2.川下り
6月の終わりには遠足がある。
学校からバスで2時間ほどのところにある河原に行くだけの簡単なものだが、沙陽のテンションは最高潮だ。
「バーベキューだよバーベキュー!BBQ!!」
前の晩も興奮し通しで何度も読書の邪魔をされた。単に覚えたてのアルファベット語を披露したいだけにも聞こえるが。
「どうしてそれでテンションが上がるのかさっぱり分からないんだけど」
「だってウチでやったことないもん。楽しいんでしょ、あれ?」
正確には事故に遭う前に一度やったらしいが、それはノーカウントだ。
「バーべキューはおまけでしょ。メインはあくまでも川下りだし・・・」
「あ、それもあった!わー、どうしよう楽しみすぎて眠れないかも」
「お願いだから寝て。出来たら今すぐに寝て」
推理小説を読んでいるのに、さっきから集中力を削がれている所為でまったくトリックが分からない。
「え~・・・あ、だったらさあ、“よく眠れるおまじない”してくれない?」
「おまじない?何それ」
「昔よくやってくれたじゃん。おぼえてるでしょ?」
そう言われても全く覚えがなかった。
「知らない。ねえ、それいつ頃の話?」
首を振ってみせると沙陽ははたと気付いたように呟いた。
「ああ、そっか。あれはちがうね・・・ごめん、あたしの勘違いだった」
「・・・そう?」
そのまま読書に戻ろうとしたが、思い直して沙陽に尋ねる。
「――ねえ、そのおまじないってどんなの?」
「え?」
「それをすると眠れるんでしょ?だったらやってあげる」
本をサイドテーブルに置いて沙陽のベッドに移ると、沙陽は頬を指で掻いた。
「うーん、なんかあらためてやるとなるとテレるね~」
「自分で言ったんでしょ。で、どうすればいいの?」
「えーと、電気消していい?」
「あ、そっか」
立ち上がって電気を消しにいき、カーテンの隙間から漏れる光を頼りにベッドへ戻る。
「・・・頭、なでてほしいんだ」
沙月がベッドに腰掛けたのを確認して、横になった沙陽がぽつりと呟いた。
「え、それだけ?」
おまじないというほどのことでもない気がするけれど。
拍子抜けしながらも言われるままに短い髪を撫でると、沙陽はそっと目を閉じる。
「どう、眠れそう?」
「うん。なんかね・・・こうしてるとすごく、ほっとするんだ・・・」
「・・・そうだね」
不思議と同じことを考えていた。自分の方もなんだか安心してきて、静かな眠気が下りてくる。
そのまま、沙月は沙陽と共に眠りについた。
○
翌日。7台連なったバスはうねうねと曲がりくねった山道を登っていた。
沙月は何ともないが、左右に揺れる車体の所為で酔ってしまった生徒も多いようだ。テンションの上がりきらない微妙な空気の中、隣に座ったケイコはぼうっと窓の外を眺めて言った。
「なんかさっきからずっと同じところをぐるぐる回ってる気がするんだけど」
「気のせいじゃない?」
「だってバスで2時間って、学校からすぐなのにそんなにかかる?絶対遠回りしてるって」
悪意を感じるわ、と呟くケイコに弁解する。
「山の周りを回りながら登ってるからでしょ。ちょっと肌寒くなってきたし、登ってはいるよ」
「分かってるけどさ・・・あ、耳キーンってなった」
「ほら、気圧が下がってきた」
と言った自分もトンネルに入ったところで耳が聴こえなくなる。トンネルを抜けるとようやくバスが止まって、元に戻った耳に水音が飛び込んできた。
「着いたぞー、バスから降りたら点呼だからな」
点呼が終わるやいなやライフジャケットを着せられ、クラスごとにボートに乗り込む。
「今日お世話になる田村さんだ。はい、挨拶!」
「よろしくお願いします、田村さん」
「あい、どーもね」
