ったのに」
爽空が手に取った本には遥か昔の言葉が使われており、翼羽ですら大雑把にしか読めないほどだった。儀式についての本に間違いないようだったが、目を通し終えるなり翼羽はその内容も告げず林へ出ると言い出し、それを修と爽空で慌てて追いかけてきたのだ。
「だって、翼羽一人だと何をするか分からないし・・・」
「そうですね。今までの経験から放っとくと碌なことがないのは分かりきってます」
修が同意すると、翼羽はそれを鼻で笑った。
「なら、止めても無駄ってことも学習済みよね?」
放っておくと碌なことがないのは事実だが、止めようとしたところで結局最後には付き合わされる羽目になるのもまた事実だ。それは翼羽が一族の当主だからではない。そうでなくとも今まで翼羽を止められた者などいなかった。
「せめてどこに向かってるのかだけでも言えよ。そうじゃないとこっちも混乱するだけだ」
修が言うと、翼羽は首を傾げた。
「あら、言っていなかったかしら?」
「何でそうところどころ間が抜けてるんだお前は・・・」
呆れたように溜息を吐き、爽空も苦笑する。当主になってもこういうところは相変わらずだ。
「それで、どこへ行くの?」
「川よ」
ぴき、と爽空は全身から音が鳴るかと思われるほど硬直した。
「え・・・今、何て・・・?」
「川、よ。川に向かっているの」
ごう、と耳の奥で激しい水の音が流れ出す。どう考えても錯覚だったが、それを分かっていても頭の警鐘はかんかんと鳴り続ける。
「お、お嬢?一体どうされたんですか」
誰かに肩をゆすられるのを感じたが、それは爽空の恐怖を煽るだけだった。
「やめてッ!!」
「えっ・・・?」
「下手に触らないほうがいいわよ、修。――爽空、大丈夫?」
ふ、と警鐘が鳴り止んだ。気がつくと水音も消え去っている。
「翼羽・・・?」
「よしよし、もう大丈夫よ」
それほど背丈のかわらない翼羽の腕に抱かれ、ぽんぽんと頭を叩かれる。それだけですっと心が落ち着いた。
「・・・ごめん」
「いいえ、私が軽率だったわ。爽空は悪くない」
「・・・何の話だ?」
修は首を捻る。
「――覚えていない?小さい頃、この子川で溺れかけたのよ」
「そんなことあったか・・・?」
三歳くらいのことだから修が覚えていなくても無理はない。しかし爽空の記憶にはそれがはっきりと刻まれてしまっていた。
「おかしいよね。未だに、引き摺ってるんだ・・・」
自嘲してみせると、修は首を振った。
「そんなことないですよ。そういうものは誰にだってあります」
「・・・そう、かな」
「ええ。任せてください。万一のことがあっても絶対に助けます。必ずお嬢をお守りします」
「修くん・・・ありがとう」
「・・・いえ」
修は照れたように微笑んだ。今ならもう、その笑顔の意味が分かる。
“ありがとう”ではなくて、“大好き”と言ってしまえたらいいのに。そう思ったが口に出すことはしなかった。
「――儀式に使う川には、いくつか条件があるの」
一歩前を歩きながら翼羽が話す。少しずつ水音が近付いてきて足がすくんだが、そっと握られた右手の熱がそれを忘れさせてくれる。
「まず、水が綺麗なことと、腰くらいまでの深さであること。まあ、身を清めるのだから当然ね」
翼羽に合わせて足を止めると、急に視界が開けた。
「そして、周辺に月を遮るものがないこと。――どうやらここはうってつけね」
その瞬間風の音も水の音も、ありとあらゆる音が消え去った。
月光に照らされる水面。冷たく澄んだ空気。
一瞬で全てを悟った。ここは、神聖な場所だ。
「――代々、月明一族はここで儀式を行っていたそうよ。中でも一番熱心だったのが、望月家」
あなたには縁のある土地かもしれないわね、と囁かれ、爽空は僅かに頷いた。
無意識のうちに修の手を逃れていた。そうしてそのまま、ふらふらと歩き出す。
「お嬢?」
