5.異変
はっと目を覚まして飛び起きる。
「ここは・・・」
ガラスのない窓から月明かりが降り注ぐだけの無機質な部屋は、記憶を失くした直後の病室を思わせた。
「そうだ、沙陽は・・・!」
ここが病院だとすれば、やはり川に流されたのだろうか。そう考えて沙月はある可能性に思い至った。あの後の記憶はない。もし自分が川に落ちてしまったとしたら沙陽は間違いなく助けようとするはずだった。
「もしかしたら、わたしを助けて・・・」
沙月は居ても立ってもいられなくなりベッドから降りようとした。しかし腕が何かに引っ張られる感触に立ち止まる。
「・・・ごめんなさい」
勝手を侘びながら点滴を外してベッドから降りると、急に立ち上がった所為か足が妙にふらついた。
「一体どのくらい眠ってたんだろう・・・」
貧血でずきずきと痛みはじめた頭を押さえる。点滴を外した腕は痩せ細っているし、病的なまでに白かった。
「・・・あれ?」
違和感を覚えて触れてみると、襟足までしかなかった髪が背中まで伸びていた。しかもその色が薄い。月明かりにかざしてみると、それは控えめな金色をしていた。
「染めた・・・?にしては綺麗な色だけど・・・」
しかしそんなことを気にしている場合ではない。一刻も早く沙陽の無事を確認しに行かなくてはならなかった。
沙月は壁を伝いながら部屋を出て、長い廊下を歩き始めた。力が入らずに震えているこの足が恨めしい。走ってでも沙陽を探したいのに、がりがりに痩せた手足は全く言うことを聞かなかった。
「――・・・お嬢?」
ふいに後ろから聞こえた声に振り返ると、そこにいた少年は海色の目を見開いた。
「お嬢!目を覚まされたんですね!!」
同い年くらいに見える少年はそう言って駆け寄ってきたが、沙月の方は首を傾げた。
「えっと・・・誰だっけ?」
「何言ってるんですか、修ですよ。執事見習いの修です」
「修・・・くん」
どこかで会ったような気はするのだが、どうにも上手く思い出せない。きりきりと痛み出す頭で考え込んでいると、修と名乗った黒髪の少年は目元を拭って明るい声を出す。
「本当に良かった・・・あ、お腹空いてますよね。今何か作りますから待っていてください」
先ほどからきゅるきゅると鳴っているお腹を思えばそれはとても有難い申し出だったが、沙月は肩を貸そうとする少年を制して尋ねた。
「あの、沙陽がどこにいるか知らない?さっきから探してるんだけど」
「“さよ”さん、ですか?いえ、この辺じゃそんな名前は聞きませんが」
「そう・・・」
少年の答えに沙月は肩を落とした。どうやらここにはいないらしい。
「後で一緒に探しますよ。でもまずは腹ごしらえです」
「・・・そうだね」
この状態では満足に歩くこともままならない。ここにいないということは別の病院にでも搬送されているのかもしれないし、体力をつけてからまた探すことにしよう。沙陽はきっと生きている。焦ることはない。沙月はそう自分に言い聞かせてはやる胸を抑えながら、少年と共に病室へと戻った。
「・・・おいしい」
沙月はしみじみと呟いた。急にたくさん食べては身体に障るからと修が用意したのは少量のお粥のようなものだったが、素朴な味が胃に染みて涙すら零れるほどだった。
「――ねえ、ここってあなた以外に誰も居ないの?随分静かだけど」
先程から思っていたことを口にすると、修は頷いて僅かに目を伏せる。
「ええ、当主様が亡くなられてからは使用人も減りまして・・・今は、俺だけです」
「なんか・・・その、ごめんなさい」
聞いてはいけないことを聞いてしまった気がして謝ると、修はとんでもない、と首を振った。
「謝らなくちゃいけないのは俺の方ですから・・・。申し訳ありません、お嬢」
修は床に膝をついて深々と頭を下げた。
「俺の力が及ばなかった所為で、ご両親を死なせてしまいました。本当に申し訳ありません」
「ちょ、ちょっと何してるの修くん!顔上げてよ」
しかし修は顔を上げようとしない。ここにきてようやく、沙月はずっと頭を占めていた違和感の正体に気付き始めていた。きっと修は人違いをしているのだ。この見た目だから間違えもするだろう。沙月には母はともかく父親などいない。
「・・・そういえば、修くん」
話の端々から気になっていたことがあった。
「わたし、一体どのくらい眠ってたのかな?」
毛先を弄びながら尋ねると、修は床につけていた額を上げて恐ろしい言葉を口にした。
「――ちょうど、6年が経ったところです」
沙月は言葉を失った。冗談だと思いたかったが、修の瞳は真剣だ。
「ですから本当に、目を覚まされたときどれだけ嬉しかったか・・・!」
「ま、待って。6年ってそれ、本当に・・・?」
おかしい。
遠足に行ったこと。
母と三人で映画を観に行ったこと。
そして日食の時に起こったこと。
それらを昨日のことのように覚えているのに、それが6年も前のことだというのだろうか。しかしこの衰弱した身体と伸びた髪がその言葉に説得力を持たせていた。
「わたし、6年も・・・」
「はい。でも・・・待ち続けて良かったです」
こうしてまたあなたに会うことが出来ましたから、と修はやつれた顔をくしゃっとさせて微笑む。それがひどく温かくて、何だか胸がじんとして――だがその心は一気に冷えた。
違う。修が待っていた人物は“お嬢”と呼ばれる少女であって、沙月ではないのだ。
「・・・修くん、あのね――」
「何でしょうか」
その無防備な笑顔が沙月の口を封じた。言えない、『わたしはあなたの待っていた人じゃないんです』なんて、告げられるはずがない。やっと想い人に再会できたと喜ぶ彼を再び落胆させることには相当の覚悟が必要だった。
だがいつまでも知らないふりではいられない。このまま話していればいずれ悟られてしまうだろう。覚悟を決めて口を開こうとしたその時、修の指が沙月の手に触れた。
「・・・親父が死んだとき、思ったんです。もう二度とこんな思いはしたくないって」
「修くん・・・?」
「想いを伝えられなかったらきっとまた後悔する。だから、言わせてください」
海色の瞳がじっとこちらを見つめる。その焦がれるような真っ直ぐな視線に、沙月は修の言わんとしていることを悟った。
「身分が違ったって構わない。俺は、あなたが・・・」
「だ、ダメッ!!」
言いかけるのを慌てて静止する。虚を突かれて彼は戸惑うように瞳を揺らした。
「・・・お嬢?」
「それ以上言っちゃダメだよ、修くん。だって、わたしは・・・」
あなたが想っている女じゃないから。そこまで言えずに口ごもる。
「・・・そうですか」
それを修は別の意味に解釈したようで、哀しそうに目を伏せた。
「修くん――」
「いえ、身の程もわきまえず申し訳ありませんでした」
「違うの、そういうつもりじゃ・・・!」
「・・・御用がございましたらお声掛けください。すぐに伺いますから」
そう言って修は、そのまま部屋を出て行った。




