6.修
太陽の昇らない夜の星、月世界は月詠命と呼ばれる神が創世したとされている。
日光を得られないため活動はあまり活発でなく、人間たちは皆一様に不健康な白い肌をしていた。スラムがあちこちに出来て治安も悪化する中で勢力を拡大していたのは月明一族――月詠命の力を最も濃く受け継ぐとされる一族だった。月明かりを思わせる金色の髪と瞳はその象徴であり、本家の人間は特にそれが美しいと言われる。
しかし近年はその力も衰えて単なる中流貴族に成り下がり、先代の当主が亡くなってからはそれに拍車がかかっていた。そして先代のころから月明家に仕えているのが仁という執事で、その一人息子が修という少年であった。
「――翼羽、もう飯出来てるぞ。早く食べに来いよ」
修が扉の外から声を掛けると彼女はあー、とかうーとか曖昧な返事を寄越したが、部屋を出てくる気配はなかった。
「おい、翼羽ってば」
もう一度呼びかけるがやはり返事がないので、修は仕方なく扉を開ける。本来許可なく入ってはいけないのだが、幼馴染なので今更気にすることでもない。
「翼羽、仕事なら食べてからにしろよ。いい加減身体壊すぞ」
「溜まっているのだから仕方ないじゃない。全く、誰かさんが手伝ってくれないから・・・」
「仕方ないだろ。ただの雑用係にそんな仕事任されても困る」
そう答えると翼羽は黄金の髪を振り乱し、ばんっと叩きつけるように判子を押して泣き叫ぶ。
「この作業のどこが雑用じゃないっていうの!?ただひたすら判子押すだけよ!?」
「いや・・・だって難しいことは親父に任せてるんだし、翼羽に出来ることなんかそのくらいだろ」
3年ほど前に先代である父親が亡くなったことで翼羽は7歳にして月明一族の長となった。分家の方から当主を迎えることも検討されてはいるが、その器となる人物がなかなか見つからないため現在は執事長である仁に雑務のほとんどが一任されている。
「そりゃあそうだけれど、私書類を読んですらいないわよ?それなら修が判子押したって一緒だと思わない?」
そう言われればそうなのだが、そんなことを仁が許すわけがなかった。何せ修は翼羽と異なり学業に熱心でなく、書類に使われるような難しい字はとてもではないが読みこなせない。読めたとしてもおそらく理解することはできないだろう。
あくまでも当主は翼羽なので何もやらせないわけにないかない。その点判子は書類を読まなくても押せるのだから格好の仕事だ。仁のことだから先に自分で目を通して内容を確認した上で渡しているのだろうが、翼羽が書類をきちんと処理しないのは黙認しても修が同じことをすれば理不尽にどやすに違いなかった。
「分かった?だから修も手伝って――」
その時部屋の扉が控えめにノックされた。修はびくっと身体を震わせる。
「――翼羽様、少々よろしいでしょうか」
「何かしら、仁?」
扉の向こうの仁は皮肉気な口調で尋ねる。
「こちらにうちの修がお邪魔してはおりませんでしょうか?お食事のお知らせをしに伺ったきり一向に戻らないのですが・・・」
そういえば当初の目的をすっかり忘れていた。これは確実にどやされる、と苦い顔をした修に対し翼羽は暢気に返した。
「あら、修ならさっきからここにいるわ。仕事をさぼって、ね」
「はあ!?さぼってなんかねえよ・・・って、あ」
「修・・・翼羽様への敬意を忘れるなとあれほど・・・」
恐る恐る振り返ると、仁が眼鏡の奥の茶色い瞳を光らせて戸口に立っていた。
「いいか、たとえ幼馴染だとしてもお前は翼羽様にお仕えする身だ、わきまえろ!!」
「いや、でも翼羽が・・・」
「“様”をお付けしろ“様”を!!」
「痛てッ!?」
容赦なく拳骨が落とされ、修は頭を抱える。
「そのくらいにしてあげなさい、仁」