呼んでいる。誰かが、わたしを。
「爽空!」
ざぶ、と足元が揺らぐ気配がした。
もっともっと・・・先へ進みたい。深く潜りたい。そのまま流されてしまいたい。
このまま・・・月になって、しまいたい。
「お嬢ッ!!」
腕を掴まれた瞬間、聞こえていなかった水音が耳に飛び込んできた。
「・・・・・・川?」
・・・怖い。
「いや・・・!」
怖い、怖い。
「大丈夫です、足はちゃんとついていますから・・・お嬢!」
「聞こえていないわ!いいからそのまま引き上げて――」
そこで、意識は途切れた。
●
爽空を助けるため川に入り、その所為で修は風邪を引いてしまったらしい。
「ねえ、本当にお見舞いにいかなくていいの?」
「修は爽空に看病されたままじっとなんて出来ないわ。絶対に働きたいって言い出す。それに、うつしたりしたら一番自分を責めるのは修よ」
翼羽に言われて渋々引き下がる。仁に釘を刺されたのはそういうわけかと納得がいった。
「とはいえ、おとなしく治るのを待っているのも暇ね」
「暇って・・・仕方ないでしょ」
修が風邪で辛いときにそんなことを言うのは不謹慎だと思いたしなめる。
「そういう意味じゃないわ。私だって心配だもの」
翼羽はそう言って目を伏せる。
「・・・ごめん」
「何のこと?」
とぼけてみせるが、無理をしているのは明らかだった。
どうしてすぐに気付けなかったのだろう。翼羽だってすぐにでも駆けつけたいはずなのに。
「私たちはいつも通り過ごしましょう。きっと修も心配なんてされたくないわ」
「うん、そうだね」
「というわけで、昨日の続きをするわよ」
「そうだね・・・え?」
頷きかけてぎょっとする。
「昨日の・・・続きって言った?」
「もちろんよ。儀式の方法は大体分かったのだもの、いつもの私なら間違いなくそうしているでしょう?」
確かにそれはそうなのだが。
「や・・・やだやだやだ!二度と川なんか行かない!!」
「何言っているの、トラウマを克服する良いチャンスじゃない」
さらっと言うが、昨日の今日でそんな覚悟が出来るはずもない。第一その所為で修に風邪を引かせてしまったというのに、翼羽の脳内に反省という文字はないのだろうか。
「別にすぐ川へ行くわけじゃないわ。まだ道具も揃っていないし」
「道具?」
翼羽は頷く。
「ええ、儀式を行うには鏡が必要なの。それも白銅のものが」
「・・・そんなのあったかな?」
見たことはないが、かつて儀式を行っていたというなら望月家が持っている可能性は高い。
「とにかく、鏡を探しましょう。話はそこからよ」
ふたりは再び望月家に赴くことにした。
「――鏡?それなら私の部屋にあるわよ」
「え、本当に?」
それは拍子抜けするほどあっさりと見つかった。
「これのことでしょ?」
手渡されたのは大きな丸い鏡だった。確かに白銅のようだ。
「どうしたの、これ?」
尋ねると彼女――母は弾けるような笑顔を浮かべ、爽空は瞬時に地雷を踏んだことを悟る。
「これはね~、初めてこの家に来た時みーくんがくれたの。これまあるくってかわいいじゃない?『これかわいいね』って言ったらみーくんてば『君もかわいいよ』って、やぁだもう照れちゃう!」
「あー、はいはい。もういいから」
この両親は何の話題を振っても惚気話に転じるから恐ろしい。一体どんな生活を送っているのだろう。
ちなみに父の名は御影だが、“みーくん”などというあだ名を付けられては威厳もへったくれもない。母のような陽気な性格ではないが、険しい顔で甘い言葉をさらりと口にするようなずれた人である。
「つまり、元々はお父さんのものってこと?」
「そうよ~、みーくんは義父様からもらったって言ってたわ。なんか代々伝わってる物みたい」
「そんな大事なものをあっさり・・・」