白髪の混じる短く刈った髪を見るに50代後半くらいだろうか、田村さんが片手を上げた。
ちなみに律儀に挨拶をしたのは沙月だけだ。一番近いところに座っているため黙っているわけにもいかない。
田村さんもこういう扱いには慣れているのか、そのまま話を進めた。
「えー、ジャケットはちゃんと着ていますね?留め具が壊れている子は今のうちに申し出ること。騒ぐのは結構ですが、ふざけて身をのりだしたりしないでください。落ちたら放置しますからね~。泳いで帰ってくださいよ?」
さりげない脅しの言葉。泳げない沙月は絶対にボートの端を離さないようにしよう、と固く心に誓う。
「大丈夫、一応足はつくから」
表情で察したのか、田村さんが耳打ちしてくれる。しかし不安は拭えない。
「じゃ、行きますよ~。しっかり掴まっててくださいね」
ボートが動き出した。
ぬるい風と大きな水音に沙月は身体を強張らせる。
「・・・沙月、何か顔恐いんだけど」
しばらくしてからケイコがおずおずと尋ねてきた。
「黙って。今集中してるから」
「全然集中するとこじゃないでしょ・・・」
ケイコは分かっていない。泳げない人間にとって一番恐ろしいものは避けられないプールの授業であり、その次に恐ろしいのは水難事故なのだ。だって水に浸かったら確実に溺れるわけで。
「わたしは手を離したら死ぬ・・・離したら死ぬ・・・」
「足つくって言ってんじゃない・・・」
足がつくから何だと言うんだ。それでも溺れるのがカナヅチの恐ろしさだろう。
ボートの端を掴んだまま硬直している沙月に、ケイコは呆れたような口調で田村さんに話しかけた。
「あの、何か気の紛れるような話でもしてあげてくれませんか?」
「話?うーん、そろそろ岩場に当たるはずだけどねぇ」
沙月からびきっという音がして、ケイコは慌てて沙月の肩を掴んだ。
「大丈夫だから!田村さんプロだから!!絶対安全ですよね!?」
「やー、実は3回に1回くらい転覆しちゃうんだよねぇ」
田村さんはぺろっと舌を出す。なかなかお茶目なおじさんである。
「今そういう冗談いいですから!沙月がなんかもう遠い目をしてますから!!」
「さようなら・・・わたしの人生・・・親不孝な娘でごめんなさい・・・」
「まだ死んでないってば!!あーもう、沙陽なんとかしてー!!」
双子の姉は現在上流で待機中である。今頃順番が来るのをわくわくしながら待っていることだろう。
「この先揺れますよ~、歯を喰いしばって!!」
ボートが大きく進路を変える。岩をさけて進んでいるようだ。
男子たちはぎゃあぎゃあと騒いで面白がっており、女子たちも跳ねる水飛沫に歓声を上げている。
流れが静かになった頃、田村さんが再び口を開いた。
「――あ、そういえばずっと下流の方へ行くと開けた場所に出るんだ。あそこは周りに木もないからなかなか見晴らしがよくてね、いい眺めなんだよ」
「・・・そういうのはもっと早く言って欲しかったんですけど」
ケイコが溜息を吐く。視線の先では沙月がボートを掴んだ姿勢のまま失神していた。
「――あ、いたいた!」
少し遅れて沙陽が下流にやってきた。
「あれ、なんか痩せた?」
沙陽が座り込んでいる沙月を指差すと、ケイコは心底疲れきったような声を上げる。
「今日ほど沙陽が必要だと思ったことはなかったわ・・・。本当に水苦手なのね、沙月」
「あー、そうなんだよ。昔っからダメなんだ~」
沙陽は暢気に笑って沙月の肩を叩く。
「ほーら沙月、もう大丈夫だよ~」
「さよ・・・?」
「さ、あっち行こ?バーベキューはじまってるよ」
「うん・・・」
沙月の手を引いて立たせ、その手を握ったまま沙陽はゆっくりと歩き出す。
「・・・こういうところはお姉ちゃんなのよね」
ケイコが呟いたが、それを聞いている者はいなかった。