翼羽の助け舟に仁ははっと我に返り、慌てて頭を下げた。
「申し訳ありません。見苦しいところを・・・」
「いいわ。食事が出来ているのだったわね?すぐに行くから」
「え、そんなあっさり・・・」
「何かしら、修?」
呆気にとられていると翼羽はにっこりと笑う。その笑顔は暗に、判子の件の腹いせだと主張していた。
翼羽が出て行き、部屋に仁とふたり取り残される。
「さて、修」
「・・・はい」
これから小一時間は続くだろう説教を思い、修は仕方なく覚悟を決めるのだった。
厨房で皿洗いをしていると、後ろから声が掛かる。
「お説教は終わったの?」
「・・・まあな」
翼羽の要領の良さはいつものことなのでもう気にする方が馬鹿らしいというものだったが、それでも気分はよくない。
「入って来るなよ。ここは主の来るところじゃない」
憮然とした口調で注意すると、翼羽は鼻で笑った。
「修こそ、そんな口の利き方をしているとまた仁に絞られるんじゃない?知らないわよ」
「・・・お、お出になってくださいませ。翼羽様」
そこを突かれると弱い。慣れない敬語で再び注意するが、もちろん効果はなかった。
「他の子相手だとちゃんと出来るのに、どうして私にはそんな態度しかとれないのかしら」
翼羽は心底不思議そうに首を傾げてみせる。
「そんなの・・・付き合いの長さが違うからだろ」
「それだけでそんなに変わるもの?」
「ガキの頃から一緒に育てば兄弟も同然だからな」
物心ついた頃は主だ使用人だなんてことは気にしなかった。いきなり主従関係を結ぶよう言われても修にはよく分からず、おかげで執事見習いになって5年ほど経った今も昔の癖が抜けきっていない。
「兄弟、ね・・・。もちろん私が姉で修が弟よね」
「そんなわけないだろ。俺が兄貴でお前が妹だ」
「翼羽様が主で修が使用人に決まっているだろう」
「は?」
突然割って入った台詞にぎょっとして皿を取り落とす。
「おっと。気を抜くなと言っているだろう、修」
それを床に落ちる寸前で掴んでこちらを睨みつけたのは紛れもなく父だった。
「――翼羽様、そろそろご就寝になられてはいかがですか?明日は会合に出なくてはなりませんので」
「それは私が行かなくちゃ駄目なの?」
「ええ。他の一族の方がいらっしゃるので代理で済ませるわけには参りません」
そう言うと翼羽は心底煩わしそうな表情を浮かべた。
「・・・分かった、もう休むわ」
「おう、ゆっくり寝ろよ」
「“お休みなさいませ”だッ!!」
また容赦ない拳骨が落ちてきて、修はしぶしぶその台詞を復唱した。
「・・・修」
翼羽の足音が聞こえなくなったところで、しばらく黙っていた仁がおもむろに口を開く。
「何だよ?」
「翼羽様は主だ、断じて兄弟などではない。身の程をわきまえろ」
「分かってるよ。あんなのただの例えだ、本気で思うわけないだろ」
金色の髪と瞳は全てを与えられた者の証。翼羽にはそれがあり、自分にはない。無論仁にもだ。それが翼羽と修の決定的な“差”であり、それこそが翼羽に生涯を捧げる理由だった。
「・・・あいつは、俺が必ず守る」
――仁が、そうしているように。
彼女を失うことがあってはならないのだ。敬意こそ払えなくてもその決意だけは揺らがない。
「・・・いい心構えだな」
珍しく褒められたかと思えば、
「“翼羽様”とお呼びしろと言っているだろう」
結局また頭をはたかれて、けれどその手はいつもより優しいような気がした。
●
「――いいか、絶対に部屋から出るなよ」
仁が鬱陶しいほどに釘を刺してくる。
「・・・ああ」
修は掠れた声でなんとかそう返した。
「外には常に人を置いておく、何か用があったら声を掛けろ。いいな?」
「分かったから、早く行けよ」