まあ、それほど母を愛しているということなのだろう。しばしば放置されることに腹を立ててはいるがそれも寂しさからくるものであって、爽空自身はそんな両親をどうしても嫌いになれなかった。
「――やっぱりあったのね・・・」
昨日の本から目を上げて翼羽は呟いた。もう一度本を読み返すから、と彼女は書庫に行っていたのだ。
「うん。どうかしたの?」
「何だか・・・・・・いえ、何でもないわ。きっと気の所為ね」
翼羽は思い直したように話を続けた。
「さあ、鏡も見つかったことだし早速儀式に取り掛かりましょう」
「えっ、もう?」
「当たり前じゃない。何のために大事な鏡を借りてきたと思っているの?」
「まあ・・・そうだけど、もうちょっと心の準備とか」
「覚悟なんかしたところで変わらないと思うけれど」
「う・・・」
ばさっと斬り捨てられ呻く。確かにそんなもので軽減されるくらいなら苦労しない。
「それに、今日でなくてはだめなの」
「どうして?」
「儀式は満月の夜に行うの。――ほら、今日を逃せば次は一月後になってしまうわ」
翼羽が指差す先には満月が浮かんでいた。そういえば今日はちょうど満月の日だ。
「――この儀式はね、“月の雫”を授かるための儀式なの」
聞き慣れない単語に首を傾げる。
「月の雫・・・って?」
「俗に“若返りの薬”と言われるものよ。もっとも、月詠命様が授けてくださるのはそんな単純なものではないのだけれどね」
若返りの薬の話は聞いたことがある。迷信だと思っていたがどうやらそうではないらしい。
「月の雫はね、生命力を高める秘薬なの」
そこでやっと、翼羽が言わんとすることを悟った。
「それを使えばきっと――結羽姉さまのご病気を治すことも出来るはずだわ」
爽空は思わず息を呑んだ。
「・・・本当に?」
「確証はないけれどね。でもやってみる価値はあると思わない?」
「うん・・・うん、いいかもしれない!」
「あなたならそう言ってくれると思っていたわ。じゃあ川、行ってくれるわよね」
「う・・・」
「・・・呆れた。まだ渋るの?」
翼羽が目を眇めてみせる。爽空は渋々折れた。
「・・・行けばいいんでしょ」
「そう来なくってはね」
嬉しそうに微笑む翼羽に、爽空は内心溜息を吐く。
どれほど渋っても結局押し切られる。やはりどう足掻いたところで翼羽には敵わないらしい、と爽空はもう考えることをやめた。その理由に、気が付かなくてはいけなかったのに。
「――じゃあ、始めるわ」
翼羽は身を清め始めた。月光を反射して、右手の白銅鏡がきらりと輝く。
辺りは静かな光で満ちていて、まるで翼羽自身が月の光を放っているかのように爽空には見えた。
・・・それは錯覚だと、分かっているのだけれど。
「待っていて。必ず力を手に入れてみせるから」
「翼羽・・・」
微笑む翼羽が、遠い。
このまま爽空の知らないどこかへ行ってしまいそうな、そんな気がした。
「待って・・・!」
静止の声は届かず、翼羽は誓言を唱え始める。儀式が始まったのだ。
「――今 命が為に日世界なる御魂を捨て、我月人たらんと欲す」
翼羽は手にした白銅鏡で水をすくい、空に掲げた。
「――我に、月の御加護を与えたまえ」
そしてその鏡を傾ける。僅かに溜まっていた水は縁を伝い、翼羽の右目にぽつりと、雫を落とした。
その瞬間、視界が真っ白に染まり――道は、開かれた。
翼羽の背中から真っ白な翼が生える。
「・・・これが命様の翼なのね」
それは人が背負うにはあまりにも不釣合いな、神の翼だった。それに小柄な翼羽の体躯には大きすぎる。
その眩しさから目を背けようと空を見上げると、視界の端に何かが映った。
「なに、あれ・・・」
遥か上空にぼんやりと、小さな光が見える。
翼羽が手を伸ばす。光はゆっくりと降りてきて、その手の平に収まった。
それはごく小さな、小指の長さほどの小瓶だった。
「これが・・・」
「月の雫・・・!」
翼羽と爽空は顔を見合わせた。




