15.太陽の翼
「――翼羽ッ!!」
扉を開けて中に飛び込んだ瞬間、彼女はその動きを止めた。
「爽空・・・」
そして、すべてを悟ったように微笑む。
「やっぱり・・・来てしまったのね」
「来ないわけないでしょ!?どうしてまた何も言わずに・・・!」
沙月は――爽空は翼羽に詰め寄る。翼羽の手にはあの小瓶が握られていた。栓は既に抜かれており、もういくらも残っていないようだ。
「それを使ったら翼羽は死んじゃうんだよ?そんな風に助けられたって結羽姉さまは喜ばない!!」
「あなたならそう言うと思ったから、あの時も何も言わなかったのよ」
翼羽は哀しそうに笑い、小瓶を傾ける手を止めた。
「喜ばない・・・そうね。あの時は分からなかったけれど、今なら分かる・・・ママがどれだけ私たちを愛してくれていたか知っているもの」
手違いで与えられた愛だったけれど、母のくれたそれは何より温かかった。だからこそ、死んだ双子をどれだけ大切に想っていたかが痛いほど分かる。
“親より先に死ぬのが一番の親不孝”、それは姉妹である結羽と翼羽にももちろん当て嵌まる。
「ならどうしてこんなことをしたんだ?」
修が問うと、翼羽は微笑む。
「方法があるのに何もしないなんて・・・私はそんなに良い性格をしていないって、あなたならよく知っているでしょう?」
そうだ。翼羽は一度決めたら絶対に貫く。爽空と修がどんなに止めても、最後には付き合わせてしまうのが翼羽という女だった。いつだって爽空は翼羽に引き摺られる。逆らうことなど出来ない。
でも、今は。
「今度は絶対に止める。月になんて行かせない」
今だけは流されるわけにはいかない。ここで負けたら翼羽は死んでしまうのだ。
金色の瞳が爽空をじっと見つめる。
「ねえ、爽空。私は死なないわ・・・決して死なない」
「嘘。だってそれを使い切ったら月人に・・・」
「確かに肉体は死ぬわ。もう既に“沙陽”の身体は失われている」
儀式を行った時点で肉体は捧げられる。そして月の雫を使い切ることで魂も捧げられることになり、翼羽は一生月詠命に仕えなくてはならなくなる。転生することは二度とない。
使い切ってしまうまではこうしてこの世界に残っていられるが、もう翼羽の身体は戻らないのだ。
「月人って、何をするか知っている?」
「ううん、知らない」
修も首を振った。
「命様は月世界と日世界の輪廻を管理なさっているの。月人の役目は、命様の目となって魂の動きを監視することよ。だからね、爽空」
翼羽は微笑む。
「・・・私は死なない。月人になってずっとあなたを見守っているのよ」
「そんなの・・・!」
そんなものが何になるというのか。今このとき、翼羽は確かに死ぬのだ。爽空の目の前から消え去るのだ。
それが爽空と修にとってどれだけ辛いか、どうして分からないのだろう。いや、分かっているからこそ“ずっと見守っている”と言うのだろうか。
「・・・ごめんなさい、爽空」
翼羽が小さく呟く。
「待って!!」
制止する間もなく再び瓶は傾けられ――最後の雫が落ちた。
「あ・・・」
使い切って、しまった。
「どうして・・・どうしてよ、翼羽・・・!!」
翼羽はそっと目を伏せる。
「ごめんなさい。でもどうしたって私は・・・姉さまを放ってはおけない」
結羽の身体に生気が満ちていくのが分かる。今度こそ月の雫は結羽の身体を治した。
「馬鹿・・・」
なんて情けないのだろう。爽空は膝をつく。
「わたしはまた、何も出来なかったの・・・」
「・・・お嬢」
修が肩を抱いて、それに縋りつく。
「・・・どうして、わたしはいつも引き摺られてばっかりなんだろうね」
結局どこまで行っても翼羽に引き摺られる運命なのだろうか。それを覆すことは出来ないのだろうか。
「引き摺られているわけじゃありませんよ、お嬢は」
海色の瞳が爽空を覗き込んで微笑む。
「こいつは、『翼』ですから」
――“この子はね、『翼』なの。誰より自由に翔べるように、わたしがそう名付けたのよ”
「あ・・・」
思い出した。あれは確か、初めて結羽のお見舞いに行ったとき。
――“あなたは『空』・・・どうか、この子を自由に翔ばせてあげて。この子の全てを包み込んで、自由を与えてあげて欲しいの”
膝の上で眠る金色の髪を撫でて、結羽はそう言って微笑んだのだ。そして爽空は、それに頷いた。
「そっか・・・わたしたちは、最初から・・・」
決まっていたのだ。生まれたときから、ずっと。
「わたしは、翼羽を止めちゃいけなかったんだ」
空は翼を止めることなど出来ない。空に出来るのは――
「――全てを在るがまま・・・受け入れること」
爽空は立ち上がると翼羽の元に歩み寄り、彼女を抱き締めた。
「爽空・・・?」
触れることは出来ない、分かっている。それでも爽空はその肩を精一杯に抱き締める。
「ねえ、翼羽。空を翔ぶのは、気持ちがいい?」
「え、ええ・・・とても」
「そっか」
それなら、いいじゃないか。
爽空はただ、翼羽の翔びたい空であり続けるだけだ。今まで通り、翼羽の起こす風に流されてやるだけだ。
「傍にいてくれるんだよね、絶対」
「・・・ええ。約束よ」
金色の瞳と空色の瞳が交差する。
しばらく見つめ合ったのち、翼羽は目を閉じた。
「――どうか、忘れないで」
新たな月人を迎えるべく満月が輝き出し、翼羽は再び翼を広げる。
その眩しさに目を覆う爽空に囁く。
「――あたしはいつだって、沙月のそばにいるから」
一陣の風が吹く。
「沙陽・・・!!」
彼女の姿が見えなくなった。もう届かない、分かっていても手を伸ばす。
伸ばした手に落ちてきたのは、温かい雫。
「・・・どうして泣くのよ、こんなときに」
今まで何があっても涙を見せたりしなかったくせに。
月の光が収まっていく。それが完全に元の輝きを取り戻したとき、爽空は修の方を振り返った。
「・・・ねえ、修くん」
「何ですか?」
「わたしね、辛くはないんだ・・・ここには確かに、翼羽がいるって思えるから」
この胸には暖かい、太陽の翼がある。それは爽空の中で永久に羽ばたきつづける。
「・・・けど今は、ちょっと泣いてもいいかな?」
「ええ、どうぞ」
修は月を見上げて呟く。
「月を見て泣いたって、誰も文句は言いませんから」
光を放つ月。それは日世界のような寂しい青ではなく、彼女の瞳の色をしていた。。
それを見上げて、爽空はただ静かに涙を零す。声を漏らさずに泣けるようになったのはいつからだったろう。
「最期まで人騒がせな妹でしたよ、全く」
修が呟く。
「妹?」
「異母兄妹だったんです、本当は。あいつは知らなかったでしょうけどね」
その言葉だけで詳しい事情は窺い知れなかったが、修が翼羽に仕える意味が少しだけ分かった気がした。
「・・・どうかな」
修が怪訝そうな顔を向ける。
「もしかしたら知ってて言わなかったのかも。だってその方が、修くんを存分にこき使えるじゃない?」
「ああ・・・そうかも、しれませんね」
修はそう言って小さく笑った。
――まだ眠ったままの結羽の口元も、少し緩んだように見えた。