本来ならとうに仕事を始めている時刻だった。自分の所為で遅れでも出たら癪だ。
「・・・とにかく一刻も早く治すことだ。今日はゆっくり休め」
布団越しに聞こえた台詞には返事を返さず、修は寝たふりを決め込んだ。
何年ぶりかの風邪をひいてしまったのは昨日遅くのことで、修は今日一日自室に閉じ込められることとなった。下手に出歩いて翼羽にうつしでもしたら大事になる。その判断は正しい。
「寝てろって言われてもな・・・」
治さなくてはならないのは分かっているが、一日寝ているだけというのは何とも居心地が悪い。普段ならば仕事をしなければどやされるので、急に何もしないでいいと言われるとかえってどうしていいか分からなかった。
「・・・思った以上に、染みついてるんだな」
ふと、そんなことを思った。仁に監視されながら働く日々を息苦しいと思っていたはずなのに、解放されてみれば仕事を出来ないのがもどかしくて仕方ない。
仕事人間である仁を嫌っていたはずが、いつの間にかその背中を追いかけていたらしい。
「・・・超えるべき背中、か」
いざ壁として捉えてみるとそれはあまりにも遠く、高かった。
「いつになったら・・・追いつける?」
伸ばした手は月夜に照らされて青白く光る。それは高熱の所為かゆらゆらと揺れていかにも頼りなく、自分の手はこんなにも細かっただろうかと修はぼんやり考えた。
風邪を引いたのは自分の責任だ。仁ならばもっと上手く処理していたはずだった。仕事にすっかり慣れた気でいても、結局仁に比べればまだまだ未熟なのだと思い知らされる。
「・・・駄目だな」
まだ全然、届かない。その背に掠ることさえままならない指先は虚しく宙を漂う。
「“親父”・・・か」
修は仁に拾われ育てられているだけの身だったが、しかし修にとって仁は紛れもない父親であり、目標となる存在であることに変わりはない。
――“仁さんはちゃんと想ってるよ、修くんのこと”
いつだったかそう言われたのを思い出す。
――“たとえ血が繋がっていなくても修くんは大事にされてる。それってすごくいいなって思うんだ”
わたしは、そうじゃないから。そう呟いて寂しそうに笑った“彼女”。『そんなことはない』などという気休めすら掛けられないほど、“彼女”の身体は小さく見えた。気丈なようでいて脆いその身体を抱き締めてやれるほど、そのときの修は強くなかった。
“彼女”のための力が欲しい。脳裏に浮かんだのは仁の茶色い瞳だった。
「くそ、あんな奴すぐに追い越してやるってんだよ・・・」
翼羽を守れるような男になった時、きっと“彼女”のことも支えられるようになる。今はちっぽけなこの手にもきっと、出来ることがあるはずだ。そう信じたかった。
海色の瞳に闘志を燃やして――そうして修は、静かな微睡の中へ落ちていく。
『――翼羽様をお守りするのはお前だ、修』
頭の中に仁の声が響く。
「・・・分かってるよ。俺にとっての主はあいつだけだ」
“彼女”も翼羽も、修にとってはかけがえのない存在だった。しかし主はあくまでも翼羽だ。
『分かっているならいい。最後まで職務を全うすることだ』
夢の中でまで父は厳しく、修はそれに頷きながら意識を手放した。
仁と翼羽が死んだということを知ったのは、その翌日のことだった。
立ち行かなくなった月明家を去り、修は分家である望月家の使用人として働き始める。しかしその当主も亡くなり、夫人もそのあとを追うように息を引き取った。使用人は次々といなくなり、しかし修だけはその屋敷を離れようとはしなかった。
――“一度決めたら貫け。最後まで責務を果たすのが我々の務めだ”
父の教えを忠実に守りながら、支えるべき想い人のために修は独り働き続けた。




